荒ぶる黒豹
先程まで出ていた月は雲に隠れ、完全な暗黒が世界を取り巻く。
草木も眠る丑三つ時。
闇より黒いコートの男がテニスグラウンドに姿を見せる。
氷室雹河は、テニスコートの中央まで歩くとそこで足を止めた。
「誰かいるんだろ……、出て来いよ」
雹河の言葉に呼応するかのように、コートフェンスから、1人の男が現れた。
全身の筋肉がぱんぱんに張り詰め、テニスウェアが裂けてしまいそうな体つき。
頭に黄色のヘッドバンドを巻いた大男が、雹河を上から見下している。
「ここはテニス部の敷地内だ。大人しく出て行ってもらおうか」
雹河は男を一瞥すると、尋常ならざる何かを感じ取った。
「てめえ、ただのテニス部ではないな。血の匂いがするぜ」
「わかるか。いかにも、俺はカリスマ教の刺客だ」
「なるほど、各支部長は自分の側近を学園内に紛れ込ませているそうだが、てめえもその口か。ロイヤルガードと言ったか?」
雹河の物言いに、男は眉間に皺を寄せる。
「内情に詳しすぎる……、銀色の髪……。もしや、天虹学園の?」
「ふん、既にボクの事を認識っていたか」
「貴様があの氷室か。なら貴様を倒せば、教団内の俺の地位も上がるって訳だ」
男は普通のよりも2倍ぐらいある、巨大なテニスラケットを構えかける。
刹那、雹河の姿が視界から消えた。
「後ろだ」
雹河は、男の背面から飛び前蹴りを放つ。確実に背骨を捉えたかに見えた。
だが、吹き飛びながらも、男にはダメージを受けた様子がない。
「その程度の蹴りでは倒……」
男がセリフを言い終わる前に、黒豹の様なしなやかな動きで間合いを詰めると、立ち上がりかけた男の無防備な腹に強烈なボディブローを食らわす。
呻きながらつんのめる男の頭を左手で無造作に掴み、顔面を潰さんばかりの勢いで地面に叩きつけた。
頭蓋骨の軋む音を、腕で感じる。
倒れ伏す男の頭を、無慈悲なまでの乱暴さで蹴り飛ばす。
だが、雹河は右足に残った感触を確かめ、眉をひそめる。
男はゆらりと立ち上がると、鼻が潰れ、歯が折れているのにも構わず、不気味な笑みを浮かべて見せた。
「その程度では無理だな。俺は並の人間ではない……」
男はポケットから小瓶を取り出し、中の液体をあおる。
「こおおおぉぉぉ……」
酸素を取り入れると同時に筋肉が脈打ち、みるみる内に男の体が倍以上に膨れ上がる。
「ふうぅぅぅ……どうだ。これが俺の真の姿だ……」
「チッ、強化人間か。カリスマ教は人間兵器の研究でもしてるのか?」
「俺は完全なる肉体を手に入れた。いかに貴様と言えど、打ち破る事はできまい」
雹河は地面にツバを吐くと、鋭利な刃物を思わせる眼光で男を射貫く。
「薬に頼らなければ戦えない男がほざくな。見てくれだけで中身は無いように見えるがな」
「口の減らない男だ。だが、これを受けてからもそういう態度が取れるか?」
男はテニスボールを放り上げると、全身のバネを使って豪快に打ち抜いた。
「レールガンショット!!」
重量感を伴った弾丸が、空を裂き、雹河に襲い来る。
「『超電磁砲』と名付ければ、聞こえがいいとでも思っているのか?」
雹河は、蒼い左手のみをボールに向ける。
「馬鹿が! 片手で受けるつもりか、腕の骨がグシャグシャになるぞ!」
雹河の手と球が接触。
その一瞬、左腕から衝撃波が放たれた様に見えた。
推進エネルギーを片手だけで受け止められ、雹河の手のひらでボールは回転を続ける。
「馬鹿な……。だが、その回転を受け続けると、摩擦熱で貴様の手はボロボロになるはずだ!」
だが、雹河はそのまま弾丸を握り締める。下に降りる奇妙な白い湯気があふれ出て、ボールはその回転エネルギーさえも、雹河の左腕のみによって握り潰されてしまった。
「左手一本で、十分だ」
「俺の最強技だぞ……? そんな馬鹿な事があるものかぁぁぁぁぁ!」
「危ないオモチャだ、てめえに返すぜ」
男の足元に投げつけると、ボールの外膜を構成するゴムが、ガラス細工の様に砕け散り、中に仕込まれていた鋼鉄の球が転がり出た。
「き、貴様、何者だ……?」
「改めて教えてやろうか。氷室雹河、探偵だよ」
恐怖におののく男に、雹河は冷笑を湛えて言い放つ。
「うおおおおおおっ!」
恐慌をきたした男は雄叫びを上げながら、特攻をかける。
男の持つラケットは鋼鉄製。しかもガットは金属繊維で出来ており、殴られた者はサイコロステーキの様に切り刻まれるはず。
雹河の脳天に力任せに振り下ろす。
だが、その時にはすでに雹河の姿は無かった。
「ヌルいんだよ、てめえは……」
雹河は、背後から蒼い左手を添える。
その瞬間、冷気が男を包み、筋肉の活動を停止させる。
「か、体がっ!?」
雹河はゼロ距離射程から掌底を放つ。
その一撃は、男の肉体を生易しい結果では終わらせなかった。
硬直した体は衝撃に耐えられず、増強剤で無理な負荷を与えられていたツケを一気に放出し、筋肉繊維はズタズタに引き裂かれた。
男の断末魔が闇間に響き渡る。
「ドラッグに頼った結末がこれだ。不様な物だな」
吐き捨てる様に言うと、男に近寄り、脇腹を蹴飛ばす。
「出入り口があるんだろ……、何処だ?」
もだえたまま、言葉を発さない男。雹河は男の首を鷲掴みにし、脅しをかける。
「答えろ。強化人間といえど、喉笛を裂かれたら生きられないだろ」
男はわずかに北の方角を指さす。
「オーロラ様……、申し訳ありません……」
テニス部の男はそうつぶやくと、ガクッと頭を垂れる。
雹河は男の体を打ち捨てると、コートのポケットに手を突っ込み、背を向けて歩きだす。
勝利を得ても達成感は無い。鉛の様なけだるさを感じ、1人呟く。
「くだらねえ。少しは手応えのある奴はいないのかよ……」
この獣は餓えている。冷めた心に熱を求めているのかも知れない。
雹河は、行く先に待つ更なる昏い闇へ向け、吸い込まれる様に漆黒の中に消えて行った。




