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鶴之助と蔵暮らしのもも

作者: 安住 八重

 わたくしの名前はもも。

 このお屋敷に引き取られて、もうすぐ半年になるでしょうか。


 一年ほど前に母を亡くしたわたくしは、一人で街を彷徨う毎日を送っていました。


 市場で食べ物を盗んで店主に叩かれたり、茶屋の残飯を漁って追い払われたりと、それはそれは惨めな暮らしをしていたのです。


 そんなわたくしを、このお屋敷の若旦那さまである鶴之助さまが憐れんで、お家に招いてくださいました。


「この愛らしい子を、我が家に置くのだ。其方ら、手配を」

「はっ!」


 鶴之助さまは、どうやらわたくしの容姿をとても気に入られたようです。素晴らしい采配で奉公人を動かし、あれよあれよと言う間にわたくしはここに連れてこられてしまいました。


 しかし家の方々は、わたくしのことを気に入らなかったようです。


 奥さまは鶴之助さまを叱って、「こんな汚らしいものは捨てて来なさい!」とおっしゃいました。すごい剣幕で、外で聞いていたわたくしでも思わず体を震わせてしまったほどです。


 奥さまにそのように言われても、お優しい鶴之助さまは諦められなかったようです。女中を呼んでわたくしの汚れを綺麗に落とし、水浴びまでさせてくださいました。 


 わたくしは水浴びが苦手なので逃げ出したくなりましたが、女中にガッチリと掴まれてしまい我慢しました。


 その女中は年配の方で、幼い頃の鶴之助さまの清めもお手伝いなさった経験がおありのようです。やんちゃだった鶴之助さまを抑えていた彼女の腕力に、わたくしはあっさりと敗北しました。


 もっとも、わたくしが非力なだけという可能性もございますが。

 

 そうして見違えるほど綺麗になったわたくしですが、結局家に上がることは許されませんでした。家の主人である旦那さまなどは、わたくしを見ると拒否反応を起こして、蕁麻疹やら喘息の発作やらを起こす始末です。


 鶴之助さまの懸命な説得により、寛大にもわたくしは家に留まることを許されました。しかし、母家には上がらずに蔵で寝泊まりすることを厳命されました。


 食事も蔵で、一日ニ食。基本的にわたくしがいただけるのは残飯で、少量の米に具なしの味噌汁がかかったものです。たまに鰹節などが乗っていると幸せな気持ちになるくらい、お粗末なものです。


 時々虫が入ってくることもある埃っぽい蔵ですが、わたくしは今の境遇に満足しています。


 出かけることも制限されておりませんし、ご飯をいただけて、屋根のあるところで寝られるならこれ以上は望みません。


 時々蛇などが出ると恐ろしい気持ちで固まってしまいますが、蛇など街の裏通りに行けばうようよいるものです。時々出て来るくらいならマシな方と言って差し支えないありません。


 何より寒い冬を、雪に当たらずに過ごすことができたのです。寒さが苦手なわたくしには、それがどれほど有難いことだったでしょうか。


 しかし鶴之助さまはわたくしを何とかして母家に入れようと、旦那さまや奥さまの説得に必死です。そのようなことはしなくて良いとお伝えしたいのに、それができません。


 なぜならわたくしは、言葉を話すことができないからです。声は出せるのですが、できるのはなくことだけです。


 わたくしは聞いた言葉を理解できても、言いたい言葉を口に出すことはできません。これは生まれつきのもので、今更どうにかできるものではありません。


 生きてゆくのに困ったとき、わたくしは人に相談することができませんでした。悲しい気持ちを訴えることも、諦めなくてはなりませんでした。


 もしわたくしが言葉を話せたら、拾ってくれた鶴之助さまと、家に置いてくださった旦那さまや奥さまにお礼を言うことができますのに。


 感謝の気持ちさえ言葉にできないのは、とても歯痒い気持ちです。


 だからこそわたくしは、出来る限り鶴之助さまのお望みにはお応えしたいと思っています。優しいあの方のことを、わたくしは心からお慕いしているのです。


 そんな中、わたくしが密かに楽しみにしている時間がそろそろやって来ます。


 わたくしの朝餉は残飯なので、必然的に母家の方々よりも食事時間が遅くなります。太陽が眩しさを増してくる頃、ようやくわたくしはご飯を食べ終えることができるのです。


 そして太陽が空の一番高い位置を回った頃、剣術の稽古を終えた鶴之助さまが、蔵の扉を開けました。


「もも、元気にしてたか?」


 鶴之助さまは普段は寡黙であまり笑わないお方だと、女中の方が噂しておりました。しかしわたくしを見る鶴之助さまは、太陽のように朗らかな微笑みを浮かべていらっしゃいます。


 わたくしは鶴之助さまの袴に頭をくっつけます。わたくしが元気であることを示す、合図のようなものです。


「やはり母家に君を上げることはできなそうだ。父上の君への拒否反応は、どうやら治るものでは無いらしい」


 鶴之助さまは自分の無力を静かに悔しがっていらっしゃいますが、わたくしはそこまで悲しいとは思いません。むしろ今の状態の方が、自由に外へ出られてありがたいのです。


 今も定期的に水浴びをさせられていますが、母家に入るとなればその頻度はもっと増えるでしょう。わたくしにとっては、蔵こそが一番過ごしやすい場所です。


 何も言葉を発せないわたくしを見て、鶴之助さまはフッと笑いました。目をぱちくりとさせるわたくしが、お言葉を理解できていないと考えたようでした。


「なんてな。君に言っても分かるわけないか」


 そうおっしゃって、鶴之助さまはわたくしの頭をそっと撫でました。優しく触れられた指先から、心地よい温もりが伝わってきます。


 鶴之助さまの指先が頬から顎、首筋にかけて伝っていくと、だんだん気持ちが良くなってきます。思わず喉を鳴らしてしまいそうになりました。


「相変わらず、ももは可愛らしい」


 そうおっしゃった鶴之助さまは、とうとうわたくしを引き寄せて腕の中に抱きました。反射的に逃げようとしますが、そうさせてくれません。


 鶴之助さまの綺麗なお顔が、悲しげな色を浮かべました。


「ももは、私のことが怖いのか?」


 怖いわけではありません。ただ、抱きしめられることに慣れていないだけです。


 そのことを伝えられないわたくしは手足をじたばたさせますが、鶴之助さまの腕はびくりともしません。さすが、毎日真面目に剣術の稽古をなさっているだけあります。


 鶴之助さまに甘えることができる今の時間を、わたくしは毎日心待ちにしています。それでもこうして抱きしめられるのには、慣れることができそうに無いのです。


 いくら鶴之助さまのお望みだとしても、これだけは勘弁していただきたいと思っています。


「坊っちゃま! やっぱりここにいらっしゃいましたね」


 そう言って勢いよく蔵に飛び込んできたのは、今でもわたくしの清めを担当することがある年配の女中です。わたくしを腕に抱く鶴之助さまを見て、頭を抱えました。


「お願いですから、その子を抱きしめるのは辞めてくださいとあれほど」

「私が拾ってきたのだ。どうするかは私の自由だろう? この子を好きにして、何が悪い」


 女中に意識が向いて、鶴之助さまの腕がほんの少し緩みました。


 隙ありと見て、わたくしは鶴之助さまの腕の中から脱出します。急に寒くなった体をぶるりと震わせて、蔵の端の方へ移動しました。


「いいえ、旦那さまは羽織に着いた一本の毛でさえ拒否反応を起こされます。それにあの子もあんなに逃げて、可哀想ではありませんか」


 わたくしは潜り込んだ骨董品の壺の中から、こっそりと耳を出します。暗くて狭い壺の中は、わたくしのお気に入りの場所なのです。


 わたくしが弱々しく「にゃ〜」と鳴くと、鶴之助さまはとても悲しそうに声を振るわせました。


「もも、無理矢理抱っこして悪かった」

「坊っちゃまの猫好きは承知しておりますが、その毛で蕁麻疹や喘息を起こす方もいらっしゃるのです。お分かりでしたら、毛をよく払って母家へお入りください」


 黙り込んだ鶴之助さまが、女中と一緒に蔵から出ていきます。完全に扉が閉まったことを聞き取ってから、わたくしはひょいと壺から飛び出しました。


 抱っこによって乱された毛並みを、わたくしは丁寧に毛繕いします。頭や顎を撫でられるのは好きですが、どうも抱っこだけは体が不自由になる気がして受け付けないのです。


 久しぶりに外を歩きたくなったわたくしは、蔵の壁の隙間から抜け出して外へ出ました。眩しい日差しで、瞳が細くなるのを感じます。


 すると、塀の上に小鳥が止まっているのを見つけました。小鳥は気づかれると飛んで逃げてしまうので、そろりそろりと静かに近づいて一気に仕留めなくてはなりません。


 温かい日が射す青空の下、わたくしは久々の狩りを楽しんだのでした。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 初めは不幸な女子の恋バナと思って読んでいましたが、なるほど!と思いました(´-`).。oO(笑 視点が面白く、それまで不思議に思っていた、鶴之助がヒロインを好きになった理由が後半納得出来…
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