【責任と答え】十年
ぽつり。ぼんやりと歩いていた自分の頬に水滴が落ちる。ふと、空を見上げると薄暗い曇天が跋扈してる。雨だろうか。ほんのりと灰に色づいた空を見れば、本格的に降るのはもう少し後だろう。
―そう思っていたのだけれど。現実は非情なものだ。のそりのそりと呑気に歩ていれば、自分を遥かに追い越す雨雲に囲まれていた。
残念ながら傘など持ち合わせてもおらず、ただ無力に強まる雨に打たれていた。ただどうしようもなく、最低限雨足を凌げればよいと、水の撥ねる道路脇を走る。地面に足がつく度に濡れる靴が煩わしくてたまらない。けれど足は止められない。後ろにはどす黒い雲が迫っている。
当てもなく、ただひたすらに走る。息が上がる。ぜいぜいと息を吐けど、何も見つからない。どこにある。どこにある。はやる気持ちとは裏腹に視界は悪くなっていく。
次第に雨宿りしてもびしょ濡れは変わらないじゃないか。そんな諦念を抱く。そう思ってしまえば、どんどん足が重たくなる。速度が落ちる。
ならばいっそ、止まってみるのもありだろうか。降りしきる雨は止む気配も見せず、ただ行く手を阻むのみ。このままでは、結局ただの濡れ鼠だ。前も後ろも見えぬ豪雨の中、誰が特定の場所を探せようか。そう考えてしまえば最後、足が止まった。
少し時間がたった。耐水性のない服はずっしりと水分を吸って重くなってしまっている。流石に重い。厚着が祟ってしまった。いかに北風が流れる季節とはいえども、雨が降る程度だ。寒さもしれている。自分の恰好は真冬のそれである。失敗したと悪態をついて、そのまま呆然と待ちぼうける。何もない。
もう暫く時間が経つ。一分だか十分だか、あるいは一時間経ったのかもしれない。ぼうっと突っ立って、時を過ごすと車の喧噪も届かぬ遠いところに来てしまったのだと知る。雨足は一向に弱くならず、厚着のダウンジャケットにも水が染み出している。
もう一度だけ、外を見てみようか。また何も見つからないかもしれない。今度こそ打ちひしがれ、全く動けなくなるかもしれないが。
くるりと辺りと一周見渡してみると、前には見つけられなかった物影を見つける。最早あれに賭けるしかない。これで最後にしようとその物影に近寄った。
近くに来てみればそれは喫煙所であることが分かった。何故こんなところにと思わなくもないが、他もないので入るしかない。
簡易な喫煙所におそるおそる足を踏み入れる。全面が硝子で覆われた喫煙所は、残念ながら雨により外を見ることすら出来ない。暫くの間放置されていたのか、ヤニ臭さは全くない。それどころか吸い殻や使われた形跡すらない。見事に綺麗なままで保たれいてる。寧ろ閉め切ったままでいたのか些かかび臭い。じっとりとした不快感のある臭いが鼻につき、何度か咳き込む。余り長居をしたいとは思えない場所だ。
幸いにして雨風を凌げるほどに十分の屋根があり、珍しく座椅子もついている。簡易休憩所の役割もあったのだろうか。
それにしても、見るからに人通りの少ない場所にぽつりと喫煙所があるなど不気味でしかない。早く雨が上がってはくれないかと、見えることは無い空を見上げた。
雨音をぼんやりと聞いていたら、眠ってしまっていたらしい。寄っかかっていた窓にぺたりと頬が張り付いていた。そのままに窓を見やると、柔らかな雨がしとしとと降りしきっていた。
暗雲と言えるほど雲は暗くはなく、あと一時間でも眠っていれば上がっていそうだ。そう思うとふっと肩の荷が下りたように、瞼がまた重くなる。もうひと眠り。そう意識を飛ばす。
不意に扉の開く音がする。夢現に耳を傾けるとばさりと乱雑に傘をたたむような音がする。未だ寝ぼけている曖昧な眼で来客を見れば大柄な男であることは理解できた。
しかし、可笑しな男である。この様な場所に二人も来るものだろうか。
こつんと革靴の様な音が鳴る。雨音を掻っ切ってはっきりと耳に残る。何故かその男が足を踏み入れる度に、背筋にぞわりと妙な感覚が起こる。その感覚に首を傾げるが、原因は分かる兆しはなく、ただ男が歩を進める度に緊張にも似た感覚に身を震わせるほか無かった。
風邪でも引いてしまったかと、入ってきた男をすれ違いに外へと出ようとする。
不意にその男に声を掛けられ、
「よぉ、元気にしてたか?」
言葉と共にぽん、と軽く肩を叩かれる。その声は軽薄で、けれどもどこか粘着質な色をしている。酷く聞き覚えがある声だった。この十年間決して忘れることは無かった。そして、二度と聞くことは無い、聞きたくないと思っていた。
「……どの面下げて戻って来やがった。」
情けない。この男がそこにいる。確証もない事実だけで喉がひりつく。絞りだした言葉はかさついて目も当てられないだろう。足が震え、膝が笑う。いっそ膝をついて許しを乞いたい気分だ。
一体己はこの十年何をしていたのか。乗り越えようと思っていた過去を目の前にした途端、その壁の大きさに尻尾を巻いて逃げようとしている。
「別に? 普通の面で良いだろ。何か変える必要があるか?」
男がここにいることはさも当然と言わんばかりの言い分だ。その様がなんとも憎らしく、蓄積された憎悪が爆発する。余りの怒りに思わず肩に置かれた手を振り払って、相手に対面し叫んだ。
「あぁ、あるだろうが……アンタのせいで……あんな事に!アンタさえ居なければッ!こんな事になっていなかった!」
ありったけの声を振り絞った。喉が引きつり、傷みだしている。足りない水分を補うために唾液を飲んだ。ああ、そうだと自らが納得する。この男の所為で人生も友人も狂わされた。
学生の頃、この男は絶対であった。それは法のようなもので、唯一無二のルールであった。従わなければ、罰と不名誉が与えられ、度重なる嫌がらせと陰口に堪える日々が始まる。自分も友人もやはりこの男に楯突いたのが原因で真っ当な学生生活は送れなかった。
少しだけ感謝している部分もある。この男は文字通りの法であったからだ。荒れ狂った校風を変え、どの人間でも学生生活が送れるようになったのは正しくこの男の成果と言えよう。何もせず、文句だけ言っていた自分とは大違いだ。
一抹の思考から浮き上がる。ぼんやりと考えていた時間はそこまでたってはいないらしい。男は先ほどと同じままでいる。
男は眉をぴくりとわずかに動かし、そしてまた喜色を浮かべた。
「ん? ハッハッハッハッ……俺のせいだと? 俺が居なければ状況は変わっていただと?」
軽快に笑い声をあげるその姿は、ただの怪物そのものでしかない。何故この場で満面の笑みのままでいられるのか。得体の知れなさに全身の血が引いていく。何を言っているんだ、そう言いかけた時
「それは面白くない冗談だなァ……!」
がっと胸倉を捕まれる。勢い良く引っ張られた自分の体は、重力に沿って胸以外の部分から崩れ落ちていく。体格差はそこそこにあり、思い切り上に上げられたのか、首が閉まる。ぎりぎりと音を立て布が首元に纏わりつく。息苦しさに嘔吐くことすらできやしない。
「……」
はくはくと金魚のように情けなく口だけを開ける。かひゅと喉から空気が抜け落ちる音だけがやけに空虚な喫煙所に響いた。離せと何度も繰り返し口だけで伝えているつもりだが、伝わりはしないだろう。
「本当に俺のせいかァ!? 俺だけのせいか!」
笑顔、という体を忘れたように歪な顔をこちらに向ける。口元だけは上がっているが、その目はただ怒りに費やされている。無我夢中でその苛立ちを自分に向ける様のなんと無様なことか。過去、下民を見下すように、冷めた瞳を大衆に向けていた人間とは思えない。これではただの人ではないか。
幾度か揺さぶられたのち、乱雑に手を離される。唐突な行動に受け身を取るわけでもなく、ただそのままに落下する。結果、体を床に酷くぶつけ、雨の打ち付ける硝子に頭をぶつけた。ついでに言えば口を切ったのだろう。ぴりっとした痛みが口内に走る。
何故自分かこの様な理不尽を許しているのか。腹の奥底がじわりと溶岩のような熱が湧きだしてくる。その熱は腹から全てを溶かしてく。それは間違いなく怒りであった。
怒りが湧くたびに、じくじくと打撲した部分に痛みが響く。その都度また怒りが募った。
「そうだ、全ては貴様のせいだ!」
重要な事実を告げる探偵のように男に突きつける。
それは無様な虚勢であったのかもしれない。それでも全力でこの男を嘲笑したつもり、否、したのだ。民衆に恐れられる怪物から、ただの人に堕ちたこの男に、ありったけの蔑みを込めて。
自分の言葉を聞いた男は思ったよりも冷静であった。激昂して殴ってくる訳でもなく、怒りを治めた瞳でじっとこちらを見てくるばかりだ。その闇を煮詰めた様な瞳は空虚で読み取れない。
「フンッ、ガキみたいな意見の一点張りだな。もう少し頭を使ったらどうだ?」
嘲笑には嘲笑を。まるで成長していない、学生の頃のままだと言われたのだ。この十年、お前は何をして生きてきたのだと。
ひたすらにこの男を忘れようと、恐怖を克服しようとする弱者の気持ちなど考える事すらないのだろう。毎夜毎夜、この男の顔を思い出すたびに体が震え、迫りくる恐怖に堪えた日々など知りもしないのだろう。この男が街から出ていくと聞いて、歓喜に打ち震えた日の事を昨日のように思い出せる。
「……あぁ、アンタに言われてたから……何度も頭を使ったさ、どうすれば良いかずっと考えた。これが、この答えが! 俺の考えた結果だ!」
すっと懐に仕舞ってあるものを取り出す。それは小さな、掌に納まるような代物ではあったがその効力は確かなものだ。
その手帳を持って開き、中身を見せる。男は驚いたように目を見開いて、その中身を凝視する。
その視線にあるのは桜代紋。そう自分の掌にあるのは紛ごうことなき、警察手帳だ。
「ハッ……ハハハッ! その程度で、今の状況が変わるとでも!? たかがその程度で! アハハハ!」
想定外。あれ程愚鈍で考えなしだった自分が警察を選択するなど思ってもみなかったのだろう。いや、ここまで豪語しておいて、ただの巡査であるところがツボに入ったのかもしれない。
半生で初めて、この男が可笑しさで笑うなどという事をする様を見た。常に笑顔の男であったが、ここまで心底楽しそうに笑っているところは誰も見たことが無いだろう。
「変わるさ……変えてやるんだ、絶対に!」
それは決意でしかない。果たして自分の力量で何かを変えるなどとおこがましいのかもしれない。それでも誓わねばいられないくらいには、そうありたいと思うのだ。
子供じみた、けれど確かに信念の有る決意が男にも伝わったのだろう。
「なら変えてみるが良いさ、俺には出来なかった事を……お前がその手で、やり遂げてみせろ」
そうフッと憑き物が取れたように男は笑う。そして照れたように、自分の頭をぐしゃりと一度撫でた。その柔らかい表情は非人間の怪物でも、冷酷な王でもなく、やはりただの人であった。
自分はその時に、自分と同じようこの男も十年という月日を過ごしていた事に気付いた。
会話が途切れる。妙に気恥しく、何を言い出していいのか分からない。男もそうだったのだろう。ごほんと大きな咳ばらいを一度。それから、無理に感情を押し込めた妙な声で、帰ると声を放つ。
言葉に違わず、その革靴を翻し出口へと向かう。男の方、硝子の外を見上げればいつの間にか雨は上がっていた。穏やかな午後の日差しがこの喫煙所を包み込む。少しまた微睡んでいたい気分だ。
カツンと相変わらず気障な音を立てて男は外へ向かう。出口にへと日に向かって歩くそいつは何だかとても信頼できる男のように見えて、
「言われなくてもそのつもりだ。お前に文句は言わせない。」
聞こえるか聞こえないかの声量で男に呟いた。
逆光の最中に男が軽く手を振った気がした。