第四十九話:月は愛でるためにある
―― ……夕時
私はシゼの研究棟に招かれた。結局、陽が高い間は猫と戯れていた。塞ぎこみそうな暗い気分が幾分か上昇する。もしかして、それを狙ってのアルファの自由人っぷりだったのなら、私は感謝しないといけない。
アルファと、一緒に指定された部屋へ向うとカナイの腕を治療中だった。私の考える、というかシゼのいっていた研究室ぽいというのはここのことだろう。何箇所かシンクが設けてあり、広い平台が並んでいる。その上に並んでいる器具は、今は特に使われていないようだけど、化学実験室を連想させた。
包帯を解かれたカナイの腕を見れば傷はまだ生々しく見える。消毒をするだけでも酷く辛そうだ。
「カナイさんは痛みに弱いだけですから、マシロちゃんがそんな顔しなくても良いですよ」
一緒になって顔を顰めてしまっていた私に、アルファがけらけらと笑いながら告げる。それもそうだと納得したところで背にしていた扉が開いた。
エミルかと思ったら外れ。
綺麗な軍服姿の女性が入ってきた。
「マシロ、やっと会えた。ずっと面会をといっていたのに、エミルがうんとはいわなくて、願い叶わず噂を聞いて押しかけた」
知り合い? 知り合いなんだよね。
動揺に口を閉ざすと、シゼがすっと立ち上がり「キサキ様」と釘をさすように口にする。
そうかキサキというのか。
キサキ、といえば、確かエミルの話に出てきていた。王位継承権のある人だ。
女性だとは思わなかった。
「マシロがこのまま王宮に留まると聞いた。エミルの手を取ってくれたと、美しいときを、ここより広められると。それならば私はエミルを推そう。白月に認められたのなら、それが王位につくのが道理であろう」
つらつらと私の手を取って並べるキサキ様に、私はおろおろするばかりだ。
「キサキ様。こちらへの入室はどなたが許可されたのですか?」
「私が城内で規制を受けることはない」
「あります。ここは私の管理するエミル様の領域です。エミル様の許可・管理者の許可がない方は入っていただいては困ります。それは貴方様の領域でも同じことがいえるでしょう」
助け舟を出してくれたシゼは、キサキ様の手から私を下げてくれ間に入った。
それとほぼ同時に、カナイが後ろから私を引き、もっと後ろへと下げた。キサキ様は不機嫌そうに眉を寄せ言葉を重ねようとする。
しかし、それと同時に扉が開き「何の騒ぎかな?」とエミルが顔を出した。
エミル様。と、シゼが明らかに胸を撫で下ろしたのが分かる。緊張していたのだろう。体の両脇で握られていた拳が少し震えていた。
「どうして、キサキがここに居るの? 何? また例の件かな、謝ったよね。上王陛下だって、不問にするっていってくれたのだからもうその件に関しては良いと思うんだ。他に僕に用事ならあとで聞くから席を外してくれないかな?」
にこりとそういって微笑んだエミルに、キサキ様は私は姫に用があるんだ。と、いい募ったがエミルは部屋に入り扉を開けはなったまま重ねた。
「マシロはまだ本調子ではない。明日明後日には元気になると思うから、そのときにしてくれると良いんだけど? そんなに急? やっと出られるようになったところなのにそうやって白月を追い詰めるのかな?」
キサキ様はエミルの台詞に、はぁと大きく嘆息し大げさに肩を竦めた。
「分かった分かった。全く、エミルはマシロのことになると顔色が変わる」
「うん。ここにいる全員変わるけど、うっかりなんて起こしたくはないよね?」
笑顔で脅してる。キサキ様はその台詞に、口角を引き上げた。
「お前の頼るべき眷族は役に立たぬだろう? エミルが私に盾突くのか?」
「残念だね。異母姉さんの嫌いな術師は回復力が早くてね? うちの騎士ほど異母姉さん、魔力態勢ないよね? うっかりいっとく?」
なんだかちょっと怖くなってカナイの腕を引けばそっと耳打ちしてくれる。
「ただの姉弟喧嘩だから気にするな」
「激しいね」
「ま、あの姉とあの弟だからな」
そして二人して地獄耳だった。睨まれて私たちは、ぴっと黙る。
「なるほど、その様子では、姫に峻拒されたのだな。噂は噂……か、残念だ」
「火のないところに、だと思うけど」
「ほう、では美しいときは手の内、か」
挑戦的にそういったキサキ様に、私はどきりと心臓が跳ね、エミルは、キサキ様の言葉に促されるようにじっと手を見る。そして静かに微笑むときゅっと手を握り締めた。
「月は愛でるためにあり……美しいときはこの手の中に……って、きっとみんな気がつくよ」
「―― ……」
そのあとキサキ様はそれ以上のことを口にすることなく「なるほど」とだけ残して部屋を出て行った。
キサキ様を見送ったエミルは、さて、とこちらを振り返った。そのときにはいつものエミルで、にっこりと微笑んで口火を切った。
「出来たって聞いたんだけど?」
「はい、あとはカナイさんの調子だけなんですけど……マシロさん、どうしますか?」
突然話を振られて「え?」と目を丸くした。ちょっと研究室見学を始めようとしていた。アルファと。
「お前は当事者なんだからもうちょっと緊張感持て」
な? と念を押され、すみませんと歩み寄る。で、もう一度、嫌々シゼが話を聞かせてくれる。――物凄く熱心に説明してくれたけど、専門的過ぎて半分以上分からなかったから要約すると――私が伝えたキーワードは、どこからアプローチして良いか分からなくなっていた二人に、超ひらめきを与えたらしい。
薬は出来たのだけど、
1.その薬を飲む。
2.外から治癒師が魔力で調節する。
3.根を張った種に行き渡らせる。
という作業をするにあたって、肝心要のカナイが怪我人で、多分出来るけど多分らしい。
時間がのんびり許すなら、カナイの完全復活を待ってからでも良いということだけれど、正直あまり時間がないと私は感じている。
記憶云々ではなくて、なんというか急がないと、黒いのが白いのになりそうな気がするのだ。
「飲む」
もうひとつの理由としては、次の王陛下がそろそろ決まるらしく、その際にはブラックが立ち会うらしいのだけど、出来れば私も立ち会って欲しいということ。
その期日が迫っているのだ。
キサキ様の強引な訪問もそのせいだったらしい。だから現状がどうであったとしても、私の答えは変わらない。
「う、飲むのか? 本当に?」
「え、何、カナイ自信ないの?」
「いや、ないというかあるというか、いや、あるけどさ。七割くらいは大丈夫だと思うけど……」
―― ……七割。物凄く微妙な数字だ。
もごもごと口にしたカナイの腕にちらりと視線を送る。今はローブの奥に隠れてしまっているけれど、確かにまだ痛々しいものだった。二人で顔を突き合わせていると、シゼが、あの、と発言する。
「ラウ博士に頼んではどうでしょう。彼なら治癒師としても優秀ですし、今回のカナイさんの代わりくらいは務まるのではないでしょうか?」
その台詞に私は、ラウさんを脳内に迎え入れる。
今日も出会った麗しい人だけどクセのある人だ。カナイもエミルも少し考えているようだったけど、エミルがカナイに意見を求めれば、カナイは「ビミョー」という返答だった。
「そういえばラウさん、訳知り顔でしたよ? 色々と……あの人も関係者なんだから、尻拭いさせとけばどうですか?」
―― ……尻拭い?
アルファがあっけらかんと口にした台詞にシゼは僅かに息を詰め、エミルは、んーっと長く唸ったあと「そうだねぇ」と納得してしまった。
「カナイ、ちょっとラウを呼んで」
「へーい」
いまいちやる気のない返事だが、カナイは机の上にあった紙切れを一枚取り上げて、何か折りながら窓辺へ。そして窓をかたんっと開けて両手を差し出し、ぱんっと叩く。
「おお」
カナイの折った紙は蝶になって夜の闇の向こうへ、ひらりと飛んでいった。
それから十も数えないうちに扉はノックされた。入室してきたのは待ち人ラウさんだ。
「おや、お揃いですねぇ。召集に応じましたがどうかしましたか?」
早っ! とか突っ込んじゃ駄目なんだよね。うん。私以外驚いてないもんね。
驚き顔を隠しきれていない私にラウさんは、にこりと微笑んで「遠慮なく驚いてくださって結構ですよ。急ぎました」と両手を肩の高さまで上げて肩を竦める。