破壊
今まで、ごく単純に、夢の中で一日過ごしてから目覚めている、と思っていた。一回の睡眠につき、一回の夢。だから、これまで日常生活と全く区別のつかない位にリアルな夢を見ていても、あまり混乱しなかった。ただ、最近は夢まで退屈だ、位にしか考えていなかった。だが一回の睡眠の間に見る夢が一回などと、いったい何を根拠にそう思っていたのだろう。
家。私の部屋で、私はアロマライトを手に立っている。エンによって、現実だと思っていたものが夢であったことに気付かされてから、どれくらい経ったのか。とにかく、私はいまだに、日常を繰り返す夢を見続けている。夢でも、現実でも、毎日同じような日々を繰り返し、しかしその日々の中のどれが夢で、どれが現実か分らないこの状態は、ゆっくりと、密やかに、しかし確実に、私の精神を不安や恐怖、と言う感情で蝕んでいった。ただ夢でも現実でも、同じように日々を過ごすだけで、どこがどう不安なのかは、はっきりしない。単純でわかりやすい対象のない、漠然とした不安。それは澱のように、少しずつ溜っていく。そして、やっと気付いた事。
これはアロマライトの効果だ。
あの店で、手伝いだと言った少女から聞かされた通り、アロマライトには、見たい夢を見せる効果があったのだろう。私は、夢の中だけでも、と非日常の夢を見ることを望んだ。そして、私のその願いを受けたアロマライトは「日常の夢を見続ける」という非日常の夢を見せた。
私がそれに気付いたのは、皮肉にも、エンの言葉からだ。延々と続く、夢と現実の、境界の曖昧なループに耐えきれず、すがる思いでエンに経緯を話した。エンは、アロマライトのことを知らなかったから、これはおそらく夢だ。それでもエンはやはりエンで。彼女は、答えそのものは教えてくれなかった。しかし、ヒントをくれた。
――――――日常、とはどういう意味? 考え方はいろいろある。例えば、いつも同じことが起こること? でも、あなた曰く、退屈な授業は毎日同じ? 内容、先生の服装、しぐさは毎日同じ? それを聞いているあなたも、毎日まったく同じ姿勢で、同じことを考えている? 違うでしょう? もし、違うことが起こるのを、非日常だというのであれば、私たちは常に、非日常に身を置いていることになる。けれど、実際には日常と一括りにする。差異が小さいから。極論するとつまり、日常は小さな差異を重ねていきながら生活していること。そして、日常というのは、そうやって小さな差異を積み重ねながら、連続的に変化していかなければならない。そうでなければ、私達には成長も発展もない。同じ人物でも、小学校に通っていた子供のときと、大人になって、就職してからの日常は内容が違う。お互いを比べて、違うからどちらかが非日常だ、などとは言わない。ある日常は、差異を積み重ねていきながら変化し、別の日常へと移行していく。では、この考え方だと、非日常はどういう意味? 毎日寸分違わず、同じ出来事、同じ行動を繰り返し、差異がないこと、もしくは、差異を積み重ねているにもかかわらず、変化も発展もないこと、ということにならない?
もし、このアロマライトが、非日常をそういった意味で受け取ったのならば。確かに私は望み通り、非日常の夢を見ていることになる。日常を延々と繰り返す夢。わずかな差異はあっても、それは変化も発展もしない。それは現実ではなく、また連続してもいない。
そして、このアロマライトが原因なら。これを壊してしまえば、夢を見せるという、その効力は切れるのではないだろうか。エンと話をしたのは放課後。それからすぐにこうして立っているから、今は夢だ。夢の中でこれを壊しても、意味はないかもしれないが、この夢では、私はエンにあの店を紹介されていない。つまり、あの店に行けたはずはないし、アロマライトは購入していないことになる。しかし、実際にはここにある。ならば何らかの意味があるとみていいのではないだろうか。
アロマライトを見つめる。たいして厚みのないガラスでできた、このアロマライトは、床に叩きつければ、それだけであっけなく壊れてしまうことだろう。そう考えれば、奇妙な感慨さえわく。正直なところ、かなり気に入っているのだ。今の状況の元凶だと分かっても。だが、だからと言って、このままで良いはずもない。何より、ゆっくりと大きくなっていく不安感に、私が耐えられない。息を整え、目の高さにまで、アロマライトを持ち上げる。描かれている蝶の羽が、うっすらと虹色になった気がしたが、それを確かめるよりも先に、私はアロマライトを床に叩きつけた。それは奇妙なほど澄んだ音を立てて壊れて―――――
私は勢いよくベッドから起き上がった。状況の把握ができずに、あたりを見回す。自分の部屋だ。ベッドそばの棚の上には、夢の中では壊してしまった、アロマライト。電球が点けっぱなしで、まだ暗い室内に、ぼんやりと浮かびあがる。それを見て、やはりと思う。あくまであれは夢だと。
ベッドから降り、先ほどの夢と同じように、アロマライトを手に取り、見つめ、電球によるものだろう、仄かな温かさを、名残惜しくさえ思いながら……床に落とす。先ほどの夢のように、勢いをつけたわけではないが、予想以上にもろくできているのか、あっさりと壊れる。もしこれが現実なのであれば、これで―――――
ふと、意識が覚醒した。体をベッドに横たえたままに棚を見やれば、そこにアロマライトが。電球はちゃんと消えていた。あれも夢か。体を起して、ベッドの縁に座り、アロマライトを引き寄せる。夜明けなのか、わずかに明るい室内で、時折ガラスが反射してちか、と光った。その様になぜか、私の背筋に怖気が走った。これまで漠然と感じていた不安感や、恐怖感とは違う。はっきりした明確な恐怖。そのくせ、それが何に対する恐怖感なのかは、分らなかった。とにかく私は、その恐怖によって命じられるがまま、アロマライトを思いっきり壁に叩きつけた。今度こそ―――――
がくん、と体が傾いだ衝撃に、半ば強制的に覚醒させられた。寝るときに姿勢が悪かったのか、ベッドから落ちる一歩手前だった。体を起して棚を見れば―――――やはりそこには、アロマライトが当然のように、鎮座していた。