温泉でふたり
最初は少し熱く感じていた湯も慣れてくるとその熱さが心地よいものに変化する。
お湯の中で思い切り手足を伸ばす。盥では絶対に味わえないこの感覚。
「温泉ていいですね」
「んー、そうだなー」
シオンも気持ちよさそうに空を仰ぎながら目を閉じている。
わたしはともかくシオンは産まれてからずっと当然のように毎日湯浴みが出来る環境にいたのだ。屋敷を出た途端湯浴みもままならない状況に陥ってしまったことをどう思っているのだろう。宿代にも事欠くようなこの状況を。
「チルリット」
空を仰いで目を閉じたままシオンが口を開く。
「はい」
「意外なんだが」
「何がですか」
「家を出たらもっと辛くて嫌なことがあって後悔するかと思っていたが……毎日が楽しい」
「…………」
「相当の覚悟をしたが拍子抜けするくらいに。これから辛くなるのか?お前はどうなんだ?もしかして楽しいのは僕だけか」
「シオン様……」
それはわたしも同じだ。だがそういう気持ちをうまく言葉に表すことが出来ずに思わずシオンの首に抱きつく。
「え、な、なあああ?」
何故か途端に驚いて暴れ出すシオン。
バランスを崩して湯の中に頭から沈んでいる。
「シオン様!」
驚いて慌ててシオンの腕をとって助け起こす。
「ちょ、ちょっと待て、待て、待て」
更にシオンはわたしの腕をほどき距離をとる。
「どうなさったんですか?一体」
真っ赤な顔でわたしのいるところから離れていく。
「いや、ちょっと生々しすぎ……。だから、えーっと、お前、いま裸だし」
「当たり前じゃないですか。温泉に入ってるんですから。なんでそんなに離れてるんですか?」
「……ちょっと一人にしてくれ……」
そう呟きわたしに背を向ける。
変なシオン。
しかしシオンが背を向けている今なら好都合だ。
ちょっと熱くなってきたのでそうっとお湯から抜け出して荷物からタオルを取り出し、身体に巻きつける。火照った体に肌を刺すほどの冷えた空気が心地よい。シオンもあんまり浸かりっぱなしでのぼせるのではないかともう一枚タオルをとりだそうとして。
荷物の中に見つけてしまった。
先程雑貨屋でちょっといいなあと思っていた手鏡を。
「シオン様」
「ん?ああ、僕にもタオルをくれ。のぼせそうだからちょっとあがる」
手渡したタオルを腰に巻きつけシオンもお湯からあがってその辺の岩に腰掛ける。
「あの、これ」
わたしが差し出した手鏡に視線を向けて。
「ああ、お前それ欲しそうだったから。そういえば鏡というものを持っていなかったし……て、なんで泣く?」
「だ、だって、シオン様、こんな贅沢品……わたしなんかのために……」
声を詰まらせるわたし。
「贅沢品?お前にそんな手鏡ひとつ買えないくらい不自由な生活をさせるつもりはないが」
「けど宿代にも事欠くような現状ですし」
「?別に事欠いてないぞ?言ってなかったか?今みたいな生活なら何もしなくても7、8年は余裕で暮らせる」
「へ?」
「この僕が何の準備もせずに家を出ると思ったか。持てるだけの私財を持ちだして当面の生活は心配ないようにしておいたに決まっているだろう」
「……じ、じゃあなんであんなに宿屋のおばさんと宿代でやり合う必要があるんですか」
「当たり前だ。納得いかないものに払う金などない」
「…………」
そ、それは……。
けちんぼってやつなのではないだろうか。
いや、シオンに限ってそんな。まさかわたしの王子様が。
「そろそろできたかな」
うなだれるわたしを尻目に温泉につけていた卵を取り出し早速割ってみているシオン。
「見てみろ、プルプルだ」
「それ、まだ生じゃないですか?」
シオンの手にある半分殻の割れた卵は白身のところが白くなっているとはいえどうにも生っぽくてどろどろしている。
「町の娘にもらったやつもこうだったぞ。不思議な食べ物だが味がない」
鞄の中から宿の女将にもらった包みを取り出し包みをあける。中にはハムがはさんだパンが入っていてハムとパンの間にそのどろりとしたものを挟んでわたしにくれる。
「ちょっと食べてみろ」
「い、いただきます」
ちょっとあまり食欲のわかない代物ではあったがとりあえず一口。
もぐもぐ。
よく分からないのでもう一口。
ん?
「なんだか、美味しいかも、です」
白身がドロッとしているのに比べて黄身の部分が柔らかい半熟になっていて不思議な食感。シオンのいうように味がないのだがハムの塩気がそれを補っている。
「だろう?」
わたしの反応に満足そうに笑みを浮かべて自分のも同じようにして食べる。
半分も食べないうちに寒くなってきたので残りはあとで食べることにしてまた温泉に入ることにする。少し冷えてしまった身体がじんわりと暖かくなる感触を楽しむ。シオンも寒くなったのか温泉に入り、わたしと並んでしばらく無言のまま眼下に広がる町を眺める。
「シオン様」
「うん」
「わたしも楽しいです。毎日、食べたことないものを初めて食べたり行ったことのない土地に行ってみたり。すごく、楽しいです」
言葉にするのは難しかったが、わたしの言葉にシオンは優しい目をして小さく笑う。
「うん、そうだな。もっといろんなとこに行っていろんなものを食べよう。ふたりで」
「はい」
そのあと何度も出たり入ったりを繰り返し、身体がふやけるまで温泉を堪能して日が沈みかけてから慌てて支度をして宿屋に戻った。