第三十八話:想い人・想われ人(1)
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『主、これでは籠の鳥と変わらぬのではないか?』
あれから時々顔を見せてくれるハクアにそう告げられて私は苦笑する。
確かに、私は殆どこの建物の中に居る。外も雨だし、外の空気を吸いに出るといっても回廊を散歩するくらいのものだ。
でも、エミルが教えてくれた話もあるし、やはり記憶をなくしたままの私がうろうろとするのも都合が良くないだろう。
それにこの棟で可能なことは、ここでやるようにしているのか、エミルも良く傍にいてくれる。――大抵はラウさんの授業に付き合っている感じだけど――メイドさんたちも、少しは話し掛けてくれるようにもなったから、退屈もしない。
「そんなことはないよ」
いってハクアの頭を撫でれば、ハクアは額を私に摺り寄せてくる。その犬らしい――狼だけど――姿に瞳を細める。
窓に持たれかかれば、外気に冷えた窓ガラスが体温を奪い白く曇る。薄暗い日が続くと時間があまり分からない。でも時計を見る限りでは、夕時だ。
『私には外の詳しいことはあまり分からぬが、外は変わりない。主は私に常に自由であるように求める。それと同じように主も自由であって構わないのではないか?』
「別に私は不自由を感じてはいないよ?」
実際、ここで欲しいといえば手に入らないものはない、手に入らないただ一つのものが自由……なのだろうか?
「ただ、私は薬屋さんをやっていたというから、そのお店のことが少し気になるのだけど……」
そんな瑣末なことを口にしては駄目だと思って、みんなにはいわなかった。でも気にならないわけじゃない。
『それならばここを出てはどうだ? 家が戸惑われるならマリル教会に居ても構わないと思う。レニも……』
「でもそこでも同じように私は、中に居ないといけないのでしょう? だったら、ここに居るのと大差ないよ」
自分でも不思議なくらい強い口調になっていて、私は驚いて口元を押さえると、ごめん、と謝罪していた。
私たちの間に沈黙が落ちると同時に、部屋にノックの音が響いた。戸口に立っていたララがそっと開くと、エミルだ。脇には大量の書類を抱えていた。
「あ、あれ? ハクアが来てたの?」
王子が手ずから運んできた荷物を、慌てて受け取ったララは、部屋の中央にあったローテーブルの上に載せた。続けて「書き物が出来るように準備してくれるかな?」と、エミルに掛けられた声に頷いて踵を返す。
「エミル、一体いつまでこの生活をマシロに強いる。マシロはいつ解放される」
私の元から、すっと離れたハクアはエミルに歩み寄る間に人型をなし、冷たい声色でいい募る。ちょっと待って、と私が止める隙もない。
ハクアの台詞にエミルはちらとだけ私のほうを見て、気にしないでというように、緩く口角を引き上げる。
「それじゃあ、僕がまるでマシロを軟禁しているようだ」
「しているではないかっ!」
「君がどう感じていようと、構わないけれど、僕はマシロを籠の鳥と思ったことはない。ただ、彼女のために今何が必要か、どうあることが安全かと考えた場合、今の状態になってしまっているだけで、マシロが望めばいつだって出られる」
―― ……いつだって出られる。
そうだったのか? ここに居なきゃいけないと思っていて、ここから出てはいけないのだと思っていたから、そういわれたことに少し驚いた。
「私には、優しい主に付け入っているようにしか見えない。人間はいつだって自分本位で愚かだ」
「君たちは人間をそういう風にしか見ないから見えない……兎に角、客人が居るような時間でもない、他に用がないようならまた日を改めて欲しいんだけど」
微塵も動揺を見せることなくそう繋いだエミルに扉のほうへ促され、ハクアは苦々しく短く唸る。
二人、もしくは種族間にどんないざこざがあるのか分からないが、友好的な関係とはとても思えない。私に対して、あれほど柔らかく接してくれるハクアの言葉とは思えない。
それだけ私のために募らせてくれた苛々に、胸が篤くなるのは駄目なことかな?
「ハクア、私は大丈夫だから。また、いつでも会いに来て……その、今日もありがとう、心配してくれて」
そっとハクアの腕に触れて「大丈夫だから」と重ねれば、ハクアは、じっと私を見つめたあと大きく息を吐いて、分かった。と、頷いた。
部屋をあとにするハクアを見送ると声が掛かる。
「マシロは食事まだだよね?」
「え? ああ、うん」
「じゃあ、食事のあと少し出よう」
にっこりといつもと変わらない様子でそういってくれたエミルに、私はこくんと頷いた。
視界の隅っこで、申し訳なさ気に積み上げられた書類を気の毒にも思ったけど、エミルがそういうのだからあちらはあとで良いのだろう。