五 私ノモノニ、ナラナイナラ
時間は少し遡り同日の昼、アイリアがニフュー家を訪ねていた頃。
レンキュリー男爵はフライフル辺境伯に呼び出されていた。
数日後には本格的に軍を動かして人攫い組織を潰そうという予定だ。そのための話し合いだろうと思っていた男爵は、まったく違った提案に目を丸くする。
「シェリア様と……うちの愚息が?」
「うむ。シェリアたっての希望でな」
「それは……光栄ですが……」
「言いたいことは分かる。だが書簡を送るのではなくこうして呼びつけたのは説明するためだというのは分かるな?」
「はっ」
縁談の申し込みはなにも面と向かってする必要はない。一度も会わなくても書類のやりとりだけで戸籍を結べる制度がこの国にはある。
しかし魔法使いの同士だとそれだけとはいかない。
「この論文を見てみろ。『教の国』がつい最近発表したものだ」
『掟の国』は魔法使いが興した国だ。閉鎖的ではあるが、魔法使いの総本山とも言える魔法協会のある『教の国』との国交は深い。
かの国が何かを発表すればこの国にもすぐ伝わってくる。
論文の内容は『魔法使い同士の血の交わりについて』。
「固有魔法が失われない……」
これまでの考え方は「魔法使い同士が結婚し子供を産むと両親のどちらかの固有魔法しか受け継がず、受け継がれなかった方は途絶えて『失われた魔法』になる」というものだった。
故に魔法使い同士の結婚というのは忌避されていて、国によっては禁止。
しかしこの発表は『失われた魔法』の懸念を解決する。
そもそも魔法の才能や固有魔法は直系の血に現れるものだ。
交わったふたつの家のうち受け継がれる固有魔法を有する方が、家系としての格が高い。なのでそっちが残る。
受け継がれない側――格下の家の固有魔法は『失われた魔法』になる……かと思いきや、また別の方法で残すことができる。
というのが論文の内容だった。
「つまり、アイリアが婿入りしてもルトーの子供に現れる可能性があると」
格下の家の直系が他の血に呑まれた場合、兄弟がいればその者の子孫に固有魔法が発現する。まるで空白になった座を埋めるように。
論文にはそのための実験記録と結果も書かれていて、男爵の言った通りレンキュリー家の固有魔法が『失われた魔法』になる恐れもなくなる。
「そうだ。だからこうして申し込むことができる」
「なるほど……しかし、わが家は男爵家。家柄が釣り合いますまい?」
「そこは辺境伯という立場を使えばどうとでもなる。娘の頼みを聞くことも……な。あとはそちらの返事待ちというわけだ」
「…………そう、ですか」
男爵は答えるのに躊躇した。
いま求婚を受けている息子はつい先日「エレーナと結婚できないかな?」と言ってきたばかりだ。なんでも告白されたという。
親としては尊重してやりたい。しかし貴族としては無視するしかない。
「謹んで、お受けいたします」
「そうか、娘も喜ぶ」
相手は主であり、辺境伯家。申し出をされた時点で断るという選択肢などないのだ。
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その後は男爵の予想通り作戦の話へと変わっていき、しばらくして休憩となる。
一度会議室を出た辺境伯は、屋敷内にアトリエとして与えたスペースでレオンが働いているのを見かけた。
「もう娘についていてやらなくていいのか?」
「辺境伯様。はい、元気になってくれましたので」
一応レオンにもしばらく休んでいいということは言っておいたが、こうして働いてくれるのはありがたい。
彼の作るデザインはいくらあっても足りないのだ。
レオンの手がけたゲストハウスは他の貴族たちにも好評で、「どうやってこんな素敵な屋敷を?」「わが家にも欲しい」と言われることも珍しくない。
以前まで貴族間でのフライフル家の評判は「中央から離れた田舎者」だった。国境を守る重鎮のはずなのに、それを理解しない者たちに軽んじられて、辺境伯の自尊心は踏みつけにされてきた。
王家にはそこまで軽視されていないが、侯爵あたりに鼻で笑われれば怒りもこみ上げた。
それが今では「素晴らしいゲストハウスで歓迎してくれる家」に変わっている。
彼はその評価に予想以上にしがみついた。
家、家具、装飾……たったひとりの平民から生み出されるものがフライフルの売りにすらなっている。
辺境伯もここまで話が大きくなるとは思わなかった。
最初に「この意匠は誰が手掛けたものですか?」と訊かれたのに対し「自ら考えた」と返してしまったのもいけなかった。虚栄心の大きな彼は後になってからしまったと思う。
それ以降、辺境伯は「美や意匠に造詣が深いお方だ」と社交界で囁かれるようになったのだ。
別に平民の手柄を貴族が取るのは珍しいことではない。例えばこれが天然資源だったなら別に本人が凄いわけじゃなくても誇れるものだ。
しかし個人の感性が如実に表れる分野では話が違う。もしバレては「あの辺境伯、平民の作品を自分のものと言ってますよ」と嘲笑われかねない。
己の自尊心と虚栄心にゆっくりと首を絞められているような後ろめたさを辺境伯は味わっていた。
なので作る予定がなくてもデザイン案だけは貯め込んでおかなければならないのだ。レオン本人にもしものことがあった時のためにも。
レオンもレオンで、自分のアイデアにこれといった固執はない。提供して生活できるのであればそれでよかった。
「辺境伯様、これは……」
「ん? おおすまない、置く場所がなくてここに放置したままだったか」
レオンに言われて気付いたのは、広げられた戦略地図だった。
フライフル領全域が描かれていて、そこには人攫い組織の拠点やルート、金の流れや人員など細々としたものまで記載されている。
会議に使うのではなく、あくまで辺境伯のメモのようなものである。
「――ずいぶんと、詳しく調べてあるのですね」
「うむ、奴らには長年悩まされてきたからな」
悩まされたと言う割には――レオンは思う。
いくらなんでも詳しすぎだ。
それに地図をよく見ると不自然なことにも気付いてしまう。
例えば、賊がこのルートを使えるのはおかしいとか、あの拠点はどう見ても見逃されてるとか。
娘が無事に帰って来たのは辺境伯のおかげ……だが娘が攫われたからこそレオンも敏感になる。
「しかし、これはまるで最初から――」
「レオン」
言葉を遮ったのは有無を言わさぬ威圧にも似た声色。
「娘は戻り、悪人どもは消える。それでよかろう?」
「…………」
「仕事を続けたまえ」
その態度はほとんど答えているようなものだ――レオンはなんとか言葉を呑み込んだ。
そして彼が帰宅すれば、日が沈んでようやく帰ってきた娘がかつてないほど不機嫌になっているのだった。
□□□□□
夜、好物の魚も喉を通らず、エレーナは自分の中の荒れ狂う感情を御しきれない。
こんなことは9年間生きてきて初めてのことだった。つい口調も尖ってしまう。
「エレーナ、昼間の話だけど――」
「後にしてっ!」
自分から出る黒い何かの正体など、いま頭を悩ませるものに比べればちっぽけもちっぽけ。
アイリアと結婚できない。彼はシェリアと結婚する。
とても受け入れらるものではない。
「食べないの?」
「いらないっ、寝る!」
「ちょっ、エレーナ! あの子、どうしたのかしら……?」
両親はそんなエレーナに話を聞こうとするも、本人が話そうとしない。
恥ずかしくて隠していた告白の話。それがダメになったと誰が今さら言えようか。情けなくて話せない。
寝室の家具ですら見るだけでイライラする。試しに蹴ってみたら指が痛くなってよりイライラした。
イライラ。
ズキズキ。
イライラ。
ズキズキ。
ズキズキ。
レンキュリー男爵が婚約を承諾したということは、アイリアはシェリアと結婚することが内定したということ。
未来を想像してしまう。
2人がレオンとリリィのように微笑み合って、一緒にご飯を食べて、一緒に寝て、いつか子供が産まれて――
ズキズキ。
イライラ。
ズキズキ。
ズキズキ。
それから数日、エレーナは引き篭もった。
元々攫われていたから数日は周りもそっとしておくつもりだったし、フライフル家での勉強に行かなくても何かを言われるということもない。
ご飯を食べる時だけ両親と顔を合わせて心配されて、その時もぶすーっとしたまま。
両親も両親で、アイリアの家から帰ってきてこうなったから彼関連かとも思ったが、深く訊いてなにか悪化するのも怖いので放置。
フライフル家から使いの者が来るまで、その生活は続いた。
□□□□□
エレーナが辺境伯家で勉強に勤しむのは、向こうからの善意あってのこと。
だから行かなくてもいいし、辞めてもいい。あくまでシェリアと一緒にいられるようにという前提があったからだ。
しかしシェリアから呼び出されたらには行かなければならない。相手は貴族だから。
父レオンに連れられて屋敷を訪れ、入り口で別れてシェリアの部屋へ。
「……………………」
目の前の扉が大きく見える。
開けたくない。会いたくない。回れ右して帰りたい。
シェリアとあんな話をした後に誘拐事件があって、どさくさに紛れてアイリアに告白した。エレーナが無事と分かって泣いた彼女の手前、バツが悪いどころの話ではない。
それに加えてすべてを横から搔っ攫われた怒りもある。
怒り……怒っているのだ。エレーナは。
今までシェリアにそんな感情を抱いたことはなかったし、そもそも怒りの感情すら慣れないもので、ともすれば初めてのもので、だから発散のしかたも分からずにに引き篭もっていた。
怒りの原因は扉の向こうにいる。
あの時の怖かったシェリアを思い出して帰りたくなる気持ちと、怒りをシェリアにぶつけようという気持ち。
ふたつがせめぎ合って、天秤は怒りに傾いた。
「…………よし」
怒鳴ってやる。怒ってやる。
決意と共に扉を叩き、短い返事の後に開ける。
「遅いッ!!」
姿を見るなり真っ先に怒鳴ったシェリアに、エレーナの威勢は一気に萎んだ。
「なにしてんの、入りなさいよ」
「ぁ、う、うん……」
扉を閉める。勢いを削がれたがまだ大丈夫。振り向きざまに怒ってやる。
「――ふぅ……シェリ、あ……」
だがそれも不発。
シェリアがすぐ背後に立っていて、目が合ってしまった。
その目は冷たく、凍えてしまいそう。
顔のすぐ横をシェリアの手が通り過ぎていく。その手はエレーナの後ろ――扉にドンッと置かれた。
「ねぇ」
「っ、あの……」
「アイリアから聞いたわ」
聞くと耳を通して頭と胸をザクザクと刺す、底冷えするほどの鋭利な声。
エレーナの声帯が収縮し、まともに受け答えもできなくなる。
あの時の怖いシェリアだ。
「あの日にあんなことしてたなんてね」
「あ……あの、えと……」
□□□□□
エレーナが引き篭もっていた数日の間に、シェリアとアイリアは婚約者として一度顔を合わせた。
彼もまた、感情が乱れていた。13歳という年齢はそれを表に出さないように努力することが難しい。
だから漏らしてしまった。シェリアに。
『エレーナと結婚するつもりだったんだ』
アイリアにとっては愚痴だった。
少年が抱いた恋心を取り上げられただけのことだった。
時間が経てば幼い日の淡い思い出となって、貴族としての責務や好ましい幼馴染との生活に塗りつぶされていくはずのものだった。
シェリアにとっては呪いだった。
長年秘めてきた幼馴染への恋心、魔法使いであることや身分差のしがらみでも消すことのできなかった想い。
それが成就し舞い上がっていたシェリアにとって、その言葉は飛ぶ鳥を叩き落とす豪雨にも似ていた。
『どういう、こと?』
『エレーナに告白されたんだ。結婚したいって』
『いつ……?』
『あの時……奴らから助けた時』
聞いて、確信した。
エレーナが出し抜こうとしてきたのだと。
□□□□□
「私言ったわよね? アイリアは私だけのもの、あんたが好きになることは許さないって」
全部バレていて、当然彼女は怒っていた。
手を引く側と引かれる側という普段の彼女との関係から、咄嗟に言い訳を探す。
でも見つからない。
全部事実で、エレーナはシェリアの言葉に真っ向から背いたのだから。
「なのになんで?」
「あ、私……っ」
「あんたは私の言うこと聞くだけでいいって、言ったでしょ!」
空いていた手が胸ぐらを掴み、小さな体を床へと転がす。
これも初めてのことだ。叩いたりではないけど、暴力に近しいもの。
「私のもののくせに、どうして私の言うこと聞けないの!」
シェリアは独占欲の強い人間だった。
そして、苛烈な人間でもあった。
大抵のことが思い通りになる人生で、もっとも欲しいものに傷をつけられた。
自分のものであるはずのアイリアが、自分のものであるはずのエレーナに惹かれた。
それは並みの怒りではない。
エレーナが抱いたものと同じ怒りを、シェリアも持っていた。
13歳の少女は幼い恋心が持ってくる衝動のままに感情をぶつける。
それでも手をあげるようなことはここまで。
シェリアにとってはエレーナもまた自分のもの。
今回は躾が足りなかっただけで、これから分からせていけばいい。
そう思っていたが――
「………………さい」
「なに? 聞こえないんだけど」
「うるさいっっ!!」
エレーナの怒りが恐怖を上回った。
初めて見る彼女の怒った声、睨むような目。シェリアは一瞬たじろぐ。
「シェリアだって、無理やり私から取ったくせに!」
「はぁ? 最初に好きだったのは私なんだから、取ろうとしたのはあんたでしょ!」
「でも! 私も好きだった!」
「そもそも、分かってたことでしょ? 私がそうするって言ったらそうなるの。平民のあんたが何かできるわけない」
この場において、シェリアの言っていることは正論ではあった。
貴族で、上下があって、上がそうと言えばそうなる。
先に気持ちを抱いていたのもシェリアで、打ち明けられて横取りしようとしたのはエレーナだ。
しかしそんな正論は感情を抑制する材料にならない。
「シェリアなんて嫌いっ!!」
エレーナは溜めに溜めた怒りを解放した。
よくあることだ。子供の喧嘩で相手を嫌いと言ってしまうのは。
しかしエレーナもシェリアも、真っ向から嫌いと言われることに慣れていない。
それはまるでつないだ手を離そうとすることに等しくて、シェリアは思わずエレーナの頬を叩いた。
「…………ぁ……」
「えっ…………?」
手をあげた本人すら驚く。
ずっと仲良しで、ずっと友達で、ずっと手をつないできた。
よくあることだ。子供の喧嘩で相手を叩いてしまうのは。
しかしエレーナもシェリアも、叩き叩かれることに慣れていない。
ジンジンと熱い左頬を、エレーナは他人事のように触る。
数秒固まって、起きたことを認識する。
事実と痛みが頭に染みて、現実がやってくる。
「っ……」
シェリアにぶたれた。
頭にコツンとされるものではなく、白い肌に赤を残すものが。
「ぁ、エレーナ――」
「っっ! うわあああぁぁぁぁぁぁん!! シェリアの馬鹿ぁ!!」
エレーナもまた、つながれた手を離されたような感覚に陥った。
その手で救われるのではなく傷つけられた。
依存じみたシェリアへの思い。梯子を外された気分になり、裏切られたような痛みがあった。
手元に落ちていたクッションを掴み、投げる。
柔らかなそれはシェリアを傷つけるには至らないが、明確な拒絶を示す。
「わたしはっ、シェリアのものじゃない!! 大嫌い! あっち行って!!」
「は……………………?」
茶色の瞳が全体を露わにするほど見開かれ、シェリアの動きが止まり全身から血の気が引く。
後に残るのは、熱を失った胸の内。
「…………そう」
シェリア本人ですら驚くほど冷たい声。
彼女の中にはエレーナとは根本的に違うものがある。
貴族と平民。
それは己が意識しなくても、意識しないようにしても生活や価値観には差異がある。
たとえ身分の関係ない友達として扱ってきたエレーナ相手でも……いや、手を引いてあげていたエレーナだからこそ、そこには上下があった。
手を差し伸べなければずっと暗がりで泣いていた、かわいそうな女の子。
その子は手を引いてあげなくちゃいけなくて、そうしてやってきた。
平民が貴族に逆らうなどあってはならない。引かれる側のくせに手を離してはならない。
こんな反抗を、自分のものであるエレーナがしていいわけがない。
だから――
「なら、もういい」
見据えた赤い瞳が揺らぐ。
「私のものにならないのなら、あんたはいらない」
炎がそのまま氷になるように、怒りが冷徹を連れてくる。
貴族の跡継ぎとしての教育、本人の生まれ持った気質……それはまるで食事中に落ちたカトラリーを視界から消すように――
この日この瞬間、シェリアは人生からエレーナを切り捨てた。




