Ⅲ 沈黙の塔
ファルナ、12歳の春。
ギリシア人ポリスから王の妾として献上された彼女の母親は、他のギリシア人には見られない黄金色の髪と青みがかった目の色をしていた。
知る人たちは皆、彼女が母に似ていると言う。
白大理石から切り出したような肌、薄紅色の唇。すらりとした身体が決して華奢には見えないのは、士官候補としての鍛練のせいだ。
彼女がまだ幼い子供のころ、兄王がちょっとした戯れ心で教えた弓の腕はとうの昔に子供のお遊びの域を越え、馬術ともに大人の騎兵たちに引けを取らないほどになっていた。
彼女が稀な資質を見せるのは弓術や馬術だけではない。
ヴォロガセスは古今東西の珍しい物や美しい品物を扱う隊商を宮殿に招き、ファルナはそれを心待ちにしていた。一見、兄王が妹の気に入るものを買い与える光景は年若い王女のおねだりにしか見えないのだが、無邪気に見える目の奥には別の意図が潜んでいた。
語学に秀でた少女の真の目的は商人たちのもたらす噂や情報だった。
あどけなさの残る上客に、商人たちは品物のおまけに他国の内情などを差し出すのだ。
ファルナはその早熟な知性ゆえに、自分を取り巻く環境がいかに恵まれているのかを理解していた。古今東西問わず権力をめぐり、親兄弟や同族が骨肉の争いを繰り広げるのは常のこと。
しかし彼女の親兄弟たちはどうだ。互いに互いを尊重しあい思いやる。幾多の国々においてもそれは稀だと言うことを知っていた。
同時に、愛すべき兄王の治世がいかに脆いものかも感じとっていた。
パルティアは7つの大貴族の長が多大な影響力をもち、王として各々の領土を治めている。それを統べるのが諸王の王、パルティア王なのだ。妾腹の王というハンデ。どんな些細なことが引き金になり非難の矛先が兄王に向き、結果大貴族たちが離反するとも限らない。
早く大人になりたい。
大人になり兄を助け、兄弟一族、パルティアの民の平安な生活を守るため、いつかこの身を捧げるのだ。
亡き父の葬儀の日、彼女はチグリスの河原でそう誓った。
一年に満たない治世のうちに逝去した父、パルティア王ヴォノネス2世。
チグリス川のほとりに築かれた夏の宮殿。白檀の香りにけむる広間。王の遺体は、白い聖衣と聖帯を着せられ、石板の上に乗せられていた。
石板の周りに描かれた、邪気を遠ざけるための結界の外を取り囲み、祈祷をささげる一族と司祭の声がおごそかにこだまする。
青い装束に身を包む参列者の中には、ヴォノネスの2人の王子と、ファルナの姿もあった。
パルティア王となり、クテシフォンに移り住み、やっと一緒に過ごすことの多くなった父、ヴォノネス。
死する前日まで彼女に笑いかけていた王。
いつだって父は敬愛の対象であり、彼女が父の子であることを誇りに思っていた。
離れていた時を埋めるように抱き締めてくれた大きな手、力強い腕、広い胸。わずか数ヵ月の幸せな日々。鮮明な記憶が彼女の内によみがえる。
儀式は最後を迎えようとしていた。司祭の読み上げる詩編の一節、これが終われば死者の魂は肉体を離れ、この世を去るとされている。
薄く朱を差して腫れたファルナの目に涙の膜がふくれあがり、とうとう張力の限界を迎え透明なしずくが目尻を伝う。
意図せず押し寄せる記憶の波に揺り動かされ、彼女の精神は悲鳴を上げていた。
記憶回路の超過稼働――、嬉しかったこと悲しかったこと、色・形・手触り・臭い・その時々の感情が、堰をきったように泉のごとく湧き出る。脳内で完全再現される記憶は、どれも現実とまごうごときの鮮明さで、ファルナは自らの制御を失った。
彼女の中に見え隠れしていた「才能」の完全なる開花は、愛する父を失ったばかりの少女にはあまりにも残酷だった。
ファルナの震える手が、助けを求めるように父の遺体の方へ伸びる。だが結界の内に入りそうになる直前、力強い力がファルナの腕を引いた。少女の軽い身体はバランスを崩し、引きずられるように後に下がる。
「ファルナ、死人に触れるのは禁じられている」
ファルナを我に返らせたのは、兄、ヴォロガセスの押し殺した声だった。
死人に触れるのは屍可(送り人)のみ。誰であろうと、他の人間が遺体に手をつけるのは、戒律によって厳しく禁じられている。優しいヴォロガセスを怒らせてしまったと、ファルナは思った。大事な父の葬儀で取り乱し禁忌さえ犯そうとした自分に、気分を害したのだと。
「ごめんなさい、…ごめんなさい」
止めなくてはならないと判っているのに、怯えと悲しみがない混ぜになり、滂沱たる涙は止めようもなく、次から次へと頬を流れ落ちる。
ヴォロガセスは何も言わずにファルナの利き手である左の手を自分の掌で包む。いつ来たのだろうか、ファルナの右隣にティリダテスが立ち、彼もまた妹の手を握った。ファルナはしゃくり上げながら二人の兄を交互に見上げる。
頬を濡らしていない兄弟姉妹は彼ら二人だけだった。各々の顔は青ざめてはいたが、目は乾いたままで、今はただの魂の脱け殻となった父を見つめていた。
「儂らは泣きたくとも泣けないのだよ。だからお前が兄の分まで泣いておくれ」
ヴォロガセスが小声で言い、ファルナを挟みもう片隣でティリダテスがそれにうなずく。
兄たちも悲しくないわけがない。父は美徳を重んじ、他には見ないほどの家族想いだった。正妻も妾、子供たちも分け隔てなく比べることなく愛した。だからこそ、この時代には珍しくその子たちの間に不和は生じなかったのだ。
しかし余りに突然の父の死は、二人の兄に王位の継承という難題をつきつける。
年長でありながら側室の子のヴォロガセス、王位を継ぐには温厚すぎる正統なる血筋の義兄ティリダテス。
パルティア、バシレウス・バシレイオン(諸王の王)。王位継承権を持つ者にとっての最高の栄誉、輝かしい称号アルサケス。
その裏で歴代の王たちがそうであった以上に、これから歩む道が険難であることは、ファルナより二人の兄自身が良く知っているはずだった。
涙を流せるだけ自分は幸いなのだ。泣くことを許された自分は幸せなのだとファルナは思った。
彼女は今日という日を最後に、泣くのをやめる決意をした。
頬伝う涙は足元に落ち、川のほとりの肥沃な土に染み入る。この地に落ちる水の滴がチグリスの流れに溶け入り、ユーフラテス川と合流してシャッタルアラブ川と名を変え、やがてペルシア湾に流れ込むように、涙を流す幸いを遠くへ追いやった。
父王の遺体はチグリス川をわたり、郊外の荒涼とした丘に移された。
丘に石を敷き詰めて築かれた石造りの円筒形の建造物、ダフメ「沈黙の塔」。
アケメネス朝ペルシアではなかった、王族の風葬がアルサケスの時代では行われていた。死せる者の最後の功徳として、猛禽に血肉を与えるのだ。
ダフメを前にファルナは、亡き父に誓った。
パルティアの始祖。偉大なる初代アルサケスを支えた義兄と同じ名の弟、ティリダテスのように強い人間になり、兄たちが真の栄光を手にし自分を必要としなくなるまで彼らを支え続けるのだと。