『小説狂い』・・・乱読における、一時的な洗脳狂い
『小説狂い』
・・・乱読における、一時的な洗脳狂い
㈠
人間は、人生の或る期間において、乱読というものをすることがあると思われる。まさに、その対象は、新聞であれ、小説であれ、料理本であれ、何でも良いのだが、その乱読は、人生における一つの充実期間となる。自分の場合は、学生時代、少なくとも芥川龍之介全集と、太宰治全集については、非常に乱読したと思っている。この乱読作用は、後の小説執筆において、効果を齎したという点で、良いことをしたな、と考えている。
しかしまた、或る作家に拘らなくても、いろいろな作家を満遍なく乱読することも経験としては有効だろうし、その対象がその後の人生で様々な作用を齎すことは、必然だと思うのだ。つまり、乱読とは、メタファーとしては、人生を知ることに他ならないからだ。自分はこんな風に物事を感じるのだ、とか、こんな思考法を持っているのだ、とかである。生きるということは人生を知ることだし、それが内界だけに留まっていては、人生の広がりはないだろう。文章の読後に、充足感が生まれるのは、一つの人生を知った、満足感からだろうと考えている。
㈡
ところで、何かを書く時、常に無意識で働く乱読の有効作用は、文体や思想を自分の物にしているという現象のことを指す。自分が自分で物事を考えていても、一定の傾向は、誰に師事したか、ということに帰着するからだ。しかし、これは、所謂パクリではない、ただ、傾向がある、ということなのだ。もしも、この現象をパクリだとするならば、日本文学の古典から、人々はその傾向をパクっていることになる。しかし、そう言ってしまえば、今あるすべての現代小説は、文体も含めて、パクリである。だから、傾向があるということは、良い意味で取ると、傾向を受け継いでいるということに収斂されよう。
誰も、乱読したものをパクりたい訳ではなくて、乱読したものを、意識の下に馴染ませて、独自の文体を創り上げて行くのである。乱読は怖いことではない、ただ、受け継ぐ、もっと言えば、引き受けるということなのだ。
㈢
乱読は、一時的には対象の作家に洗脳されることがある。生きていて、生きる指標が見つからない時、或る作家のある文章に救われて、ああ、生きるとはこういうことなんだ、と実感する時、これは後々気付いたことだが、その作家に洗脳されているのである。例えば、自分はまだ若い頃、ゲーテの格言集という本に出会い、何度も乱読して救われた、或いは救われたと錯覚したことがあある。ゲーテの言うことは正しい、しかし、ゲーテと自分とは異なる人間である、そう後から気付いた。しかし、当時は、その言葉一つ一つに、なるほどな、と相槌を打ったものである。
その後、生きていくうちに、自身の人生観が出来上がると、ゲーテの格言も、確かに一理あるな、という風に、客観視することが出来る様になった。今でもゲーテには感謝しているが、あの時何故乱読したのか、今では良く分からないのだ。
ともかく、自身の乱読経験を述べることになったが、要は、小説乱読とは、自分の生きる要素の様なものなんだろうと考えている。一時的な洗脳狂いも、後でその乱読時代を振り返れば、今の執筆の下地になったな、と言う風に、客観視できるようになるのである。