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Sub Rose  作者: 下弦
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Ⅴ 守護神

 体型に合わせ特別にあつらえられた甲冑。金色の髪は一本に結われ冑の下から背に流れている。

 彼女の身におびた不思議は、女神の化身と言われるゆえんとなった生まれだけではない。ギリシア人の母から受け継いだ『もうひとつ』は、確実に彼女の内に存在した。



 援軍到着の知らせがパルティア軍本陣に届く頃、本隊を離れたファルナはランディアにほど近い山地にいた。

 初陣で勝利をおさめた祝いに、兄王から贈られた優秀な血統の軍馬の馬上、彼女は身じろぎもせず眼下を横切る道の彼方をうかがっている。

 草木の少ない、赤茶色のむき出しの岩山。その起伏には分散して50騎の軽騎兵を伏せていた。

 山あいの浅い谷にそって蛇のように緩く曲がった赤銅色のその道は、シリアの方角からランディアを経由し更に遠くへ通じている。

 神経を研ぎ澄まし、あたかも獲物を狙う獣のように彼女は何かを待っていた。


 山の上高くまで月が昇った頃、同じく人馬ともに重装の騎兵の一人が彼女の隣へ馬を進めた。馬の首を守る鈍い銀色のチェインメイル(鎖帷子)が擦れてたてる、澄んだ音が間近に来た時にも青い目はシリアの方角へ向いたままだ。


「ファルナ、これ以上国王陛下をお待たせしては」


「いや、これは戦の行方を左右するかもしれない危急。兄上も判ってくださるはずだ」


 こんな時のファルナは友である彼にも、容易に声をかけ難い雰囲気がある。彼は口をつぐみ、ファルナとともに道の涯に意識を集中した。

 シリアの方角から領地を迂回し、早馬を跳ばすコントゥベルニウムを見たという者がいる。一昨日、親パルティア派のアルメニア貴族から受け取ったのは、事実かどうかもさだかではない知らせだった。

 しかし、一行がローマ軍の伝令だとしたら、取るに足らない小集団でも、この戦にとって大きな意味を持つ。

 パルティア軍の裏をかき、伝令がランディアへ向かうと仮定して、堂々と街道をゆく愚か者はいないだろう。ランディアを通じる道のすべてを確認し、一行が通るのはこの道しかないと彼女は踏んだ。

 シリア総督が動いたという噂もある。伝令がシリア属州からの援軍を知らせるものならば、ぺトゥス率いるローマ軍の士気は高まり、友軍の到着まで死力を尽くそうとするだろう。

 兵糧の準備をおこたったペトゥス軍、対するパルティア軍の兵糧や飼い葉も決して多くはない。今年はいなごの年で、飼い葉を食いつくされ集めたくとも集められなかったのだ。このまま、もしも戦況がペトゥス軍の優勢に転ずれば、取り返しがつかない事態になる。

 だからこそ伝令を捕らえ、コルブロが到着する前にペトゥス軍を包囲し一斉攻撃を仕掛けねば、時が経てば経つほど勝機は逃げてゆく。


 コルブロはユーフラテス河岸に橋をかけ、櫓を立てた大船から投石機と槍射機で対岸のパルティア兵を駆逐し、軍団を配置したとの報告を受けた。

 確かにパルティアを睨み、河岸の防衛戦を固めたと考えるのは自然かもしれない。しかしなぜこの時期を狙うように、ユーフラテス河岸に軍団を配置したのか。結果パルティア軍はシリア進行を完全に諦め、我々の目はすべてアルメニアに孤立したペトゥスに向く。

 まさか、それを意図しているわけでもあるまい。釈然としない、思いがファルナの内に生まれる。一見、すべて利に叶っているように見えて、考えれば考えるほどあの男の狙いの全貌が見えなくなって来るのだ。

 ふっと息をつき彼女は、思考を切り替える。コルブロの考えがどこにあるにしろ、まずアルメニアを完全、手中に収めなければならないことに変わりはない。ヒルカニアの独立を許した今、万が一、またもやここで敗戦ともなれば、兄の威厳はたちまち失墜する。


 失敗は絶対に許されない。

 そう自分に言い聞かせ、ファルナは手綱を握り軽く唇を噛んだ。


 皆が言うように真実、自分が女神アナヒタの化身であれば良かったと彼女は思う。

 母がファルナを身籠った時、胎の児に予言を授けた巫女は、ファルナの遠縁にあたるエラトという女性で、「予言者の村」の出の者ではなかったが、不思議な予言の力を持っていた。そのエラトの予言は、絶対でほぼ確実とされていた。

 ファルナにはもちろんそういった神がかり的な力はなく、あるのは記憶力と、エラトより授かった、アナヒタの加護を持つとされた予言、そして前王の娘であり、現王の妹という地位。彼女がここまで歩んで来た道のりは、決して平坦ではなく葛藤と苦労の連続だった。

 女神の守護を求める人々の期待に応え、女指揮官として認められるためには、有能な男性指揮官以上の働きが求められる。

 いざ兵たちの上に立つ立場となると、望んだこととはいえ、想像以上の困難が待ち受けていた。それをファルナは、持ち前の気の強さで乗り越え、皆の期待に応え続けてきたつもりだ。


 パルティアの伝統を考えると女が戦場で采配を振るうなど、前代未聞でとても考えられないことだった。

 名高い貴族の生まれであればあるほど、女に課せられる紀律は厳しくなる。成長するまで一族の紀律を堅く守り。誰かの元へ嫁いでは、夫の邸宅の奥に複数の妻と共に囲われる。そして、支配者のために、将来兵士となる男児を多く産む。それがペルシア文化圏に生まれた、身分の高い女の生き方とされていた。

 女の彼女が男と肩を並べ彼らと同じにふるまっていられるのは、女神の化身という事実ではない誤った人々の認識のおかげだ。だが、遠くない将来に他の女たちと同様、自分も兄の決めた男の元へ嫁ぐ日が来ることを彼女はさとっていた。


 時間がない。


 期限つきの自由がある内に、兄たちの立場を強固で揺るぎないものにしたい。だからこそ祖国や、愛する兄たちのため、『アナヒタの化身』という立場を最大限に利用してきた。

 彼女はある予言をずっと恐れ続けていた。

 巫女エラトがアトロパテネの貴族に嫁ぐことになり、還俗したあの日。幼ないファルナに、エラトはひとつの予言を授けた。


「王女、言おうかどうかとても迷ったのですが…」


 黒い石づくりのランプの光が、二人を照らす。神殿の一室には彼女たち以外もう誰もいなかった。思い出すのはまだ小さなファルナの手を取り、悲しそうに見つめるエラトの澄んだ茶色の目。


「あなたは、いつか命より大切な人を失うわ」



 その時、乾いた風がシリアに向けて吹き抜けていき、めぐる思い出は中断される。


「何かが、来る」 


 目にとらえた兆しの正体は、舞い上げられる土埃だとわかった。エルセスの方を向くと、彼もまた同じく気づいたのだろう小さくうなずく。


 彼女はそばに控える兵から矢を一本受け取り、下方に向け、弓に番がえる。矢の先にくくられた布に染み込ませた油の匂いが鼻をつく。ちょっとした見ものだと、エルセスは低く笑った。

 ステップ気候の乾燥した大気、風向き、強さを考慮にいれ彼女が用意したごく簡単な罠。

 時間がないのは、彼らローマ兵たちも同じ。太陽の神の加護を失う夜間は戦闘を休止するパルティアが、まさかこんな闇にまぎれ騎兵を伏せているなど思ってもいないに違いない。

 土煙は次第に大きく見え、遠くから近づく蹄の音も確認できる。彼女は岩陰に潜めた兵の手にある松明に矢の先の布部分を近づけた。岩肌を照らす松明から移る小さな焔が、矢の先の油を食らいにわかに勢いづく。

 もう少し、さあ早く来なさいとファルナは敵を罠へと引き付けた。指が銀色の弓弦を引くにつれ、とりまく空気もぴんと張りつめた。


「20、それとも25?」


「30人ほどでしょう」


 親ローマ派のアルメニア貴族の手の者であろう、道先案内人を先頭に、短衣を着た男を取り巻き、整然と護衛が配されている。

 立てた目算が正しければ、こちらが有利。ただ、伝令を生け捕りにするには、戦いは最小限にとどめなくては。それはすべて、彼女の配下の軽騎兵たちの働きにかかっている。

 ギリシア神話において半人半馬の獣ケンタウロスのもととなったのは、まさに人馬一体となり戦う、機動性に優れる彼ら遊牧民の軽騎兵たちだ。

 支配する側と支配される側、シンプルな社会構造を越えてファルナは彼らに揺るぎない信頼を抱いていた。

 何ていうこともない、30人を捕らえるだけだ、彼らなら今度もうまくやってくれるはずだと、彼女は自らに言い聞かせ雑念を払って自分の仕事に集中する。

 矢の向いた方向から吹く風に乗り、油の匂いが流れてくる。彼女は背筋を伸ばし矢を構えたまま、先頭をゆく道先案内人と目標の距離とのタイミングを見計らう。


「素敵ね、好みだわ」


「何だ、あんな男が好みか」


 松明を手に先を急ぐローマ兵たちの方へ顔を動かし、一行の隊長らしき軍装の男を見てエルセスはたずねる。小さく吹き出し、彼女は首を振った。


「いいえ、馬の方。残らず生け捕りにしましょう」


「馬の方か?」


「馬鹿ね、人間よ」


 今だ、エルセスとファルナの唇が声なくつぶやくと同時、彼女の指を離れる矢は光の軌跡を描き、ローマ兵たちの前方の黒く変色した地面を射る。

 昼間なら彼らも気づいたかもしれない。しかし月の明るい夜とはいえ仕掛けられた罠は、立ち枯れの木の影にまぎれるよう巧妙に隠されていた。

 またたく間、矢から広がる火は地を舐めるかに左右真横へ燃え広がり、ローマ兵たちの行く手をさえぎった。

 彼らはそれを回避しようと手綱を操る。しかし、先頭近くをゆく馬は突然現れた火の壁に混乱し、中には暴れる馬から振り落とされる者もいた。

 後続をゆく兵も次々と巻き込まれ、谷に叫び声と馬のいななきがこだまする。

 最後尾近くのローマ兵が待ち伏せに気づき、引き返そうとする時にはすでに遅く、彼らは弓を構えるパルティアの騎兵たちに取り囲まれていた。


 焔の勢いが徐々に弱まりを見せるころ、ローマ兵たちは黒煙の向こうに、二人の重騎兵と自分たち数をさらに越すパルティア兵の影を見た。

 熱せられた空気が上昇気流を生み、火の粉を舞い上げる。

 ローマ兵と二人の重騎兵は、たなびく煙を境に対峙していた。

 重装の騎兵の背後では包囲した騎兵たちが、いつでも矢を射れるよう、微動もせず合図を待っている。

 もはやこれまでかと、ローマ兵たちは次々と武器を手放してゆく。が、隊長とおぼしき男だけは、焔を映した目を爛々と輝かせ不動のまま前を睨みすえている。


「ウルスラグナ…」


 ファルナは愛馬の名を呼び槍を片手に握ると、空いた手でなだめるように馬の肩を叩いた。そして手綱を操り馬を後ろへ退かせ、円を描くように身を返すと、あぶみに預けた右足で馬の横腹を蹴る。

 たとえ猛獣を相手にしても、ひるまないとされる勇敢な血統の、ニサ産の青毛の馬は焔の手前で高く跳躍し、火と煙をものともせずにローマ兵の前へ着地した。

 下段に騎槍を構え、彼女は矢を射らんと気色ばむ騎兵たちを手で制する。

 ここぞとばかりローマ兵は剣を抜き、彼女に斬りかからんとした。


 丸く大きな月、焔、煙。異なる国の兵たちが見守る儀式めいた雰囲気の中、高く響く刃を交える音。

 腕力に劣るファルナは巧みな馬術と、槍さばきで応戦する。繰り出される槍は相手に払われるが、その長さゆえに相手を翻弄し、容易に近づけさせない。

 それは一瞬できごとだった。

 動作の合間にできた隙を彼女は見逃さない。

 たちまちローマ兵の剣は巻き枝に払われ、斜めに傾いで地面に突き刺ささった。

 ふたたび剣を取ろうとする男の喉元すれすれに、ファルナは槍穂先を繰り出しぴたりと静止させる。ローマ兵の喉からは、悔しげなうめき声が漏れた。

 すでに焔は鎮まり、煙も消えかけている。

 勝負の行方を見守っていた、パルティアの騎兵たちもエルセスの指示で馬を前進させた。ファルナとローマ兵、二人の敵将はやっと、お互いを熟視する機会を得る。

 ローマ兵は上級士官にしてはまだ若く、精悍な顔には疲労の色が見て取れた。彼は槍を突きつけられた喉に唾液を流しこむと、馬上のパルティア将校の姿を、徐に見上げてゆく。

 身体の線に合わせて作られた甲冑は、その主が女であることを物語っている。


「女か…?」


 驚きをもって問われる質問に、ファルナは答える気もなかった。答える義務などないと暗に示すと、ローマ兵の喉から槍穂先を離して、男のそばから剣を払い退ける。


「聞きたいことがある。答えて貰おう」


 ギリシア語で命じる彼女の身体に、ローマ兵の視線が不躾に彷徨うのをエルセスは見ていた。

 少し充血したローマ人の目が、円錐形の冑から流れる金の髪、青い双眸に向けられた時、彼の顔にあからさまな侮蔑の色が浮かんだ。


「なぜ、お前のようなゲルマン人の女がここにいる…、…」


 その先の言葉は早口で、エルセスの知らない言語、おそらくラテン語で語られた。ファルナの表情は変わらない。しかし、長く親しい間柄から、彼女がその言葉にひどく気分を害したのが判る。


「エルセス、このお方は状況をよく理解できていないようだ」


 言うが早いか、頭上で回旋させた槍の石づきがローマ兵の鳩尾に沈んだ。上体を折り曲げ腹部を押さえて膝を落とす横顔に、ファルナは更なる強力な一撃を見舞う。

 苦悶の表情で咳き込む男とファルナとを交互に見、エルセスは芝居がかった動作で肩をすくめて見せる。


「わが偉大なるパルティア王は、寛大な御方だ。しかし、ここにいる指揮官殿は気が短くてなあ。命あるうちに、おとなしく言うことを聞いた方がいい。首だけになってローマに帰りたいなら話しは別だが」


 言葉合わせにファルナは、ひやりと冷たい槍穂を兵の首にあてがう。


「言え、この隊の指揮官は誰だ」


 ローマ人は乾いた砂土の上に血の混じる唾液を吐くと、切れた唇の端を手の甲でぬぐった。小さく舌打ちをし、同胞たちを気にするそぶりで少しだけ後ろを振り返る。


「…ペトゥス将軍だ」





 セレウコス朝の支配を脱した後にも、パルティアには多くのギリシア人ポリスが存在し自らの文化、そして自分がギリシア人だという誇りをもって暮らしていた。

 パルティアの領内にありながら、政治的支配さえ拒む彼らを代々のパルティア王は慎重に扱い、パルティア側が許容尊重する形で、異なる文化を持つ民族同士は折り合いをつけてきた。

 しかし、経済・文化の面でパルティアに大きな影響力をもつ反面、ギリシア人ポリスは親ローマ派を生む温床となってゆく。結果、危機感をつのらせたパルティアにより、ギリシア人の自治権は奪われていった。


 クテシフォン王宮へは、ギリシア人ポリスからの客もたびたび訪れていた。パルティア支配下にある都市なのだから、ポリスのギリシア人要人が客として訪れるのは、ごく当たり前のことだ。

 だが、そんなギリシア人ポリスよりの客たちから、密かに向けられる冷ややかな目に、ファルナは以前から気づいていた。ギリシア人は自分たちの文化に誇りを持っていた。ギリシア人にとって異質であるパルティア人の文化は野蛮ととられていたのは知っていたが、露骨に顔に出す者は流石にいなかった。

 なぜ、まったく見ず知らずの他人から自分だけが蔑みの目で見られなくてはならないのか。彼女にはどうしても不思議でならなかった。


 幼いある日、王宮の中庭の白くこじんまりとしたあずまやの椅子に座り、ファルナは巻子の書物を広げていた。

 人工の池から流れる小川が陽光を反射し、その下では小さな魚が銀鱗を輝かせて泳いでいる。

 咲き誇る薔薇の芳香が、午前の風のない空気に溶け込んで、奥行きのある広い中庭はまるで薔薇水の壺を開けた時の匂いがした。

 多くの民族が薔薇を好んだように、パルティア人もまた薔薇を愛した。

 この中庭は、パルティア人の嗜好を反映したつくりで、幼いファルナのお気に入りの場所だった。

 午前もまだ早い時刻だというのにコバルト色の空で白く輝く太陽は、これからの気温の上昇をうかがわせる。

 そろそろ中へ入ろうかと巻子を丸め、あずまやの階段を降りた時だ。

 薔薇の植え込みの向こうからギリシア語で交わされる会話が、ファルナの耳に入ってきた。


「あの金髪で目の青い王女、アルクメーネの子だろう」


「ああ、まるでゲルマン人だ」


「アルクメーネが蛮族の汚れた血を引いているという噂は本当だったのだな」


「あの目の色。あれがなければ大層、美しい女だったんだが…」


 自分と母のことだとすぐにわかった。と、同時にどうしてギリシア人からあのような目で見られていたのか、彼女の中で合点がいった。

 兄ヴォロガセスは、ギリシア人とパルティア両方の特徴を合わせ持つ風貌で、自分のように青い目もしていなかったし髪もこんな色ではない。兄弟たちや母方のギリシア人たちにもそのような特徴をもつものはいなかった。

 自分だけが、なぜこんな髪や目の色をしているのか、今まで不思議に思わなかったわけではない。ただごく稀に、濃い髪色の民族にも金髪の人間が生まれることもあったので、自分もそんな中の一人なのだと思っていた。


 それからしばらくして、ギリシア人やローマ人が青い目を身体の欠陥としかとらえていないこと、そして、青い目が青い目の先祖を持つものにしか現れないらしいということを知った。

 ギリシア人やローマ人からどう思れようと、知ったことではない。しかし、ギリシア人でもなくましてはゲルマン人でもない自分は、果たしてパルティア人だと言えるのか。


 未熟な心は早熟な知性との合間で揺れ、傷を内包した胸は、生まれて初めて知る孤独感に苛まれた。


 モザイクタイルの人工池の水面に映る自分の顔が、誰か見知らぬ人間に見えた。たとえどんなに疎ましく思っても、黄色い髪で青い目という事実は変わらないのだ。

 ファルナはそばに置いた小刀を取ると髪止めのピンを抜き、結い上げた髪を下ろした。はらりと落ちる髪の房。陽光に透けて白みをおびたそれは、もはや邪魔者以外の何者でもない。

 目の色は変えられないにしても、この髪を裁ち切って、かつらでもつけたら少しはパルティア人に近づける気がした。


 髪の房を掴み、彼女は堅く握ったすぐ上から小刀の刃をあてる。そして、いまにも力を入れようとしたその時だった。手首を誰かに捕まれ、彼女は驚きのあまり小さく声をあげた。


「何をしているんだ、ファルナ」


 あっと言う間に小刀を取り上げられ、振り返るとそこには腹違いの兄ティリダテスの姿があった。


「こんな物を持っては危ない。お前が髪を切ってしまったら、さぞヴォロガセス兄様はお嘆きになるだろうな」


 何も言えずにうつむくファルナの肩に、ティリダテスの手が包み込むように置かれる。


「元気がないなんてお前らしくない。何かあったのか?」


 その手の温かさを彼女は今でも覚えている。

 熱で氷が溶け出すように、一人で悩んできたものが次から次へと言葉になって、自分でも驚くくらい簡単に唇から滑り出た。

 ティリダテスはそのすべてを、柔和な微笑みをたたえて受け止めてくれた。そして、ファルナの胸からわだかまる物すべてが出て言った時、彼はこう言ったのだ。


「ファルナお前は私たちの大切な妹で、誇り高きアルサケスの血を引く王族だ。だから胸を張っていいんだよ、自分はパルティア人だと」



 胸の奥底に封じた迷いが、今になって頭をもたげる。

 ギリシア人やローマ人に何と思われようが構わない。彼女の中では大したことではないのだ。なのに、何故か不安で心が騒ぐ。

 いつもの自分であれば軽く受け流したであろう、あのローマ人隊長の憎まれ口より、過剰な怒りを覚えた己の方がむしろ腹立たしい。

 彼女は自問する、何が自分をここまで神経質にさせているのか。

 行き着く答えはひとつで、なお屈辱的だった。

 要因はおそらく『あの男』だ。遥か西方、ライン川の左岸、ゲルマニアの地でゲルマン人たちから怖れられていた、かつての低地ゲルマニア総督、コルブロ。

 彼らの多くは敵愾心すら抱かずにコルブロに従ったと聞く。きっとあの男は統治の何たるかを知っているのだ。反抗する者には徹底した制裁を、従おうとする者には温情をそれがコルブロのやり方だ。すべてを力で抑えつけるなら、必ず反発を生むことを彼は知っている。

 なんの経験もない、ぬくぬくと平和を享受してきた兵たちを、たったひと冬で精鋭に育て上げ。目の前の林檎でも取るように、いとも簡単にアルメニアを奪還して見せた。同じ指揮官として嫉妬さえ覚える、その力量。

 彼女は自らの技量を過大に評価するほど愚かではない。だが、少しは戦場で経験を積み功績を上げたという自負はある。

 だからこそ、わかる恐ろしさもあるのだ。

 ローマは、常に内外の敵を警戒しなければならないパルティアとは違う。このアルメニアでの戦を含め、国を揺るがせるような危機はもう長いこと存在しない。なのに、なぜあんな軍人が平和なローマにいるのか、彼女にはどうしても不思議でならなかった。



「私は、…パルティア人だ」


 今はこんなことを考えている場合ではない、そうファルナは自らに言い聞かせ、ヴォロガセスやパルティア貴族、諸侯の待つ天幕前で立ち止まって気を落ち着ける。


「はあ、お前。気でも違ったか?」


 間抜けた声の方へ顔を向けると、隣で衛兵に剣を預けるエルセスと目が合う。彼は苛立たしげにファルナを睨み、天幕の入り口を掌で示した。


「何、くだらん当たり前の事言ってるんだよ。さっさと入れ、お前が入らなきゃ俺も入れんじゃないか。お前のお兄上はお前に甘いかもしれんが、俺の親父は違う。またどやされるのはまっぴらごめんだ」


 肩をすくめて見せる副官の顔を暫しまじまじと見て、ファルナは短く笑い声をたてた。改めて、彼が友人であってよかったと思う。しかし、自分が感謝を口にした所で彼にはわけがわからないだろうし、今さら改まるのは妙に気恥ずかしかった。


「叱られて当然。美人の貴族の娘と見たら片っ端から口説くんだもの」


 入り口の垂れ布が開かれ、彼女はそう言い残し天幕の内側へ入ってゆく。


「安心しろお前みたいな気の強い女、絶対に口説かん」


 ファルナの背中に言い捨て、エルセスは視線を上向け天幕の中で待っているであろう主君の顔を思い浮かべる。


「それに殺されたくないしな」


 ひとりつぶやくと、彼もまた開かれた垂れ幕をくぐった。




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