ハナノサクコロ(3)
***
―― ……安堵。
「安堵、か……」
歴代の種屋が必要とはしなかった言葉だ。
それをぽつりと零しても、誰も拾うことはない。
月明かりしか差し込んではこないこの場所には、今、誰も居ない。
隅に設けてある円卓に突っ伏して、室内を見回すと、そこかしこにマシロの姿が刻まれている。今、その姿を追っても幻影でしかない。
種屋は”愛”なんて不確かなもの必要としない。深い業と闇。孤独と、虚無。混沌とした世界だけを知るものだった。
ルール以外は、欲望のままに生きて、虚しさを埋めるために殺戮を楽しむ。快楽を求めればそれだけの数の女性を虜にし、不要になれば消してきた。
人。物。行為、そのどれにも……執着することはこれまで一度もない。
世界が創造され、種屋が置かれてから、一度だって……種屋自身を見たものは居ない。
マシロだけが……
この世界を知らない、彼女だけが、見てくれていた。
そういえば、あの日、あのあとどうしただろう。
マシロが余りにも可愛くて、愛しくて、抱き締めて怒られるまで口付けた。結局、押し倒しかけて、ずぶ濡れになって怒られたのに、笑いが止まらなかった。
ひとしきり遊んで、腰を下ろすころには、すっかり陽は落ちていて……夢見草の枝の間から見上げた二つ月を、珍しく綺麗だと思った。
「月、一人で見てると寂しいよね」
ぽつと零したマシロの言葉の意味が分からなかった。月はいつでも変わらずにそこにある。これまでも、これからも、きっと唯一変わらない不変なるものだ。
「月は御伽噺のように、私にブラックを連想させる。今はこんなに近いのに、一人で居ると到底手が届かない」
いって絡めとられた指先からマシロの怯えが伝わる。ひんやりと熱を失った指が僅かに震えている。
「大丈夫ですよ、大丈夫。私たちだって何も変わらない。マシロが望みさえすれば、いつだって手の届く距離に、熱を伝えられる距離に、触れて、口付けられる距離に居ますよ」
―― ……いつでも、マシロが望めば……
それでもなお、何処か不安そうに月を仰ぐマシロの視界を奪った。
僅かに驚いたように目を見開いたけれど、直ぐに双眸を閉じ伸ばされた華奢な腕は、私の首に絡みついた。
マシロの存在は心地良い。
愛らしい唇から紡がれる声も、耳に優しく届き、荒涼とした心を満たしてくれる。
見つめてくれる瞳も、偽りを一切感じさせない、真っ直ぐなもので“種屋”“獣族”でもなくルインシル=ミアを見ている。
楽しいとか、嬉しいとか……陽の当たる部分は全てマシロが持っていた。
だから、今、何もない。
気を紛らわせるくらいにはなっていた、安易な殺しも、今は何も紛らわせてはくれなかった。
次にこの種を受け継ぐものは、この記憶を、この想いを……どう思うだろう。同じように、愛してくれるものを求めるだろうか? それとも、愚かな先代だと哂うだろうか。後者であれば、きっとただの種屋でいられるだろう。
これまでと変わらずに、永遠に埋まることのない己の半身に飢え、破壊を繰り返す。
種屋はそうあるべきなのかもしれない。
そうすれば、何も感じることもない。
それが出来ない私は、唯一無二の白月を求めるばかりだ。それが叶わぬなら、最大の禁忌すら私を縛る枷にはならない。
マシロに会いたい
マシロに触れたい
誰よりも愛していると伝えたい
今は、それすら彼女を傷つける 茨の森に沈んでしまっている。
茨の棘がこちらに向いていれば良かったのに、この身が引き裂かれるだけで済むのなら、迷わずに手を伸ばすのに……その全てがマシロに向っている。
会いたい
触れたい
伝えたい
愛など知らなければ良かったと、微塵も思えないほど深く想っている …… ――
花の咲く頃……同じ場所で……同じように……同じものを見たい
……それが叶わぬなら……いっそ……
ハナ ノ サク コロ マデ マテ ナ イ
※土曜日から通常本編更新に戻ります。引き続きよろしくお願いいたします※