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第五十二話:おかえりなさい

 ―― ……きぃっ


 温室の扉を開く、普段は全く気にならない蝶番の音が大きく響いた気がして、息を殺す。足元をすたすたとケテオセラが歩いていった。それを見送ってから私は後ろ手に、さっきより注意深くそっと扉を閉めた。

 探すまでもなく、ブラックは温室での作業用にと置いてある丸テーブルに突っ伏していた。

 そっと歩み寄れば、耳がぴくりっと反応する。普段から眠りの浅い人だ。それに、いつもなら、私がここへ戻ってきたときに、気がついているはずだ。フリをする必要はない。だから、本当に転寝していたのだ。あのブラックが……。無防備すぎる。

 きゅっと痛む胸を押さえるように胸元に拳を押し付ける。


 ブラックは、私がもう一度足を踏み出すと直ぐに、ん……と頭を持ち上げた。


 夜の闇と同じ色、私と同じ色の瞳が柔らかな魔法灯の明かりに照らされて揺れる。

 つっと距離を縮めた私を見上げて、瞬きをして私の姿を捉える。


「―― ……マシロ」

「うん」


 何をいって良いか分からなくて頷くくらいしか出来なかった。

 そんなどうしようもない私に、ブラックは腕を伸ばすと、身体の横に沿わせて、ぴくりとも動かせなかった指先に触れる。普段から体温の低いブラックの手は少し冷たい。

 今もそれは変わらないのに、触れた部分がじんっと熱く、燃えるような気がする。瞳を伏せ、きゅっと唇を引き締めた私の手を、そのまま絡め取ると、ぐぃっと引いた。

 あと一歩が歩み寄れなかった私は、その勢いで簡単にブラックの腕の中に納まる。

 繋がれていた手が離れ、腕が腰に回る。ふわりと全身が熱くなり、わっと泣き出してしまいそうなのを何とか堪えた。


「ああ、本物ですね」


 ぎゅぅっと腰の辺りに抱きついてきて「本物です」と重ねて鳩尾辺りに来る猫耳がふにゅーんっと左右に垂れる。


「―― ……ロ、マシロ。暖かい……ああ、鼓動が聞こえる……」


 何度も何度も私の名前を呼び、腰に回した腕に強く力を込める。

 それはとても苦しいくらいだったけれど、私はただ、受け止めるしか出来なかった。きりきりと締め付けてくる胸の痛みを堪えて、私なんかよりずっと沢山苦しい思いをしたブラックの頭に恐る恐る手を伸ばす。

 触れて大丈夫かどきどきする。

 緊張しながら指先が髪に微かに触れると、ぴくりと耳が驚いたように跳ねて、私は慌てて引っ込めた。でも、直ぐにへにゃんと下がったので、反射的なもので拒絶されたわけではないと得心し、もう一度、ゆっくりと撫でる。

 柔らかな黒髪が、ガラス張りの天井から降り注いでくる月光を受けて、綺麗な光の輪を作り、指先で作られた波に流されていく。


 どのくらいそうしていただろう。


 ほんの僅かな時間にも感じたし、とても長くも感じた……ひとしきり、私が消えてしまわないことを確認したブラックは、大きく深呼吸したあと私を見上げて眉を寄せる。そして、かたんっと立ち上がり、そっと頬に手を添えて顔を覗き込んでくる。


「泣いていたんですか?」


 心配そうに瞳を揺らすブラックに私は首を振った。その反応にブラックは、笑みを浮かべ「そう」と瞳を細める。


「何も、いっては下さらないんですか?」


 怒っている風ではない、責めている風でもない。ほんの少しの憂いを含んだ台詞。

 でも、今……私が口を開いてしまったら。


「マシロ」

「―― ……さ、い……。ごめんなさい……ごめ、ん」


 口からは謝罪しか出て来ないし、瞳から溢れ出す涙を止めることも出来ない。私は子どもみたいにぼろぼろ大きな涙を零して泣いてしまった。私は上げそうになる嗚咽を飲み込むために、両手でしっかりと口を塞ぐけれど、殆ど無意味だ。


「私こそ怖い思いをさせてしまいましたね。すみません……それに、私の方が怯えてしまって、貴方を人の手に任せてしまった。マシロに出会うまで、怖いことなんて何一つなかったのに、やはり私はマシロに嫌われるのがとても怖かった」


 違う、という声も出せずに、私は唸って必死に首を左右に振り声を絞り出す。


「ごめん、なさい……。私、ブラックを傷つけた」


 折角カナイに腫れを取ってもらったのに、結局また泣いて瞼を腫らし不細工な顔をしていると思うけど、私はブラックを見上げた。見上げた先のブラックは、私を真っ直ぐに見ていた。微かに疲労を感じさせる瞳は緩やかに細められ、笑みを零してくれる。

 そして、口元を覆っていた私の両手をそっと取ると、唇を寄せる。


「構いません。平気ですよ。マシロは私を選んでくれた。私を知らない状態で、私をまた選び取ってくれた……たとえそれが私一人へ向けられた想いでなくても、私はとても嬉しいです」

「―― ……ブラック!」


 本当にどうしようもないくらい、私を甘やかす。

 私はそれが嬉しくて堪らなくて、力いっぱいブラックに抱きついてまた嗚咽を上げた。愛しそうに柔らかく髪を撫でてくれるいつもの仕草が、とても嬉しくて、とても感謝している。

 酷いことをしたのは私で、傷つけたのは私なのに、それを微塵も責めることはしない。


「それに、治療も辛かったでしょう?」

「そん、な、こと……」

「……あると思いますよ。傍に居られなくて、居る勇気がなくて、すみませんでした」


 私の痛みを自分のものとしてくれるのに、私は私のことだけでいつも手一杯で、ブラックのことまで気が回らない。自分の至らなさに益々涙が溢れて、止まらなくなる。

 他に言葉がなくて「ごめんなさい」と重ねた私にブラックは、月の光が綻ぶように笑って「大丈夫です」と、優しく背を擦ってくれる。


 ねぇ、本当に、誰がこの人に心がないといったの?

 誰が、闇しか知らないなんていったの?


 私が落ち着くまでは、黙ってそうしてくれ腕の力を少しだけ緩めれば、ふわりと頬を寄せてくる。泣き腫らした瞼に唇を寄せられ軽く吸い付かれると、身体がじわりと熱を持ち、胸の奥がきゅっとする。

 求め合うのは身体だけではなくて、心からその全てが欲しいと縋るような気持ちになる。


 やっぱり私はブラックが好きだ。


 僅かに触れるのではとても物足りなくて、もっともっと触れて欲しいと思う。

 くんっと背伸びをすれば、自然と唇が重ねられる。

 軽く啄ばむように口付けて、もっとと伸び上がると深く割り入ってくる。もう何度も繰り返されてきたことのはずなのに、飽きることもなく尚も深くと求めてしまう。


「―― ……マシロ」

「んぅ、なに?」


 突然名を呼ばれて、喘ぐように問い直せば、妖艶な笑みを浮かべて唇の触れる距離で重ねられる。


「古代種を抜いたのはいつですか?」

「……ん、夕べ……丸一日くらい、寝ちゃったみたい、で……」


 緩い愛撫の刺激に耐えながらそう答えれば、ブラックは益々笑みを深めた。


「では、今夜は眠らなくても大丈夫ですよね?」

「……っ……ん」


 その台詞に答える隙もなく、再び唇は塞がれ、それと同時に抱き上げられると傍の円卓に座らされる。

 思わず不意を突かれて、きょとんとしてしまった私に、ブラックは微笑み、ちゅっと軽い口付けを添えてから首筋に舌を這わせた。

 ほんの少しざりざりとした感触のある舌先は、直ぐに私の脳内を麻痺させる。息を詰め、テーブルに載せた手を軽く握ればその上に大きな手が覆い被さって、きゅっと握ってくる。

 空いた手が、すっと私の服に掛かったところで私はふと我に返った。


「……っ、駄目」


 私も自由になるほうの手で、ブラックの手を掴み押し留めると、ブラックは不思議そうに私を見つめてくる。そして、勝手に何か納得したのか「ああ」と頷いて


「すみません、ベッドの方が」

「そうじゃなくて」

「はい?」


 そこで心底不思議そうな顔をしたブラックに「そうじゃなくて」と重ねた。


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