外伝16 痛いの居たいの飛んで生け
暗闇の地下通路での戦いが終わった直後、マァゼが魔法で地面を掘削し真上から登場。彼女に順路という言葉はなかった。
そこに居たのは尽きかけて明滅する緑の光と涙ぐむナギサと、生きているか死んでいるかも分からないレンファンと、生きてはいるもののピクリともしないゼァジョウ。
とりあえずマァゼはナギサとレンファンを外に連れ出し、ここに来る直前のシンテン家でのやり取りを思い出してゼァジョウをついでに助け出す。
ここで彼が死ぬとレンファンの立場がどーたらこーたら、というのを覚えていた。えらい。
「ご飯! ご飯ありったけちょうだい! 早く!」
シンピョウ家本邸の一室を使いレンファンを寝かせ、ナギサはとにかく大量の食糧を貪りながら常に治療をかけ続ける。
ボックスは万能だが、ナギサも言った通りすぐさま怪我が治るというわけではない。毒と出血でレンファンが死ぬか、峠を越して回復が勝つか。
ボックスのバイタルチェック機能を使って浮かび上がった表示は、ナギサの求める状態ではない。
「(輸血はできない……そんな技術ここにはない……!)」
ナギサの思い浮かべる輸血とは、感染も不一致もない完璧な血液の創造と補給。
こんな場所でそれを望むのは現実的ではない。殺菌はボックスでできるが血の判別などできるわけがない。
食塩水を作って点滴をと考えたが、注射用の針が無い。代用できそうなものも無いし思いつかない。
タンパク質を摂らせようにも、今のレンファンにそれらを消化するほど元気がない。消化に良いものなら……と思っても瞬時に例を出せるほどナギサに知識はない。あれだけ普段から物を食べてるのに……自分が恨めしくなった。
結局レンファン自身に賭けるしかなくなった。
そうして数日、ナギサは寝ずに食べながらボックスを翳し続けた。
ゼァジョウは残っていたシンピョウ家の使用人に投げてからは知らない。
AMエリアは張られたまま。意識を取り戻しても【隠形】でこっそり姿を消すことはできない。
それを抜きにしても数日で動けるような状態でないことは誰の目にも明らか。ナギサが気にすることではない。
治療は万能。しかし万能とはあくまでどこにでも手が届くという意味でしかない。傷も毒もまとめて癒すが、傷と毒では『治療』という機能にとって届き方が違う。
要するに毒は治りにくい。
レンファンの外傷はほとんど回復したように見える。あとは毒が命を奪う一点を超えていたか、今も超えているか。
その答えを出すかのように、やがてレンファンの息が止まった。
□□□□□
――おいで
――おいで
――おいで
「どうして?」
――おいで
――おいで
――おいで
沈んでいく。底のないどこかへ。
自分という存在の境界が、輪郭が、そのものが曖昧になり、溶けていく。
ここには呼吸なんてなくて、息継ぎもできなくて、傷も元からなくて、必要なくて。
溺れるという概念すらない世界。
ただ深く、
深く、
深く、
深く、
深く、
浮き上がれないほど沈んで、そうして会える。
目覚めることのない、永久の夢底。
そこで会える、もう会えない人。
白い手が頬に触れて、何かを語りかけてきてるようで、手つきは慈しむようで。
一滴だけ、涙が零れた。
「ごめんなさい……」
ずっと会いたかった。焦がれていた。
死ねば会いに行けると思っていた。
夢の中だけじゃ足りなくて、何もかもを投げ捨てたくて、捨てたものもあって、たどり着くべき場所にたどり着いた。
そして会えた。
「ごめんなさい……」
ここに来ることを望んでいた。
「ごめんなさい……」
なのに――
「ごめんなさい……」
この手にすべてを預けられなかった。
消しきれなかった。
浮かびたいと思った。
呼吸をしたいと思った。
水面から顔を出して、会いたいと思ってしまった。
自分と他との境界が蘇り、手というものの感覚が蘇り、上へ伸ばすことができる。
頬に振れていた手が離れる。
そのまま背中に回り、押してくる。
まるで水面を求める意思を助けるようで、やりたいことを助けてくれるようで。
口を開く。呼吸という概念が蘇る。
溺れる。
溺れる。
溺れる。
息をしたい。
底もなく光も届かない場所から、浮上する。
光が近付く。水面が近付く。
背中を押していた手が離れ、淡く白い光を放つその人もまた、離れていく。
その姿は確認できない。今だけは愛しい後ろを振り返らずに、手の向かう先しか見えない。
だからその人がどんな姿で、どんな表情で、どんな思いで送ってくれていたかは分からない。
けれど、どうしようもなく溢れるから、伝えたくなるから、想いのすべてを乗せて伝えた。
「愛しています、ずっと」
□□□□□
「――ゴフッ、ごほっ、ヒュー……」
「ぷはっ、レンファン! マァゼちゃん心臓もういい!」
「はいなのっ」
「レンファン聞こえる!? 息、してる……! 心音はどう!?」
「動いてるのね。本当に生き返ったの!」
「よ……よかったぁ……」
脈がなくなったレンファンを見て、ナギサは動転すると同時に冷静になった。
とにかく人工呼吸と心臓マッサージを繰り返して、それでいてボックスの治療も続けた。
途中から自分が呼吸係、マァゼをマッサージ係にして何分か粘り、そして取り戻した。
「あ、あの……言われた物を持ってきましたが……」
「そこ置いといてください」
さっきシンピョウ家の使用人に怒鳴るように要求した物は、腸詰め用の動物の腸と小さなザル。どちらも厨房にあるもの。
ザルの底に穴を開けてそこに中身のない腸を管として差し込み、そこに空気を送り込む人力の蘇生バッグを用意しようとしたが、レンファンが息を吹き返した以上用済みかもしれない。
「峠、越した……? バイタルチェック」
ボックスがレンファンの容態を映し出す。
呼吸、脈拍、共に乱れはなくなっている。
「レンファン、飲める?」
差し出したのは、リハビリの時にも役にたったスポドリ。経口補水液代わりだ。点滴による血流の補助は望めないかもしれないが、無いよりマシという考え。
コップから小さな口に注ごうとして、レンファンがむせる。
「ごっ、ごめん!」
「ナギサお姉さん、大丈夫ー?」
「大丈夫って、何が?」
「すごい顔してるのね」
「えっ?」
傍にある机に置かれた鏡に映るナギサの顔はひどくやつれていた。
暴飲暴食しながらフル稼働するボックスにエネルギー供給をし続け、それが何日も続いた。寝ずに。平気でいられるわけがない。
自分の顔を確認したのがきっかけになったのか、忘れていた眠気と疲労感が堰を切ったように押し寄せる。
ナギサは糸が切れた人形のようにふらっと倒れた。
□□□□□
そのまた数日後、シンテン、シンズ、シンチェン、シンエイ……4家の代表とその兵合計3000がシンピョウ領へと押し寄せた。
当主たちは手勢と共に警備のいない本邸へと入り、戦闘もなく制圧。
彼らは意識を取り戻したゼァジョウの目の前に並び、ヤオハオが口火を切った。
「ゼァジョウ・シンピョウ、貴殿には国家元首暗殺の容疑がかけられている」
ゼァジョウはすべてを察した。
「テメェら裏切りやがったのか……! なんでシンエイまでそこにいやがる……!」
「何を言っているのかね。もし我々とユータオ嬢との密約のことを言っているのだとしたら、それは裏切りとは呼べない」
相変わらず当主代理としてその場に立つワンシュ・シンチェンは鼻で笑う。
ユータオも嫋やかに口を開く。
「私たちは最初からシンピョウ家を陥れるために動いていました。罠というものですね」
「シンロウ家には話すら通していない。最初から蚊帳の外でいてもらったよ」
「なっ……! シンチェンがシンテンの味方をしたってのか! それでもお前ら……!」
「勘違いするな」
小太りワンシュの声には威厳があった。
「我らは七家聖。たとえ現国家元首に不満があろうと、それを害する者を許しはしない。我々は国の根幹を成す家ぞ」
「それぞれシンテン家には間者を忍ばせていますからね。あなたの命令で医者に毒を盛らせていたのは八席会議よりも前に知っていましたよ」
「私は間者のこと初耳だったんだけどね……」
「俺はアンタの吠え面を見に来たぜ。もちろんこの2人と同じく七家聖として国家元首側だ」
ヤオハオが苦笑いし、ボーハンが思い切り嘲る。
ここにいないシンロウ家は言葉通り蚊帳の外であり、この騒動のことを知らされてすらいない。
シンヤン家は興味ないと言わんばかりに不干渉を貫いた。
「クソッ、じゃああの小娘がこっちに来たのは……!」
「ええ。ナギサさんをあなたが攫ったことにすれば、レンファン様が動いてくれると思いましたから。まさかここまでやるとは思いませんでしたが……私たちの軍を消耗させない良い案でしょう?」
放置されたままの広場の惨状を窓から覗き見て、ユータオは「まぁ恐ろしい」とわざとらしく震えた。
「本当はよきところでここに来る予定でしたが……軍を動かすというのはやはり時間がかかりますね。それにレンファン様ったら、教えたその日のうちに飛び出してしまうんですもの。ずいぶんと間が空いてしまいましたわ」
経験が浅い故に手落ちもあったが、ほとんどはユータオの思惑通りに帰結した。
八席会議の前、ゼァジョウを罠にはめようとワンシュに提案したのは彼女だった。
シンチェンとしては反乱してもよかったが、国を混乱に招くのはやはり望ましくない。しかし他の七家聖を削りたい……あわよくば潰して六にするのもいいと思い賛同。
八席会議ではゼァジョウに同陣営かのように思わせて、ついでに自分たちの損耗を抑えるためにレンファンという駒をいいように動かす布石を打ち、水面下で事を進める。
あとは元々シンピョウ家をよく思っていないシンエイ家当主のボーハンに話を持ちかけ、シンピョウ家の後釜に座るかのように裏社会でのあれこれを材料に味方に引き入れ、レンファンが突っ込むのに合わせて軍で制圧する。
ヤオハオがその計画を明かされたのは、レンファンに「ナギサが攫われた」と訪ねた日、彼女がシュウェイに気絶させられ眠っていた時のことだ。
「ゼァジョウ・シンピョウ、国家元首暗殺未遂、此度の挙兵未遂、いずれも国家への反逆である。到底見過ごせるものではない。我らシンチェン、シンズ、シンエイ家はこの場でこの謀叛者の処刑、そしてシンピョウ家取り潰しを提案する」
「馬鹿な……! 七家聖が寄ってたかってひとつの家を潰すだと!? それがどういう意味か分かってんのか! んな前例を作りゃありもしない密告合戦がまかり通るってことだぞ!」
「馬鹿はあんただよ。誰だってそういった線引きを弁えてる。それを超えたのはあんたで、それはつまり寄ってたかって潰されてもおかしくないことだっただけだ。やりすぎたんだよあんたは。小悪党でいりゃいいものを……次の武術大会もそんな遠くなかったってのにな」
自分は有利な体制側につき、追い詰められた相手に好き放題言えるこのタイミングで全部言い切る。
ボーハンは小物であった。
「シンテン家および国家元首として、その提案を受け入れよう。処刑と取り潰しついてはしかる後に中央で発表、実行に移すものとする」
ヤオハオに3人が跪く。臣下の礼だった。
□□□□□
目覚めた時、レンファンは全快していた。
ありえないことである。解毒はともかく、外傷が数日で痕すら残らずきれいさっぱり消えるわけがない。
数日寝ていた分の体力の衰えはあるかもしれないが、それ以外は怪我をする前のまま。普通に動ける。
自分の体を見るだけでも驚いたのに、「あ、起きたんだおはよー……」とやつれたナギサや、床につきそうなほど長い腸詰めを頬張っているマァゼの意味不明さもすぐには理解できない。
さらには椅子に座って夢の世界に旅立ちそうな船をこぐユータオの姿もあって、混乱が極まる。
レンファンが峠を越して、ナギサが過労で倒れて、諸々の話を終えたユータオが看病すると居座って、マァゼは使わなくなった腸に肉を詰めてもらったという単純な出来事の積み重ねであるが。
「――ということです。レンファン様、ナギサさん、あとマァゼ様。この度は大変ご迷惑をおかけしました。シンズ、シンチェン、シンエイ……七家聖として謝罪申し上げます」
ナギサを囮とし、レンファンを使い捨てのように差し向けた今回の計画。
ユータオはけじめとして平民である彼女らにも頭を下げ、沙汰を委ねるように身を差し出した。
下手をすれば……いや普通に考えればかなりの確率でレンファンもナギサも死んでいてもおかしくなかった状況だ。
レンファンの様々な表情を見られたことに満足したユータオは、ここで殺されても仕方ないと思っていた。彼女の基準は色々と狂っている。
「お怒りはごもっとも。今この部屋の中において、私とあなたの地位に違いはないと表明しましょう。私の命をもってお詫びとなるのであればそれでもかまいません」
「…………」
言いたいことは山ほどあった。
でもまぁ、政治とは汚い世界だ。誰をどう利用しようとそれは自然なことだし、当人たちの感情は別としてもユータオが国に忠を尽くす貴族としての行動を起こしたのが事実。
レンファンもそれは頭では理解できている。
ゆらりと立ち上がり、ユータオへと近付く。今なら下げられたこの頭を上から踏み潰しても、誰も咎めない。
横で見ているナギサにもユータオに対する怒りはある。しかしそれ以上にレンファンが凶行に出ないかハラハラする。マァゼは腸詰めを食べ終わった。
「私の望みを叶えて謝罪を受け取ったとしていいですね?」
「はい」
「なら……」
レンファンが膝をつき、床に額を擦りつけた。
その頭頂部が下を向いていたユータオの視界にも入り、思わず頭を上げてしまう。
「レンファン様、何を?」
「あなたの客人であるナギサを、解放してください」
素直に頭を下げられて、隣でハラハラしているナギサと2本目を食べ始めたマァゼを見て、なんだか毒気が抜かれてしまった。
そして残ったのは、死に瀕するほど戦った理由。
「七家聖のあなたにとって、平民である私の言葉が届くのが今であるならば、私が望むのはナギサだけです」
ナギサは正式な客人で、この国の大貴族にとって客人とはほとんど身柄を好きにしていいようなもの。
適当な親戚と結んで縁者としてもいいし、前にユータオが迫ったように特別な関係になってもいい。
そして客人が貴族の了承なく逃げ出すのはすなわち家を敵に回すことになる。
「もっと他にありませんの? 私を殴るとか殺すとか」
「そうしたいのはやまやまですが、私はあなたに興味がないので」
「…………もし私がナギサさんを返さないと言ったら?」
「ユータオさん!」
たまらず当人が口を挟みそうになるところを、レンファンが跪きながら器用に手で制した。
「その時は、攫って国を出ます。追手を差し向けないことを謝罪としていただきたいです」
「わっ私も逃げ出す!」
「あらあら、これでは私が悪者みたい」
「悪者でしょ……」
「ふふっ、そうでした。ナギサさん、今まで私のわがままに付き合っていただいてありがとうございました」
客人に法的な制度や書面は無い。相手が平民なら貴族側が一方的にあれこれ言える、一歩間違えれば人攫いのようなものである。
なので分かりやすいものはないが、ユータオははっきりと解放を告げた。
「でも、もしナギサさんが私と同じ高みに来たかったらいつでもお手伝いしますね」
「低いんだなぁ!」
「飽きたらいつでも言ってください」
「何に飽きると!?」
「ナギサ、行きますよ。これ以上あの顔を見てると殴りそうです」
さっきまでの態度はどこへやら、レンファンはさっさとナギサの手を掴んで部屋を出る。このままシンピョウ領も出ていく勢いだ。
「マァゼ、2人担いで飛べますか?」
「え、無理なの」
「馬車なら出しますよ~私も同席しますけど」
とっとと中央にでも帰りたかったレンファンは過去最大級に嫌そうな顔をしながら結局ユータオの世話になることになった。




