プロローグ
『10-1。165番街、ジョン・ムラリー公園。10・-29、殺人』
ダーガーはハーレム・リバー沿道を運転していた。無線がオペレーターの声を受信する。ダーガーはニューヨーク市警の無線規則に従い応答した。
近づきつつある朝日が、空を深い群青に染めていた。東部標準時で五時に達している。
ダーガーはブロンクス地区に配置された52分署の刑事だ。来年が定年だった。退任後の生活を保障する給与と年金のため、超過勤務を必要としていた。
自動車を停車する。
ジョン・ムラリー公園には規制線が敷かれていた。青と市警の徽章が塗装されたパトカーが停車している。
自動車を降りる。動作が鈍い。腹回りの脂肪を意識させられる。
未明の公園で、警官たちが作業していた。市警本部の現場鑑識班が写真撮影をしている。事件が公園内のため、緑の制服を着た、ニューヨーク市公園パトロール隊の職員もいた。
ダーガーは死体をみた。思考が止まる。
死体は上半身がなかった。上半身の組織は、破裂したように千々に飛散していた。下腹部から臓器が垂れている。血液の酸味がかった匂いが鼻腔を刺激した。
ダーガーは見知った顔を発見した。現場鑑識班のラウドだ。
「マーティン」
ラウドはふり返った。
「みた通りだ。一番離れた部品は足から三十六フィートもある」
「爆弾か?」
かぶりを振る。
「死体に煤煙が付着していない。詳しくは、ジフェルアルミン硫酸法やルンゲス反応でニトロ化合物を検査したり、電子線マイクロアナライザーで付着物と亜鉛やアンチモンを同定しなければならないが、恐らく検出されないだろう。それに、爆発なら燃焼ガスの一酸化炭素がヘモグロビンと結合し、軟部組織が鮮紅色を呈するはずだが、徴候がみられない。熱による皮膚組織の収縮効果もない。爆弾ではないな」
「凶器が特定できれば、すぐに解決しそうだ」
大型の刃物か、建築用の工具による犯行だろう。ダーガーは異常者の犯行か、犯罪組織の示威殺人、証拠隠滅を想定した。
「その前に一ついいか?」
ラウドはダーガーの顔を直視した。
「なんだ」
「この死体は死後、損壊されたのではない。こうして人体を破壊された結果、死亡したんだ」
ダーガーは困惑した。
「どういう意味だ」
「生体反応がある。臓器の貧血が生じている。この出血量は死後の損壊では考えられない。結合織と筋肉に哆開がみられるが、これも死後の創傷には生じない」
「どうやって一瞬で全身をバラバラにしたんだ。凶器は?」
「この世には存在しない」
眉を上げ、年齢によって刻まれた額の皺を深くする。片手で眉間を揉む。
「FBI研究所の鑑識班に連絡した。こちらに向かっている」
ラウドは続けた。
「刃物による損壊ではない。刃物なら創縁が挫滅状を示すが、外力の形跡はない。まるで、内側から引き裂かれたみたいだ」
二人は沈黙した。しかし、ダーガーとラウドは長年、刑事司法に関係してきた。実証主義者だ。空想はしなかった。
ラウドは片頬を上げた。
「いい知らせと悪い知らせがある」
「なんだ」
「いい知らせは、手がかりがある。悪い知らせは、これと同じ死体をみた」
ダーガーは目を見張った。
「先月、ニューヨーク港のハドソン川河口付近で、これと同じ死体が引揚げされた。創縁に挫滅状のない半壊した死体だ。大型船舶の推進器に巻き込まれたような状態だが、海流と運航状況に該当する船はない。不審点はあったが、行政の処理能力の限界で、海難事故として処分された」