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重厚な機械音が街を覆う穹窿型の遮光膜に反射し、吐き出された蒸気は行く先を求めて彷徨う。複雑に編みこまれた配管の隙間から覗く空を仰ぎ見、少年は息を吐いた。そうして、蒼天に浮かぶ金輪に想いを馳せる。
『標点、EN140-37』
感傷に浸る少年を尻目に、単調な電子音が彼の鼓膜を刺激。思い出したかのように、少年は視線を少しだけ下げる。
「……ああ、見えている」
目標を視認し、応える。時刻はとうに零時を超え、金属の摩擦音と蒸気の発生する音とが街を支配している。光源は遮光膜から漏れ出る僅かな太陽光と、彼方に点々と灯る人工灯のみ。けれど、彼にとっては充分だった。両腰の短刀に手を添え、身構える。標的は依然、穹窿の中心から遠ざかるように配管を伝って逃げていく。ゆっくりと息を吸い、止め、瞬時に跳躍。一蹴りで建物の窓枠へ、二蹴り目で対面へ飛び移り、垂直に跳躍。配管の一つに飛び移り、標的を一瞥、入り組む配管上の最適なルートを判断して即座に跳ぶ。僅か数秒で距離を詰めた。右手を抜き払い、短刀を投擲。蒼い刀身が煌き、標的の足元を襲う。標的は咄嗟に避け停止、配管から吹き出す蒸気を浴びながら少年に目を向ける。眼球は血走り、剥き出した歯の隙間から荒い呼吸音が漏れだしていた。
二者の間に、探り合うような沈黙。今にも跳びかかろうかという標的に対し、少年は左手に持つもう一本の短刀を弄ぶ。
「――どうした? 逃げないのか?」
口にし、少年は不敵に笑んだ。標的は僅かに身を強張らせる。
「――――」
標的は、足元に刺さった短刀を抜き力任せに少年へ向けて投げつけた。そしてすかさず走り出す。少年は投げつけられた短刀を掴み取り、二本の短刀を鞘に納めた。目を遣ると、標的は遮光膜へと延びる配管の一つを駆け上っていた。少年はすぐには追わずにその光景をただ見守る。
暫くして天蓋を突き破った標的に、憐みとも侮蔑とも取れる微笑を送って、ようやく少年は再び動き始めた。人工的な闇夜が穿たれ、陽光が刺すように射し込む。その光を身に浴びて、加速する。
照らされた少年の体は頭頂から爪先までが黒で埋め尽くされていた。疾駆しながら黒髪をなびかせ、褐色の腕を振る。数瞬で穹窿から抜け出し、太陽の下に出た標的を前にし、今度は情けも容赦も躊躇いもなく――恐らくは標的ソレ自身も気づかない間に――短刀を一閃。鮮血が辺りに舞った時には、既に全てが決した後だった。
少年はその血を浴びることは無く、代わりに溢れんばかりの日の光を浴びて、ただ嗤った。
◆ ◆
「『蒙龍』。報告を」
「は」
命を受け、蒙龍は急造された書類に目を通す振りをする。数ページを繰り、罪人として名を連ねた男の情報を開示する。
「――感染レベル3。脳波異常発生確率97%を上回っていたため、『対〈寄生虫〉用特別条例第廿条四項』の適用。排除致しました」
「結構」
言い終えるや否や、上官は浅い溜息をついた。
「『蒙龍』……。少しやり過ぎとは思わなかったのか?」
踵を返そうと重心をずらしたまま静止し、蒙龍は首だけを残す。
「……何が?」
「わざわざ遮光膜まで破壊させることは無かったろうし、殺す必要性もなかった。例によって捕獲し、研究用の病棟にぶち込んどけばよかっただろう? なんでわざわざそんな面倒なことをした。アレを直すのは少々費用が嵩むんだ。お前の恣意的な行動一つででひと家族を五年養える程度にはな。せめて理由を聞かせてはもらえないか?」
にやり、と音がした。
上官、リティ=ニーティは喉を打ち鳴らす。細く長い髪が照明により透け、薄い影を作り蒙龍を覆う。
挑戦的に、挑発的に。
「っくくくくく…………、冗談だよ冗談。お前も知っているだろう? 私はお前が嫌いなんだ。目にする度に嫌がらせをしたくなる。勝手な行動を責めたくなる。報告書の不正を咎めたくなる。お前の罪を罰したくなる。お前を、殺したくなる……」
恐怖心を与えることは無く、ただ淡々と、作業のように。亡くした者らの無念を、悔恨を、一身に背負って押し潰されそうになりながら、尚も虚勢を張り続ける彼女の胸中を踏みにじるように、蒙龍は彼女に背を向けた。
「……そうか、すまない」
小さく呟かれた科白はだだ広い空間に反響して幾重にも重なりあい打ち消され、消えゆく。そうして彼女の耳元に届くことは無く、去りゆく靴音と微かな溜息だけが後に残った。