外伝13 你教我的呼吸 前
その話を聞いた時、私の体は勝手に動いた。
顔を見ただけでも怒りが湧いてくる相手が、信じられないことを言ってきたのだから仕方ない。
「貴様ぁぁッ!!」
右手で作った拳をそのままぶつける。女性の顔を狙うとは――などというものは私にはない。
彼女の従者が庇うよりも先に、彼女の左頬を打ち抜いた。
これでも私は冷静だ。体は湯気が出そうなほど熱を帯びているが頭は冷えているはずだ。
今の一撃で殺していないし、気絶させてもいない。頬が晴れる程度のものに留めているのだから。
だから大丈夫、もう数発殴っても――
「レンファン!」
ヤオハオ様に後ろから羽交い絞めにされてできなかった。
私は冷静だ。拘束を力ずくで解かなかったから。
頭が真っ白で、何を言っていいか分からなくて、とにかく目の前の女への怒りがいっぱいで。
女は懐から小瓶を取り出すと中身を自分の頬に塗り始めた。
殴られることを承知で塗り薬まで用意している、そんなところがまた私を刺激する。
なによりあの目――私を見て細められるあの目。
八席会議で会ってからずっと感じていた、粘つくような視線。
何が楽しいんだ、何が嬉しいんだ。ぶん殴ってやる。
「落ち着きなさい。あなたはもう八家聖ではないんですよ!」
必死そうなヤオハオ様の声も右から左で、再び右の拳に力が入る――
私は冷静じゃないかもしれない。
「申し訳ございません、レンファン様」
女がぺこりと頭を下げて、熱が少し下がる。
素直に謝罪してくるとは思わなかった。この女はもっと性格が悪いと思っていた。
「私たちの不注意のせいで、あのゼァジョウ・シンピョウにナギサさんが連れ去られてしまい……ああっ、ナギサさんが何をされるのか……もしかしたら見せしめのために手籠めにされて殺されるかも……そう思ってしまうと、私も苦しくて仕方ありません」
女は心から申し訳なさそうに、悲しそうに言った。
私の熱がまた上がる。
顔を伏せ、胸の痛みを堪えるように手を当てる姿は同情を買うかもしれない。
でも一瞬だけ、本当に一瞬だけ見えた。
その瞳が私を見て笑っているのを。
「あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁァァッッ!!」
「落ち着け馬鹿者が」
横から声が聞こえたかと思ったら、首根っこを掴まれて地面に這いつくばっていた。
一歩遅れてシュ師が私を抑えつけていると認識する。
「シュ師……!」
「一発だけでも首が飛ぶんだぞ、今のお前とユータオ嬢の身分差はな」
落ち着けるわけがない。
マァゼがこの女の屋敷に行ったのも、そこで攫われたと話したというのも、全部一昨日の話じゃないか。
ナギサのボックスは万能だけど動力は有限だ。食事をしないといずれ尽きてしまう。ナギサを守るものがなくなり、本当に傷つけられ殺されでもしたら……
相手は貴族。ナギサが未知の特殊なもので守られてると知ったら興味を持つに決まってる。無力化しようとするに決まってる。欲しがるに決まってる。
ただでさえ時間がないというのに、攫われた2日後に私のところに来る? 狙ったか知らぬかは分からないけど、これだけは言える。ふざけているのか。
「マァゼッ! あなたも……!」
「あまり責めないであげてくださいまし。わが家に来た時にはボロボロで疲れ果てていたようですから」
「お風呂入ってたら寝ちゃったのね……」
天使って疲れるのか。いやどうでもいい。
本気で悪いと思ってるのだろう、目を合わせようとしない。初めて見る態度。
そんなことすらどうでもいい。
ナギサだ。ナギサを助けに行かないと。
「シュ師、放してください! 私はナギサを――」
「シンピョウ家に殴り込むつもりか? 俺が今言ったこと忘れたか?」
「だからなんですか! 私なんてどうだっていいでしょう!」
「お前だけならな。だがお前が今居座ってるのはシンテン家だ。国家元首が八……七家聖に刺客を放ったと捉えられたらどうする? 迷惑を被るのは他でもないヤオハオ殿だぞ」
残った理性も私を抑えようとしてくる。
ヤオハオ様には少なくない恩がある。シンテン家に迷惑をかけることは私だってしたくない。
でも、ナギサとヤオハオ様が同じ天秤に乗ったら、傾いてしまっているのだ。今の私は。
「でもっ!!」
「ハァ……少し頭冷やせ」
言い返そうとして、私の意識は無理やり途切れた。
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すぐに目覚めた気がする。
気がするだけで、実際にはかなり時間が経っていた。多分シンテン家の屋敷の一部屋。窓の向こうは夕焼けに染まり、薄暗い部屋に橙を届けている。
「起きたの?」
「マァゼ……」
「マァゼたちはお部屋にいなさいーってみんな言ってたの」
「あなたのことだからそういうのを気にせず勝手に飛び出してるかと思いました」
「それでもよかったんだけどぉ……レンファンが起きるまで待ってたの」
「どうして……?」
「だって――レンファンもお姉さん助けに行きたいでしょー?」
ニッと笑うマァゼは、どこか頼もしく感じた。本人には言ってやらないけど。
「あの桃色のお姉さんはゼ……ゼァなんとかって奴は危険だからマァゼひとりだと危ないーって言ってたけどぉ、レンファンとふたりなら危なくないかもしれないのね」
屁理屈だ。1人が2人になったところで何も変わってない。
でも、私とマァゼなら変わる。
マァゼは天使で、私だってまだその辺の連中よりずっと強い。
「どうせなら、起こしてくれればよかったのに」
「起こしたけど起きなかったのね」
「だったら気絶したまま運んでくれれば……」
まぁ今さら言っても意味ない。マァゼはバカだから仕方ない。
でもバカで済まされないことだってある。
もし最悪の事態になったら、過ぎたことだと割り切れなくなる。その前に動かなければ。
「ならさっさと行きますよ。見張りもいないし、窓から出ましょう」
「あっ、なら飛んでいけばいいのね! 担いであげるー」
天秤にかけて軽くしてしまったヤオハオ様には悪いと思う。何かあったら心苦しいというのも本音。
私は部屋にあった紙と墨で『申し訳ありません。私のことは切り捨ててください』とだけ書置きしてマァゼに担がれた。
あっそういう感じ……抱かれる犬猫のようになってしまった。
この体勢で飛ぶの脇か肩が死にそうだけど……きっと大丈夫だろう。
窓に鍵はかかっていない。誰に気付かれるよりも前に私たちは飛翔した。
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太陽が山々の向こうに沈み、月と空を覆い尽くす星々の光に照らされ、私たちは空を行く。
もし星を見ている人間がいたら驚くことだろうけどそんなこと今さら気にしない。
自分たちが踏みしめている大地のはるか上に来たのは初めてで、普通なら感動か恐怖する光景なんだろうけど気にしない。
風を切るマァゼの腕を命綱にしながら考えるのはひとつだけ。
私が気絶していたこの何刻もの間にナギサが手遅れになっていたらどうしよう。
シンピョウ家がユータオのようにナギサとお友達になりたいから連れて行ったなんて考えられない。裏社会を支配し汚れ仕事を生業とする家だ。
乱暴に攫ったのなら満足な食事を与えていないかもしれない。普通の一人分の食事を与えられてたらいい方だ。でもナギサにはそれじゃ足りない。わざわざ大食いに合わせて大量に食べさせる……なんてするとは思えない。
そうなればボックスは切れて、守るものがなくなって……
ああ、だめだ、嫌な方に考えてしまう。でも現実的な想像なんだ、これが。
「でもどうしてシンピョウ家がナギサを……」
シンズ家から攫うとなると考えたのは当主であるゼァジョウだろうけど、彼個人がナギサに興味を持つ理由がない。
両者の面識だって八席会議にユータオに連れられて行った時だけだろう。まともに会話もしていないはず。
女に困る立場でもない。なら政治的な理由……
『ユータオが賛成票に入れた理由がナギサにある』というところから何かを感じ取ったのか。
でもナギサはただの冒険者で、記憶がないだけで……
いや、ただの冒険者でない。
なにせ天使が護衛についている。
そういえば私もどうしてマァゼがナギサの護衛なのか、理由を知らない。
天柱教の上から数えた方が早い要人の娘が家を出て冒険者をやっている……とかでもないはず。
天使なんて少し前までは歴史か物語の存在だったのに、それがなんでナギサを……少し考えれば疑問だらけなのに。
「マァゼ、訊いてもいいですか」
「なんなのー?」
「マァゼはどうして、ナギサを護衛してるんですか?」
「主天使様に言われたからなの」
「主天使はどうしてナギサに護衛をつけるんですか?」
「えーっとぉ……それはねー…………うーん……言えないの」
こんなの何かあるに決まってるようなもの。
詳しく聞こうとしてもはぐらかされる。マァゼは嘘をつけるほど器用じゃないから、言えないことを言えないと答えるしかない。
ゼァジョウは何かを察したのだろうか。だから攫ったのだろうか。
七家聖同士で問題になりそうなのに、それを承知で敢行するほど……分からない。
考えずにはいられないけれど、理由を考えたところで意味がない。起きてしまったことがすべて。
とにかく私の胸中に訪れるのは後悔。
考える中でつまびらかにされるのは私の愚行。
「私……ちっともナギサのこと、知ろうとしてなかった……」
押しかけてきて、居座って、だから知ろうとしなくても勝手に知っていった。
私はただそれを受けただけ。私からナギサを知ろうとは……一回も……
こんなに会いたくて仕方ない相手なのに、私から向けるものが何もなくて、くれるものを受け取るだけで、一方通行なんて。
優しくされれば誰でもよかったんじゃないかという自嘲さえ持ってしまう。
そうだったのかもしれない。叔母さまがいなくなって空っぽの私を満たす相手がナギサでなくても、もしかしたら私は埋める相手が誰でもよかった。
でも、そうじゃない。
ナギサだから、私はこうして回復することができた。
ナギサだから、追い払えなかった。
ナギサだから、連れてきてしまった。
彼女の持つ何もかもが、彼女じゃないといけない理由になっていく。
今の私を形作るものは、彼女という要素があったからに他ならない。
だから……大切なはずなのに。私自身が大切だと思わないようにしてしまった。
いなくなったら嫌なのに、いなくなるまで気付かなかった。
よくしてもらったのに、返そうとしなかった。
ナギサを巻き込んだ責任も取らないで、何もしなかった。
責任――そう、私は責任から逃げつつけた。
シンウー家が憎かったから帰ってきた。でもシンウー家の跡継ぎが負うべき責任から逃げるためにシンテン家を頼り、偶然ヤオハオ様の命を助けることはできたけれど八家聖じゃなくなるためにシンズ家にナギサが連れていかれるのを止められなかった。
私がどうにかすべきものを、私以外の人間に押し付けてしまった。
今になって後悔する。
そしてこのまま、ナギサに何かあってしまったら、私は私を許さない。
嫌だ。嫌なのに、ありえてしまうから、抗えない。
数滴の涙がはるか下へと落ちていった。
私は馬鹿だ。馬鹿で愚かで自分本位で、最低だ。
そのことに気付くのすら今さらだ。
取り返せるだろうか、私は。
「うー、休憩するの」
「えっ? うわぁ!?」
不意に頭上のマァゼが呟いて、急な降下に驚いた。
「ひゃあああああぁぁぁぁぁっ!!」
落下みたいに地面がどんどん近付いてきて怖い。数秒後にはぺしゃんこになって死にそう。
マァゼがふわりと減速して着地したからそんなことにはならなかったけど、心臓に悪い。
「ハァッ、ハァッ……! こら……一言くらい……!」
「ぷぷぷぷ、可愛い悲鳴だったのね」
「マァゼーーーーッ!!」
色々考えていたのが霧散してしまった。
でもよかったかもしれない。このまま考え続ければ、もっともっと深いところ、今思ってはいけないところまで進んでしまっただろうから。
これまでも今も……癪だけど、マァゼがいてよかった。
やっぱり本人には言わないけど。




