第四十三話:正論者には逆らえまい
「―― ……っ」
私はじわりと浮かんでくる涙を無造作に拭って、ベッドから抜け出した。
それとほぼ同時に、寝室の扉が開きシシィが顔を出す。私と目が合うと、シシィは目にも明らかに胸を撫で下ろしたようで、小走りに駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか? どこかお辛いところはございませんか?」
頭の先から足の先まで眺めながらそういったシシィに私は大丈夫だと頷いた。
「エミルは?」
私の質問にシシィは刹那息をつめたあと、瞳を伏せると「今は駄目です」と首を振った。何が駄目なのか食いつけば、驚いたような顔をしたものの、ゆっくりと説明してくれる。
その穏やかさが、今の私にはとてももどかしい。
「ハスミ様とキサキ様へ、状況説明をされています。今夜中にはお戻りになると思いますが、まだ戻られてはいませんでした」
あの騒ぎは夢じゃない。
「じゃ、じゃあ、アルファとカナイはっ! 二人とも無事?」
がっつりと両腕を持って問い詰めた私にシシィはこくこくと頷いた。
「二人ともご無事です。闇猫に襲われて無事で居られたのは姫様のお陰だろうと……」
「会いたいの! 二人に、会いたいの。どうすれば良い? どこに行けば良いの?」
シシィの言葉を遮って重ねるとシシィは困ったように眉を寄せた。
「今夜はご辛抱ください。城内がざわついております。これまで一度も玉座に傷を成したものはおりませんでした。それが今夜破壊されてしまったのです。今は」
「ものなんて直せば良いじゃないっ! ただ座るだけの椅子になんの価値も無いっ! 兎に角、そんなものどうでも良いから、二人の無事を確認したいの。みんなに会いたいよ」
必死に食い下がる私にシシィは心底困ったように、遅疑逡巡したあと、何か一大決心をしたのか、顔を上げるときゅっと口元を締めて頷いた。
その決意に感謝して、私はシシィの話を待った。
「外を廻って行きましょう。研究棟の隣が寮病棟になっておりますから、部屋は私も知りませんが……大丈夫、あちらの知り合いに私が聞きます」
目立ちますから被ってくださいと、ストールを大きく開いて頭からばさりと掛けられ、私はそれを両手で胸元に抱いた。
「少し濡れますが……」
「気にしないで」
この際その程度のことどうでも良い。
きっぱりといい切った私に、シシィはにこりと微笑んで、では行きましょう。と、部屋を出た。
―― ……ドンドンっ! ドンドンっ!!
私は、シシィに案内された部屋の扉を殆ど殴るように叩いた。
中の足音がこちらに近づいてきているのが分かって、ノックをやめなきゃいけないのに、手の勢いが止まらなくて、苛立たしげにノックを重ねてしまう。
「ここは病室ですよ。そんなに、叩かなくても……うわっ」
扉が開くと同時に、勢い良く雪崩れ込んでしまった。私を正面から受け止めたのはシゼだ。私の顔を見て物凄く驚いている。今夜来るとは思っていなかったのだろう。
「マシロさん! どうしたんですか? しかも濡れてるじゃないですか」
「二人とも無事?! アルファの腕は! カナイの傷はどうなの!」
シゼの話を聞きもしないで、そう詰め寄った私に、シゼは呆れたように嘆息し「大丈夫ですよ」と答えた。
「本当に?」
「本当ですよ。ぴんぴんしている、とはいえませんが、命に別状はありません。数日あればカナイさんは元のように回復すると思います。アルファさんのほうは完治には暫らくかかると思いますが、あの人の回復力も桁外れなのでそれほど心配には及ばないでしょう」
ゆっくりとそう口にしつつ、落ち着いてください。と、重ねたシゼはするりと私の頭からストールを取り去ると、傍にいた看護士さんのような人からタオルを受け取る。
「兎に角、貴方が風邪でも引いてしまっては大変です。濡れたままだと体が冷えますよ」
ふわりと頭から掛けてくれたタオルは柔らかくて暖かかった。
「そんなに、泣きそうな顔をしなくても」
心底困ったようにそういって笑ったシゼは、こちらですよと部屋の奥へと案内してくれた。
そして奥の一室への扉の前でノックするように手を構えて、ぴたりと止まったシゼは、ちらりと私を振り返り「アルファさんは機嫌が最悪です」と注意した。
今更、その程度のことを念押すシゼに、私は、ふっと気が緩み「分かった」と頷いたときには笑えていたと思う。その様子に微笑んで、シゼは静かにドアノブを捻り「失礼します」と開いた。
「誰の機嫌が最悪なんだよ、シゼ。可愛くない」
「―― ……そんなことより、お二人ともどうして立っているんですか? 横になっていてくださいって」
むっと眉を寄せたシゼの台詞を二人はあっさりと切った。
「部屋に帰んの。俺古臭い臭いは嫌いじゃないけど消毒薬臭いところじゃ、眠れない。デリケートだから」
「僕も部屋に帰る。病人じゃないから」
「二人とも怪我人です」
「あれ? マシロ。お前大丈夫なのか? 頭とか、頭とか、頭とか……」
それじゃあ、私は頭弱い子みたいに聞こえる。
シゼを完全に無視して、私に歩み寄ったカナイは、タオルの上から私の頭に手を乗っけて顔を覗き込んでくる。
「あた、」
「頭も身体も大丈夫です」
繰り返しそうだったカナイに釘をさせば、ふっと口角を引き上げてよしよしと頭を掻き雑ぜられる。
「私より、カナイたちはどうなの? 平気なの?」
「平気平気」
ひらひらと手を振ったけど、カナイは左腕をアルファは右腕を吊っている。
「そんなやせ我慢しなくても、平気じゃないでしょカナイさん。ほらほらほら、骨まで見えてたんですから」
アルファは健勝そうな左腕で、カナイの腕をぐりぐりぐりと圧すと、カナイが悲鳴を上げた。……素晴らしい悲鳴だ。
「すっぱり切り落とされてた奴にいわれたくねーよっ!! お前、絶対! 俺が完全回復しても手を貸してやらないからなっ。覚えてろよっ」
二人とも凄いことを平然といい合ってるけど……耳にしただけで痛そうだ。というか、あれはやっぱり夢ではなかったんだ。
アルファの切り落とされた右腕が脳裏に蘇って私は血の気が引いた気がした。
「二人とも怪我人です。ベッドに戻って……戻りなさい」
シゼが怒りに満ち満ちた声を出した。
眉間の皺は、これ以上濃くするのは無理! というほど深く刻まれている。年齢よりシゼが老けるのも仕方ない気がした。
その最大限の要因と思われる二人は、その声に顔を見合わせたあと、私のほうも見て、渋々とベッドに戻っていく。
「ここは僕の領域です。僕が良いというまで動くことは許しません。貴方方二人が、こんなところでごろごろしなくてはいけない間に何かあったらどうするんですか。一分一秒でも早い回復を目指すのが当然でしょう。子どものようなことを、うだうだといわないでください」
……シゼのお説教は正論だけに誰もいい返せない。
押し黙った二人に、シゼは静かに付け加える。
「今夜一晩だけで構いませんから」
相当妥協した結果だろう。
シゼは重たい溜息を吐いて「包帯取ってきます」と踵を返した。いわれてみれば、カナイの腕は再び出血していた。そのことにカナイ自身気がついていなかったのか、私の視線に気がついて身体を強張らせた。あの悲鳴は伊達じゃない。