3.Our memories faded into the distance.
ピーッピーッピーッ
規則的な機械音が聞こえてきた。
目を開くと見覚えの無い白い天井。なんとなく、病院だとわかった。何故ここにいるのか、思い出そうとして軽い頭痛に襲われる。とりあえず、状況を確認した方が良さそうだ。
頭を横に向けると、知らない女の子がベッドの横の椅子に座ったまま寝ている。ちょっと見たことないくらい整った容姿に目を奪われた。
しばらく彼女に見惚れていると、長い睫毛が震え、形のいい真っ黒な瞳が此方を見つめた。
その瞳から薄い膜が張り、眦からキラキラと涙を溢した。
「っさつき!・・・さつき・・・ふっ・・・うっ・・・良かっ・・・」
俺は夢を見ているのだろうか?目が覚めたら好みドストライクの子に抱きしめられて、どうやら俺の為に泣いてくれているようだ。すごく役得だけれど、まずは状況を知りたい。それに、この子は多分俺の知り合いなのだろうけど、記憶になくて申し訳なくなった。
「あの、俺は何で病院にいるのかな?」
「・・・グスッ・・・皐月は栄養失調で倒れちゃって救急車で運ばれたのよ。」
「もしかして君が呼んでくれたのか?」
「違うの。蓮二くんと大和くんが皐月を部屋で倒れているところを発見して、呼んでくれたの。」
「そうか、蓮二と大和が・・・もしかして君は蓮二か大和の知り合いか?下の名前で呼んでるし・・・」
そう言った瞬間彼女は目を開き氷付いたようにこちらを、凝視しながら動かなくなった。
どうやら本当に何処かで知り合っていたらしい。相当失礼なことをしてしまった。
「悪い。君は、俺の知り合い・・・何だよな。何故だか覚えてなくて、失礼なことして本当にごめん。名前聞いてもいい?」
「・・・ううん。天河百合よ。」
「そうか。見舞いに来てくれたんだよな?ありがとう」
「来たくて、来ただけだから。・・・これから仕事だから、また来るね。」
「本当か?ありがとう。」
彼女は今にも消えてしまいそうな儚げな笑みを浮かべて病室を出ていった。
想像以上に身体が堪えているらしく、ベッドに倒れこんだ。
きっと彼女は知り合いなのだろう。だけれど、何故か彼女のことについては何も思い出せなかった。倒れた時のことを思い出そうにも、記憶に靄がかかったようで、特にここ最近に近づくにつれてそれが顕著な気がする。
何かを忘れている。
それだけはわかったが、今の俺にはどうすることも出来なさそうだった。
ひとまずナースコールを鳴らし医者の説明を受けることにした。
***
皐月が百合ちゃんの記憶を失くした。
衝撃的な事実に初めは誰もが疑った。彼女との思い出をいくつか出してみても困惑した眼差しで俺たちを見つめるだけで、首を振る。
医者が言うには、栄養失調とストレスによる一時的な記憶障害が原因だろうということだ。
忘れているのは百合ちゃんに関することだけで、他のことは覚えていたようだけれど、だからこそ残酷な現実を突きつけられたような気がした。
電話越しに話す百合ちゃんの声は明らかに無理をしていた。今は仕事の合間を縫って、お見舞いに来ているようだ。
向かい合って話す二人を見ていると、とても皐月が百合ちゃんのことを忘れてしまっているなんて思えなかったが、たまに見せる皐月の百合ちゃんに対するよそよそしさがそれを物語っていた。
「それじゃあ、今日はもう行くね。」
「ああ。今日もありがとうな。」
お互い数秒間見つめ合った後、百合ちゃんは仕事へと向かった。
皐月の方を見ると名残惜しげに百合ちゃんの出ていったドアを見つめている。もしかして・・・と思い皐月に声を掛ける。
「気になるか?」
「・・・そりゃあ気になるさ。タイプど真ん中の女の子がほぼ間を置かずに逢いに来てくれるんだぜ?」
その返答にがっくりしたが、続いた言葉に息を飲む。
「それに、彼女を見てると、すごく大切なことを忘れてる気がするんだ。だけど、思い出そうとすると何故か手が震えるんだ。・・・可笑しいだろ?」
そう話す皐月の表情は笑っているようにも泣いているようにも見える。
何とか息を吐き出し、笑みをつくる。
「そりゃあ変だわ。」
その後皐月と軽く雑談をした後大和と会うために待ち合わせ場所に向かった。
駅近くの飲み屋に入ると大和が料理を頼んで待っていた。
「皐月の様子はどうだ?」
「経過は順調だよ。この調子でいけば、あと一週間で退院できるらしい。」
「その・・・天河のことは。」
俺は目を伏せて首を振った。
「・・・こうなってくると、心配なのはどっちかっていうと百合ちゃんの方だ。」
「勘違いとはいえ、別れ話を切り出してしまったことで今回の事態になっているからな。」
そもそも別れ話が出てしまったのは、皐月に隙があったことと、それによって勘違いをしてしまった百合ちゃんとの行き違いが発端と言っていい。
事が起こった日、皐月はサークルの先輩に騙される形で合コンに誘われ、仕方なく参加していたようだ。その頃、ちょうど百合ちゃんとあまり連絡も取れず、その中でドラマで共演中の新人俳優とのでっち上げのスキャンダルが流れていたのだ。皐月は百合ちゃんを疑わず、体調を気遣っていたけれど、内心不安だったことは見ていて明らかだった。
そんな不安定な状態の中で、よりにもよって百合ちゃんの容姿に似せた格好をしている女の子に目を付けられた。皐月は合コン中さり気無く誘いを躱していたが、何かを囁かれたあと様子が少し可笑しくなったらしい。
解散後、皐月が本調子じゃないことを何となく気にしていたサークルの部長さんが、皐月を家まで送ろうとしたら、既に駅に向かったらしく、あろうことかその後をその女の子が追いかけていくのを別の女の子が見たのを聞いて、皐月を追いかけることにした。
部長さんが追いついた時、皐月の首に女の子の腕が回され傍目からはカップルがいちゃついてるいる様にしか見えない様子だったが、良く見ると皐月の腕は降ろされたまま、皐月は女の子の髪の毛の先を見つめ固まっていた。
その数秒後には皐月は女の子をやんわり引き剥がし、一言「ごめん。本当に君じゃだめなんだ。」と言って別れたそうだ。
百合ちゃんが見てしまったのは皐月が一瞬固まってしまった瞬間だった。その後まで見ていればきっとほんの少し怒るだけで済んだのかもしれない。
けれどショックですぐにその場を去ってしまったことで、酷い勘違いが起きてしまったのだ。
この時の状況を話してくれた部長さんは、少し責任を感じたようで、暗い顔をしていた。お見舞いにも来て、その時に百合ちゃんの存在も明かした。皐月の彼女が実は芸能人であることに驚いていたが、納得もしたようで、「男から見ても綺麗な顔してモテているのに、どうして彼女の噂が立たないのか不思議だったんだけど、今回のことで、志波くんが一途ないい男なのが良く分かったよ。」と言っていた。百合ちゃんとのことも何かあれば協力すると言ってくれ、すごくお人好しだけどいい部長なんだ、と前に皐月が話していたのを思い出した。
「とりあえず、いきなり思い出させるのはあまり良くない。俺たちに出来るのは二人をサポートしつつ見守る事くらいしかできないだろう。」
「そうだな。百合ちゃんにはマネージャーさんもいるけど・・・定期的にこっちだ連絡は取るようにするよ。」
「ああ。お前ばかりに負担をかけてすまないが、頼む。」
「気にすんな。大和は研修とか色々あるのにそれでも時間作れているんだから、これ以上は無理しなくていい。その代わり大人になって病気に罹ったら治してくれよ?」
「・・・ああ。まかせろ。」
***
都内某所にて
私とは正反対のふわふわの栗毛をハーフアップにした後輩の女の子と仲睦まじげに歩くあの人の姿を見て、やっぱりか、という諦めにも似た気持ちで耳からスマホを離す。
「せーんぱい。何見てるんですか?」
最近いやに馴れ馴れしい後輩のモテ男くんに呼ばれたが、振り返る訳にはいかなかった。
私は早足であの人の向かった方とは反対の方向に早足で歩き出す。けれど、あっという間に追いつかれて腕を掴まれる。
「ちょっと、無視は酷いですよ・・・って・・・何で、泣いてるんですか・・・?」
辺りを見回そうとする彼を止めようとするも、既に遅く、あの人達を発見して全てを察してしまったようだ。
「・・・婚約なんて辞めればいいじゃないですか。今から浮気なんて、結婚後平然と不倫しますよ。何で、あんな奴なんか・・・」
「分かってる!・・・分かってるわよ!そんなの。それでも好きなんだから仕方ないじゃない!!・・・私のことなんてほっといて!」
腕を振りほどき彼の前から去ろうとするが、強い力で後ろから抱き込まれる。
「ほってなんか置けないですよ。・・・俺をみてよ。先輩」
いつものヘラヘラした態度ではなく、真剣な表情に動かないでいると、唇を塞がれた。抵抗して離れようとしても強い力で抱き込まれ、貪るようにキスをされ、次第に抵抗する力もなくなった。
「まだ、好きでもいいよ。だから、俺を利用して?それで早く、あんな奴なんか忘れて俺を好きになればいいんだ。」
そう言ってまたキスをしてくる彼に、傷つけると知りながら流されるように応えた。
カーーット!
「okだよ!いや〜最近百合ちゃん以前にも増して切ない演技いいね!台本には入れなかったけど、泣きながら浩介のキスを受け入れるアドリブも良かったよ。」
「ありがとうございます。監督。」
「その調子でこのままよろしくね!今日はもうこれで終わりだから。お疲れ様!」
「はい!よろしくおねがいします。お疲れ様でした。」
皐月くんが記憶喪失と判明してからというもの、百合は表面的には元気なそぶりを見せている。監督やスタッフ、共演者にはいつもと変わらない様に見えているだろうが、無理していることを私の目は誤魔化せない。
何より、無意識に辛さを演技にぶつけているようにも見え、特に泣く演技の時カットが掛かってもしばらく涙が止まらないなんてことが増えた。
「奈美さん。今日はこの後は?」
「今日はもうこれで終わりよ。最近、あまり寝れていないでしょ?私の目は誤魔化せないわよ。」
「・・・そっか。」
「寝れなくてもとりあえず横になって休みなさい。今日はご飯も作ってあげるから。」
車に乗り込み、発進する。ミラーを見ると余程疲れが溜まっているのか、直ぐに寝息を立て始めた。メイクを落とし顔は明らかに青白くて心配になる。
こんな生活をしていたらいつか百合が倒れてしまう。
そうは思っていても、焦るばかりで現状を打開する方法が見つからない。
「皐月くん。百合には貴方しかいないのよ。」
いくら考えても、二十歳を超えたばかりの一人の青年にしか大切な百合を救えないという結論に至る自分が情けなくて仕方なかった。
連載再開に伴い、タイトルを変更しました。(2025/08/25)