山登りでふたり
一旦宿に戻り荷物を整理して女将に簡単に食べられるものを包んでもらい、山にある温泉に向かうことになった。
シオンが雪かきした小道を歩いていると温泉から戻ってきたであろう老人が山の方から歩いてくる。
「やあ、あんたが雪かきしてくれたおかげでまた温泉はいれるようになったよ、ありがとう」
まだ身体から湯気が上っている老人は嬉しそうにシオンに声を掛けてくる。
「いつもここに来られているんですか」
「うん、わしはここの乳白色の温泉が気にいっててね。他にはあまり見かけないし、人があまりいないのものんびりできていいとこだと思うよ。町には何もないけどね。温泉に入りに行くんだろう?じゃあ、気を付けて」
笑顔で別れて。
あまり足腰が強そうな老人には見えなかったし、あの人が登れるくらいだからわたしにも行けるだろう。山を見てちょっと怖気づいていたわたしはほっとした。
「て、なんでこんな険しい山道を登るんですかー?」
肩で息をしながら崖をよじ登る。雪がうっすら積もっていて何度も滑りそうになるのを必死で前を行くシオンについて行く。
「ここには何箇所か温泉になっているところがあって、上のほうのが誰も来ない穴場らしい」
「穴場って、……」
誰も来ないじゃなくて誰もたどり着けないの間違いじゃないだろうか。
すでにわたしの両手や服は泥にまみれてひどい状態だ。
「もっとすぐに入れるところは、ないんですか」
「あるにはあるが、老人どもがうようよしているところに入りたいか?僕はべつにかまわんが」
うう、それはちょっと嫌だけど。
どうやらシオンはわたしのためにその穴場に向かっているらしいので文句も言えない。
両手が泥だらけになっているわたしと違ってシオンは大きな荷物を肩から下げているにもかかわらず生えている木を利用し器用に掴んで手を汚すことなくするすると登って行っている。
元おぼちゃまなのに一体どこでそういうスキルを習得したのだろうか。
「う、ひゃ!」
わたしもまねして木を掴んで上ろうと枝をつかんもうとした途端、バランスを崩して転げ落ちそうに。
「チルリット!」
寸でのところでシオンが腕を掴んでくれて抱き寄せてくれる。
「あ、りがとうございます」
その腕の力強さに心臓が大きく跳ね、頬が朱に染まる。
「お前、僕の手につかまりながら来い」
「すみません」
それからは三歩ほどシオンが先に進むたびに立ち止まり引っ張ってもらう。進みはゆっくりになったが、崖を登りきるとあとは緩やかな上り坂になっていて格段に楽に進めるようになる。
楽に進めるとはいっても崖よりはましなだけで上り坂が続くときつい。いい加減嫌になってきたところ、ようやく目的地らしきところにたどり着いたようだ。
「わあ……」
木立の向こうに見えたその温泉らしきものにわたしは思わず声を上げる。まるで巨大な水たまりだ。岩でできたくぼみに乳白色のお湯がたまっている。
乳白色のお湯というものを初めて見たので駆け寄って見ると、何かたとえようもない独特の香りがする。人が5人は入れるかどうかの大きさのそこには誰もいない。
「早速入るか」
「えっ」
シオンは鞄を濡れないように木の枝にかけて何の躊躇もなく服を脱ぎだす。
一人で赤くなってまごついている間にシオンは全裸になりさっさとその温泉の中に入る。
お、お尻見ちゃった。
「うん、ちょっと熱めだけど気持ちいいぞ。そうだ、鞄から卵をとってくれ」
「卵ですか?」
「さっき買っといた」
鞄を探ると袋に入った卵を見つけたのでシオンに手渡すとそのまま卵を温泉に付ける。
「それ、どうするんですか?」
「しばらくつけておくとゆで卵が出来るらしい。お前、入らないのか?」
「え、は、入りますけど」
手を温泉につけてみると確かに普通より熱めのお湯だが悴んだ手が温められて気持ちがいい。ここに全身浸かったらどんなに気持ちがいいだろう。それに乳白色だから入ってしまえば見えないし。
「じ、じゃあ、わたしちょっとあの木の陰で」
「早くしないと日が暮れるぞ」
確かに日が暮れてから先ほどの崖を下りるのは非常に危険だ。
とりあえずシオンから見えないであろう少し太めの木の陰で手早く服を脱ぐ。何も付けてない状態になってから、しばらく考える。ここからどういう経路をたどって温泉まで入るかだ。
「シオン様?」
「なんだ」
「ちょっと向こうを向いていてくれます?」
「ん」
そうっと木陰からシオンを覗き見ると当然のように目が合う。
「シオン様、むこう向いてくださいって言ったじゃないですか」
「別にいいではないか」
「い、嫌ですよ。本当にむこう向いててください」
「さっさと入らないと風邪ひくぞ」
「だからー…」
そのとき。
背後の茂みから音が。
「にょわー!」
誰かが来たのだと思い込んだわたしは慌てて温泉に駆け込み飛び込み。
「あ、つーい!」
思わず立ち上がる。
シオンの目の前で。
「うひゃっ」
ざぶんと大きく波立たせて口までお湯につかる。
わたしが立てた大波がシオンの顔に盛大にかかった。
「…………」
「…………」
髪からお湯を滴らせているシオンに恐る恐る声をかける。
「シ、シオン様?すみません、お湯、掛っちゃいました?」
「ぶ」
ぶ?
突然シオンは腹を抱えて笑いだす。
拳を岩に打ちつけて。
目に涙を浮かべながら。
「え、えへへ?」
わたしもよく分からないまま笑みを浮かべて見せるが、考えてみたらわたしの裸を見て爆笑しているのだろうかと思うとなんだか面白くもない気持ちだ。
「何かおかしいですか」
まだ息も絶え絶えにひいひい言っているシオンにじっとりとした視線を向けると、
「う、うん?なんだかよく分からんがおかしい。強いて何がおかしかったかあげるとすると顔だな」
「そうですか……」
ちょっと乙女心が傷ついたのと、結局思い切り裸を見られてしまった恥ずかしさでそっぽを向く。
「チルリット、こっちから町が見下ろせる」
ようやく笑いがおさまってきたシオンに呼ばれ移動すると、その場所から確かに温泉につかりながら町が一望できるようになっている。
「わあ、本当ですね~。シオン様、あそこ、宿屋ですよ。で、あっちがさっき行ったお店です。こうやって見るとやっぱり小さい町ですね」
町を指しながらシオンのほうに視線を向けるとシオンは町ではなくわたしのほうに優しい視線を向けていた。
思っていたよりもシオンとの距離が近くてなんだか急に気恥かしくなり、口元まで湯に沈んでブクブクと息を吐いた。