己の吐息
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ううむ、こうも頻発すると、どうも嫌な感じだな……。
おう、すまんね、つぶらや。待っていてくれたのか。いやあ、まさか20メートルシャトルランで過呼吸に陥るとは……少々、張り切りすぎたかな。
俺、前に過換気症候群の気があるっていう診察を受けたことがあるのよ。他人目線からだと、両方とも同じ症状に見えるようなんだよな。俺自身もそう思うし。
以前は袋を口に当てて呼吸する方法、ペーパーバッグ法をされたんだが、最近はしなくなったな。なんでも、調整を間違えると最悪、窒息死の危険があるのだとかなんとか。
このペーパーバッグによく似た対処法、実は俺の地元でも昔に行っていたらしいんだ。お前、その手のネタに興味があったと思うが、知っておかないか?
戦国時代のこと。俺たちの地元では、戦の前に各々が家を出る前。腹ごしらえを済ませた直後に、口元がすっぽり入ってしまう大きさの麻袋を最低二つは用意し、その中へ自分の呼気を出すように指示が出される。
あらかじめ深く息を吸い込み、そのまま何拍か止めた後、袋の口を開いたら息をその中へ吐き出していく。いっぺんに吐くより、長く続くよう、少しずつ出すのが望ましい。
吐き終えたら、速やかにその口をひもできつく縛り、集合場所へ持ち寄る。そして小荷駄隊へ預けて戦場へ持ち運ぶんだ。
そして戦闘前などで、緊張などから過呼吸の症状に見舞われる将兵が現れると、件の治療用天幕の中で、麻袋の出番というわけだ。
この際、用いられる袋は、自分の呼気が封じられたものがあてがわれる。ひもを解き、かつて自分が吐いた空気を感じながら、乱れた呼吸を整えていくとのこと。
治療の担当者は、発作を起こした者へ告げる。
「人が集い、顔を合わせる場であれば、そこには姿なき魔が差してくる。命を取り合う戦場であれば、なおさらのこと。惑わされぬよう、己の気で存分に身体を満たしておかれよ。魔に乱される隙を与えられぬようにな」
症状がおさまった後、天幕を出る前にも、彼らは担当者から残りの袋を受け取り、首から提げるように勧められる。万一、戦場で同じ症状が出たら、やはりこれを使って対処するように、と。
そして合戦の最中。過呼吸の手当てを受けた足軽のひとりは、逃げている最中だった。
彼のいる隊は、相手の誘い込みに乗ってしまい、まんまと深みへ誘い込まれたんだ。
横合いから奇襲を受けた隊。彼もまた、直に刀で腕を斬りつけられた。反射的に斬りかかってきた相手へ槍を振るい、その柄をぶつけて昏倒させたものの、袖を濡らしていく出血が止まらない。
思いもよらない血の重さと湿り気に、自分の中で急速に戦意が萎えていくのを感じたんだ。
彼は逃げ出した。乱戦による混乱の中、逃亡を咎める声はどこにもなかった。手近な木々の間へ紛れ込み、戦の音からひたすらに遠ざかっていく。
ようやく、静かな間が訪れるようになった。鉄砲の火薬の音が散発的に聞こえるものの、だいぶ距離を離したはずだ。
彼は丈の長い草の中へ、うつ伏せになって寝転がる。頭からも十分に草を被っているはずで、目の前には自分の髪とは別の「緑色の前髪」が数本、視野の上から伸びている。
血に染まった袖は、やや重さを感じるが、痛みは感じなくなっていた。
深くまで入り込んだせいか、陽の光が見えない。それでも周囲の暗さからして、日暮れまでさほど時間がないように思えた。
――暗くなれば、双方、引き上げるはず。その後であたかも命からがらであったと装って、味方と合流すればいい。
もちろん、それまでの間で敵に見つかってしまえば、意味がない。彼はじっとして、動かないよう努める。
手足がちりちりとしびれてきた。この原因、己の身体の重さばかりではないだろう。出陣前の治療用の天幕でも出た、過呼吸の症状の一部でもあった。
ふと、金具を揺らす音が聞こえ、彼の心臓は一気に跳ね上がる。自分の身体からではなく、すぐ外からだ。
ほどなく、近くに立つ巨樹の影から甲冑に身をまとった将がひとり、姿を現す。手には抜身の刀を下げていて、彼の潜む位置からだと、その切っ先が目と鼻の先にあった。
足は動いて視界から消えたかと思うと、またすぐに戻ってきて、落ち着きがない。
――よもや、自分を探しているんじゃあるまいな。
そう考えると、もはや胸は早鐘を打たんばかり。
あの剣が、少しでも自分の上部の草をかき分けたなら、自分の身体が露わになるだろう。伏せて武器を手放している自分と、立って武器を抜いている相手。どちらが命を取られるかなど、火を見るより明らかだ。
――気づくな……気づくな……。
行き来を繰り返す相手の足の運びを前に、彼は少しずつ息苦しさを感じ出す。こんなところで、過呼吸など起こせない。
足がやや離れたのを見て取り、彼は首から下げた麻袋を取り出す。口をほどくと、生温かい空気が、ほのかに鼻をくすぐった。
迷わず袋を広げると、自分の口と鼻をすっかり覆う。その瞬間を待っていたかのように、「はっ、はっ」と、身体が勝手にくぐもった息を吐き始めてしまった。
ピタリ、と遠ざかりかけた相手の足が止まる。もう一度こちらへ踵を返すと「誰かいるのか?」と、頭上から声が降ってきた。
――止めないと……!
最後に「ひゅっ」と吸い込んだ後、彼は息を止める。相手の足はまた鼻先まできていたが、刀の切っ先も下がったまま。まだ草を分けてはいない。
気配を殺し続ける彼だったが、じょじょに喉や鼻ばかりじゃなく、目の奥まで息が詰まってくるような感覚がする。
このまま耐えていたら、眼球が押しのけられて、ぽろりと転がり出てしまうんじゃないかと思うほどの、圧迫感だった。
手足も、しびれを通り越して熱い。そして、痛い。胸とは異質の熱い拍動が、四肢の末端から伝わってくる。
ひとうちごとに増す熱、抑えがたい痛み。奥歯を噛みしめて耐える目の前で、「緑色の前髪」がどんどん後退していき……。
ここからしばらくのことは、彼よりも、そのそばにいた将の方が詳しい。
将もまた、乱戦の最中で馬を潰され、軽いながらも手傷を負ったために、ここへ逃げ延びてきていたんだ。足軽と同じで、彼も誰か近くにいやしないかと、何度も周囲を確かめているところだったそうだ。すぐ手近を探らなかったのは、「灯台下暮らし」というやつか。
自分のすぐ近くの草むらが盛り上がったかと思うと、将の目の前に立ち塞がったのは、直垂を身に着けた熊だったらしい。大きく咆哮をあげる熊は、猛然と爪を振るった。
将に当たらなかったのは、奇跡という他ない。すぐ脇にある、人の胴体を優に超える太さの幹を持った巨樹が、熊の爪で真っ二つに折られてしまう。
戦おうなど、みじんも思わなかった。彼は手にした刀を放り捨て、背中を見せて逃げ出したらしい。その後ろから、熊が追ってくる気配がした。
奇妙な熊だった。奴が本気で駆けてきたならば、自分ごとき人間が距離を開けることなど叶わない速さで迫り、押しつぶすことができたはず。
なのに、この直垂をつけた熊は、二足でばたばたと足音を立てつつ、左右にふらつきながら走ってくる。自分を捉えられないままに、腕を振り回していたとか。
犠牲になるのは周囲の木々。彼らが倒されるたび、土が飛んで、葉が宙を舞った。
一度、ごくごく細い木が倒れ込み、将の背中を打ってきたことがあったが、どうにか足を止めずに済んだとか。
夢中で森の中を走り、ようやく視界が開けた時には、ちょうど味方の一隊が小休止を取っているところだったという。
突然現れた、汚れまみれの将の姿に驚く兵たち。手当をしながらも、将が語った、直垂を着ける熊の話に、再度のどよめきを隠せない。
その晩、彼らは片時も火を絶やすことない緊急態勢が取られたが、ついに熊の襲撃はなかったらしい。翌日、数名を伴った将が、自分の逃げてきた道を辿ると、そこには確かに熊の足跡が見られた。なぎ倒された木々の姿もある。
だがそれも、将が隊と合流した地点より数十歩手前でのこと。そこから森の出口よりには、熊がいた形跡がない。
そしてかの地点には代わりに、人が横たわっていたかのように、下生えの草たちが踏まれている姿が見受けられたとか。
隠れていた彼の方へ、話を戻そう。
次に気が付いた時、彼は森の中へ倒れ伏していたらしい。脱いだ覚えもないのに、自分は直垂をのぞけば全裸の状態。しかも夜を越したせいか、直垂は露に濡れていて、冷たさがたいそう素肌にこたえたとか。
周囲も見覚えがないが、自分の後ろにはなぎ倒された木たちと、熊らしいものの足跡が点々と続いている。熊が自分のすぐそばまで来ていたのかもしれない。
――誰かここまで運んでくれたのか? それとも運んだのは熊だが、すぐには自分を襲わず、何かに出くわして逃げ散ったのだろうか?
いずれにせよ、長居をするのは危うい。彼は裸足になってしまった己の足へ、手近にある葉たちを重ね合わせた、即席の足袋をあてる。
今は樹冠からのぞくようになった、太陽の光をあてに森をうろついた結果、自陣のすぐ近くへと出ることができたそうだ。
彼もまた兵たちに驚かれる。格好が格好だけに、気がふれたと思われて、再び治療用の天幕へ通されることに。
出陣前に、自分の手当てに当たってくれた男が、話を聞いてくれる。ひとしきり語り終わった後、男は話してくれた。
「どうやら、姿なき魔に囚われたようだな。袋を使って正解だったろう。
時々、戦に出て帰らない者がいるが、何も命を落としたばかりではない。魔に浸るがまま、獣に身をやつし、山野に生きるより他になくなった者もあるのだ。
己が呼気を封じた袋を持つのは、それを防ぐため。魔が、身体に残る人の気を追い出そうとして息が乱れる時、袋の気を吸うことで最後の一線を保ち、人へ戻れるようにするのだよ」