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第四十二話:夢待ち人

 ―― ……暗い、な……

 雪、冷たい……寒い、な……この広い世界で私はたった、一人きりの特別……

 ただ、一人きり……一人、ぼっち……とても、さむい ――


「―― ……大丈夫、大丈夫ですよ……だから、お願い……」


 波の漣に紛れるように微かに届く声がする。


 ―― ……ワタシ、ヲ、モトメル ノハ……ダレ……?


 ***


 ぐっとベッドの端が沈んで、誰かが私の傍に寄ったのだろうと分かる。気遣わしげに頬に触れる指先が微かに震えている。


 そんなに怯えなくても、私は何もしないし何も出来ない。

 何も怖いことなんてないよ。


「怖く……ない、よ……」


 夢だか現実だか分からないまどろみの中で、私はその手を掴まえた。

 相手の緊張が伝わってくるようで、私はきちんと覚醒して言葉を伝えたいと思うのに、もう片方の手で目元を覆われた。


「これは夢です ……――」


 紡がれた言葉に、私は無意識に頷いていた。

 でも、この声には聞き覚えがある。ついさっき聞いたはずなのに、奇妙なことにあのときのような恐怖は全く感じなかった。


「マシロ」


 私の名を紡ぐ声はとても優しくて、愛しくて……その音だけで満たされる気がする。

 それは、とても不思議な感覚だった。


「記憶を、望みますか?」


 不安げに、怯えるように、伝えられた言葉に、私は何も答えられなかった。


 今もなお私の答えは―― ……分からない、だ。


 何も応えられない私に、彼がふっと笑ったような気がした。そして、目元から離れた手のひらは私の頬を包み愛しそうに撫でる。


 ほんの少し体温の低い手のひら。

 それをとても心地良く感じるのは何故?


「貴方に選ぶ自由を差し上げましょう」


 人の気配を直ぐ間近に感じる。

 とくとくと早まる心音は心地良く身体に響き、不思議と落ち着いていた。


「少し触れますよ?」


 問い掛けたくせに私の返答を待つことなく、左腕は私の顔の横について、右腕が私のお腹にそっと添えられる。

 何かを探すように、ゆっくりと上に登ってくる手のひらの感覚に私は息を詰めた。


「大丈夫ですよ。ゆっくり同じように呼吸していてください」


 大丈夫だと重ねられて私は肩の力を抜くように細く長く息を吐ききってから、ゆっくりと吸い込む。


 この声、さっきじゃなくて、もっと、ずっと前から知ってる気がする。それに、何度も「大丈夫」だと……この、大丈夫に私は支えられていたような、そんな不思議な懐かしさすら感じた……。


 ややして安堵感すら感じてしまっていた重さが、体からなくなると私は急に不安になった。沈んでいたベッドの端がふわりと戻って、彼が離れていくのが分かる。


 私は堪らず目を開けてしまった。


 丁度立ち上がった彼と目が合って、私は慌てて身体を起こす。

 恐怖とか怒りとかそういうのではなく、ただちゃんと向き合いたかった。それだけなのに対峙した黒猫は困ったように微笑む。


「夢……だよね」


 口にした私に黒猫は仕方ないなというように「はい、そうです」と頷いてくれた。

 そのまま、ふっと消えてしまうのではないか? と、思った人影を掴まえることが出来て私は、胸を撫で下ろした。


 目の前の有り得ない風貌の男性は、ちらりと私の手元へと視線を送ったような気がして、私は無意識に左手を包み込んだ。指先に指輪が触れる感覚を確認してほっとする。失くしていない、ちゃんとここにある……そう思うだけで安心する。


 聞きたいことも問い詰めたいことも、怒鳴り散らしたいことも山ほどあるのに、私はその一つも口に出来ずに、彼を見上げていた。名前……なんといったっけ……エミルたちは確か ――


「―― ……ブラック?」


 そう呼んでいたような気がする。

 暫らく横になっていたせいで声が掠れてしまっていて、あまり上手く口に出来なかったと思う。それなのにブラックは、瞳を細めて「はい」と感慨深げに頷く。


「ブラック」

「はい」


 繰り返した私の声を噛み締めるように双眸を閉じ、丁寧に返事を返す。そして十分に間をおいてからブラックは目を開けると私の名を呼び話を続けた。


「貴方がもし、ここでの過去を捨て新しく生きなおすなら、今のまま過ごして下さい。誰も貴方に不自由をかけたりしないはずです」

「―― ……」

「そして、もしも、過去を望むなら……彼らに伝えてください。『焔』と『結界石』と」

「焔と結界石?」

「そう、彼らに伝えれば彼らは答えに行き着くと思います」


「どうして……どうして、そんなことが分かるの?」

「それは、私が種屋だからです」


「……種屋って、何?」

「今ここでもう一度それを知る必要はありません。知らずとも、白い月の少女は皆を導くでしょうから」


「どこへ?」

「美しいときへ……です」


 ブラックの発する言葉は、ひとつひとつが彼自身を強く傷つけているような気がした。だから、私はそれ以上の質問を重ねることが出来なかった。


「―― ……信じて良いの?」


 最後にとばかりに掛けた、当然ともいえるだろう台詞にブラックはとても静かに答えた。


「私は、マシロを信じています。そう、決めていたのに、取り乱してしまっていて、思い出すのに時間が掛かってしまいました」


 ―― ……私を、信じて……? だから、私にも信じろと、そう、いうのだろうか?


 どうして私の心は激しく揺さぶられるのだろう。

 どうしてこの人の声だけで、私はこんなにも胸が熱く、そして、その表情に苦しくなるんだろう。


「貴方だけを信じています」


 そういってくれているのに、ブラックは


「そんなの無理って、泣きそうな顔をしてるよ」


 伝えれば、笑みは自嘲的なものに変わって「泣きそうなんです」とあっさり認めて腰を折ると、私の身体をきゅっと抱き締めた。


「私の変わりに白猫が訪ねてきたら、もう終わったのだと思ってください。貴方は何者にも縛られる必要はありません」


 そして、消えてしまった。

 いいたいことだけ、だらだらと告げて勝手に消えてしまった。


 激しい頭痛と眩暈が常だったのに、それが、胸の痛みに変わり「行かないで」と口にしそうになっていた自分に自嘲的な笑みが零れる。


 触れ合った体に残った熱が消えてしまわないように、私は思わず自分の身体を抱いて丸くなった。無駄だと分かっているのに、


 強く、

  強く、


   ……掻き抱いていた。


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