『小説狂い』・・・小説を読むこと、書くことへの、単純な狂い
『小説狂い』
・・・小説を読むこと、書くことへの、単純な狂い
㈠
小説を読む時、人それぞれに、或る傾向が現れると思う。熟読か速読か、ということだ。また、短編を読むか長編を読むか、という風に。本来、小説の読み方などというものは自由なものであることは確かだが、従来、小説の感想を述べなければならないと言った風潮が、学生時代には在った。感想文、論文、そう言った、云わば一種の評価というものをしなければならなくなった。当たり前のことを言うと、小説を読まなければならない、という法律も、感想を書かなければいけないという法律もない。それなのに何故、そういった風潮が出来上がったのか。
丁度、第二次世界大戦で、日本が敗北した時、小林秀雄という批評家が居て、その存在が、戦後文学に大きな影響を与えた。この時、独創という小説ではなく、批評という客観が主体とされたのではないか。これは、日本のアイデンティティが壊れたため、物を見るという視点が、文学上、必要になったのである。
つまり、アメリカが、日本を見ているという視点に、日本が日本を見ているという視点と同化したことに始まると考えている。
㈡
小説は、読まなくても生きていけるのは確かだ。しかし、人間の生活に豊かさを齎すことは明白だ。しかし、どの小説にも感想を持たないといけないとなると疲れるし、さっと流し読みして終わる、簡単な読書であっても、それは読書の範疇に入るから、許されることなのだ。文字にしなくても、心で読後の充足感があればそれで良いと思う。
ここで、小説を読みまくっている、小説狂いが居たとする。その狂いとは、享楽的な小説の読法から生じる、読解狂いである。自分は、そこまで読書に狂わなかった。寧ろ、読むよりも書く方が楽しかったからだ。しかし、世界中に、小説狂いは存在するし、体に読んだ小説から得られる感性が蓄積されるだろうから、批評学にも精通する人物になるだろうと推測できる。自分は読書においては、述べた様に決して励んだ方ではないのだが、小説を書くこと、それも狂いの裡に入るなら、自分も小説狂いである。小説狂いには、読む観点と、書く観点の、二点を持ち込むべきだろう。
㈢
すると、小説に狂っているということは、兎に角小説という概念に狂っているということだ。狂っているが故、自分の場合、書く方の狂いだが、その狂いは、執筆時に発揮される。書けるだけ書く、これが自分の狂いのスタイルだ。独創からくる言葉を文章にして、小説を書けるだけ書くのである。
小説狂いにも、いろいろな狂い方があることは述べたが、所謂、書くことが主体になるならば、自分はもう、小説狂いの一途をたどっているに違いないと考えている。