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胡蝶の夢  作者: 木の枝
12/13

覚醒

 ―――――せめて夢の中だけでも―――――退屈すぎるくらいの日常を。


 世界が歪む。座っていた椅子も、店そのものも、店長さんもゆがんで、消えた。残ったのは、暗いとも明るいともつかない、奇妙な空間。その中を落ちて行くような、逆に浮上していくような、不思議な感覚。その中で、私は脳裏で再生される記憶をただ見ていた。


 父と大喧嘩をやらかした私は、その勢いのまま家出同然に上京しようとした。ただ、退屈な田舎とは違う生活を夢見て。そして、それは結果を言えば、馬鹿でしかなかった。


 喧嘩した勢いで飛び出した私は、ちょっとした外出に持って行く程度の荷物しか持ってなかった。さらには、高校を卒業しただけの未成年。バイトもしていない。所持金などたかが知れていて。上京するには明らかに足りず、仕方なく、行き先を変更して、そこそこに大きめの都市を選んだ。帰る、という選択肢は、思い浮かばなかった。


 その街について、最初の数時間は、ついに田舎を出た興奮のせいか、楽しくてしょうがなかった。しかし、日が暮れてくると、いくら浮かれ切った頭でも、流石に現状が分かってくる。すでに所持金の大半は交通費に消えていて。おまけに土地勘のない場所を動き回ったせいで、完全に道に迷っていた。とにかく、たまたま見つけたコンビニで、菓子パンを買って腹を満たした後は、どうしていいか分らなくて、完全に途方に暮れてしまった。大喧嘩して出てきた手前、家に帰るわけにもいかない。そもそも、帰るにしてもお金が足りなかった。その時は分らなかったが、私がいたのはオフィス街だったらしく、時間が経つにつれて人はどんどんいなくなっていき、明かりもほとんどが街灯のみになって。心細さから、道路の端で蹲った。そして―――――エンに拾われた。そう、そうだった。エンと初めて出会ったのは、この時だ。エンの実年齢は私より五才くらい上で、当然私の同級生であったはずがない。


 エンは確かに私よりも年上だったが、社会人としてはまだまだだ。優秀ではあるらしかったが、それでも自分一人の生活で手いっぱいのはずだった。それでも、私が事情をぽつぽつと話すと、気が済むまでいると良い、と言ってくれて。エンとの同居生活が始まった。


 エンのおかげで、当面の住居は心配しなくても良くなったが、流石にただ置いてもらうのは気が引けて。エンの紹介でバイトを始めた。最初のうちは、ただ単純に楽しかった。退屈すぎる田舎から出てきた私には、新鮮なことばかりで。田舎で暮らしてきた私から見れば、非日常であった暮らし。私が憧れ、望んだこと。その中に身を浸すことが、嬉しくてたまらなかった。


 しかし、それはほんの数カ月もたたないうちに、限界が来た。それまで私の中で非日常であったものは、日常になってしまった。その時にようやく私は、どんな生活も慣れてしまえば、やがて日常になってしまうことを知った。新たに日常となった生活は、田舎のものとは違って退屈はしなかった。ただ……苦痛だった。


 田舎から出てきたばかりのころは、これまでずっと憧れ、望み続けたことがかなったという、ただそれだけのことで舞い上がっていた。だが、生活に慣れて冷静になってくると、新鮮で楽しくて仕方なかったはずの生活が、次第にきつく感じられるようになってきた。もともと退屈さから抜け出したいという他は、何の目的も、目標もなく出てきた私は、一度きついと思ってしまうと、とたんに苦痛しか感じられなくなってしまった。それまで、ほとんど考えたこともなかった現実も、それに拍車をかけた。いくらエンが、気が済むまでいて良い、と言ってくれてはいても、いつまでも世話になるわけにはいかない。やがては独り立ちしなければならないだろう。しかし、田舎からほとんど出たことがなかった、世間知らずの私は、これからどうすべきか、その見当さえつかなかった。ここで、何か目標があれば、とにかく今はお金をためることに専念する、だの、バイトをしつつ勉強をする、だの、当面の計画を立てることができたが、私はまずその目標から作らなければならなかった。ところが、その目標がなかなか決まらない。やりたいこと自体が、そもそも自分でも良くわからず、やっとやりたいことが見つかったと思えば、今の自分の状況から考えると、諦めざるを得ないものだったりした。就職するにしても、家出人という立場ではまずまともな選択肢のあるはずがないのだ。


 ただでさえきついと感じている所に、先が見えない不安が重なって。かといって、打開策もないまま時間だけが過ぎて、気付けば成人していた。そうして過ごす中で、日に日に強くなっていったのが―――――かつての、退屈な日常への懐古。ここまで来て、やっと私は、あれだけ辟易していたはずの退屈さが、得難い貴重なものであることに気付いた。「退屈なんて贅沢な悩み」あれは自分が言ったことだ。すると現金なもので、帰りたくて仕方がなくなった。しかし、今さら帰ったところで、両親は私を許してはくれないだろう。


 そんな状態でも、何とか数年を過ごすことができたのは、エンのおかげだった。とにかく、相談には必ず乗ってくれた。気晴らしに連れて行ってくれたりもして、精神面でかなりのサポートをしてくれていた。だが、それでも限界は来て、バイトも何もかもする気が起きなくて、閉じこもるようになった。


 エンが私に、メモを一枚渡してきたのは、私が閉じこもるようになって、一月もした頃だった。内容は、あの店への道順。気晴らしだと思って、行くと良い、と言われ、自分自身でそれが必要だと思っていた私は、翌日にさっそく店へ行った。


 ……そうだ。私はあの店には、既に一度行っていた。だから、あんなにも、デジャ・ヴュを感じたのだ。あの、生垣で道なのかどうかも判別としない路地を最後に抜けて、私は店に辿り着いた。ただ、このときは一度しか通らなかった。だから二度目に行った時には、何度通っても、最初に通った時と同じ状態だったのだ。私はすでに人が一度通った後の、あの路地の状態を知らない。そもそも、私は田舎の駅前に入ったことがあるが、住宅地の方は、行ったことがない。それこそ、経験や知識、記憶から、メモに誘導されつつ、無意識に作り上げた場所だったのだろう。


 最初に行った時、私が会ったのは、お手伝いだという少女ではなく、店長である女性の方。少女に声を掛けられたとき、もっと年上の女性に話しかけられたような気がしたのも、そのせいだ。購入したのは、アロマライトではなく、オイルウォーマーだった。やはりデザインは蝶。見たい夢を見せる、という効果も同じで。この時に、「胡蝶の夢」の故事も知った。


 店から戻り、買ったオイルウォーマーを見せると、エンはもともと持っていたのか、それともわざわざ買ったのか、アロマオイルを私にくれた。気分を前向きにさせるという、オレンジスイートを。私はさっそくそれを使い、そして、夢を見た。


 ―――――現実ではもう得られないから。せめて。せめて夢の中だけでも、退屈な日常を―――――


 それが私の望んだ夢。望み通りに見た夢は、高校時代の日常で。

 最初のうちは、リアルではあったが、それが夢だという自覚もあった。しかし、何度か夢を見るうちに、これが現実なら、と思うようになった。そして、ついに―――――私は現実を忘れ、夢を現実だと思い込み、夢からの目覚めを拒否した。


 夢の中では、現実の私が望んだとおりに退屈な日常が繰り返されて。現実を忘れ、退屈、というものの得難さをも忘れた私は、再び非日常を望んだ。そこから生じた歪み。私はもう一度店に行って、まったく同じ効果のあるものを購入し、使用する際には、非日常を望んだ。一方は現実の私の望みに従って、退屈な日常を。もう一方は、夢の中の私の望みに従っ、て非日常を見せようとした。その結果、私は日常の夢を見続けるという、非日常を夢の中で見ることになった。


 そして。それにも耐えられなくなった私が、最後に望んだのは、現実。―――――夢が、覚める。



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