『小説狂い』・・・言葉の連鎖が小説だと言えるまでの狂い
『小説狂い』
・・・言葉の連鎖が小説だと言えるまでの狂い
㈠
一般的に、小説を読むことは、文章を読むことだと理解されている。それは確かなのだが、例えば、一つの小説に熱中し、何度も読んでいると、その文章は文法的読解になり、やがて単語単位まで細かく理解しようとするようになる。つまり、小説とは、厳密に言えば、言葉の連鎖だと考えるように至るのだ。こういう、言葉の連鎖と思考するに至ると、小説を、ただ面白く読む、というよりは、小説を分析に、評論したいという感覚になってくる。この思考は人によって様々だろうが、自分は昔或る小説に出会って、それを言葉単位まで、細かく正確に分析したことがある。
そういう経過を辿ると、今度は、散文詩に興味を持ち始め、やがて詩に行き着くのである。研究対象が変わるということだが、こういった経過は多くの人々が経験があることではないかと思う。
㈡
現代社会では、手紙というものが消失し始め、メールや呟きにまで、意思疎通の手段を変容している。これは誠に正確な変容なのであって、要は手段を問わず、相手に簡単に意思が伝わればそれで良いのである。
この伝わるという世界に、我々は太古の昔は、言語の発明であったが、いずれ形を変化させ、小説というものが生じた。小説とは、何かを伝える時に、そのまま伝えるのではなく、一つ呼吸を置いて伝えるという仕組みを取っている。小説は虚構でもあり、また、真実のものでもあるから、人それぞれに伝達の感じ方は様々だが、とにかく何かを伝えるためのものであることは明白であろう。
現代のメールや呟きも、この言葉の連鎖を一つの形にしていけば、巨大な小説に姿を変貌させると考えている。後世の人間は、よくもこの様な、摩訶不思議なものを生み出したな、と思うに違いない。
㈢
結局は、言葉というのは、言葉であって、それ以上でもそれ以下でもないものなのだ。この、伝える、を含んだ言葉というものは、連鎖反応で小説になるということだ。今、自分が書いている文章だって、言葉と言葉を繋いでいるのだから、自分で自分を納得させることになる。これは、言葉の連鎖だ、と。
人間は、いろいろな形で言葉に関わるが、会話というのは、言葉と言葉が繋ぎ繋ぎ重なりゆく、一つの小説の様なものなのであって、本当は素晴らしいことを行っているのである。言葉には、響きやメタファなど、細かくいろいろと形態があるし、まさに人間は天才だ、と人類を客観視して思うことがある。この天才が平凡になっていることが、奇跡のようなものだと思った。
ともかく、言葉の連鎖が小説だと言えるまでの狂いは、その見方によっては、小説狂いの集団である人間から生まれた、狂いだと断定できよう、そう考えている。