ハナノサクコロ(2)
そこは山間で遠方に出ていたときに中継地点として、立ち寄っただけの場所だった。
岩肌を晒した崖の谷間から水が溢れ滝となる。河へと続く源流だ。それを受け止める窪みが泉となり清水を湛えている。
辺りの木々は緑の葉を大量に茂らせ、その泉に影を落としているというのに、その巨木が一本だけ、今も尚薄紅色の花をつけていた。
「綺麗」
馬を泉の傍で休ませている間に、巨木の下まで歩み寄ったマシロは、首が痛くなるのではないかと心配になるほど見上げて感嘆の息とともにそう吐き出した。
「気に入りましたか?」
そっと歩み寄って問い掛ければ、うん。と、静かに頷いて幹にそっと手のひらを宛がい、頬を寄せた。
「でも、かなり年みたいだね。今日きて良かった」
来年は無理かもしれない。そう含めていることは、いくらそういう感慨深いことに縁がなかったとはいえ、マシロのことだから察することが出来る。
確かに、マシロのいうように巨木の中は虚ろに近いだろう。かなり老齢だ。桜雨にも耐え抜いた力強さは健在だが、来年までは持たないだろう。
ざぁっと駆け抜ける風に攫われるような気がして、手を伸ばしたらマシロの肩に触れる前にマシロは乱れた髪を直しながら顔をあげた。
「あれ、アルク草じゃない?」
一輪だけで咲いているなんて珍しい、と口にして、行き場をなくしてしまったこちらを気に止めることなく、マシロはその場を離れた。
「一輪じゃないですよ、そっちの奥に結構咲いています。この辺りも群生地なのでしょうね」
残念に思い、嘆息するも、マシロの問いに答えないわけにいかない自分が滑稽だ。その答えに地面についていた膝を立て、茂みの奥を覗いたマシロは「本当だ」と立ち上がった。
「私、以前採取に行ったとき、アルファにお願いしちゃって見なかったんだよね。だから、ちょっと得した気分かもっ」
「それは良かった」
「ねぇねぇ、これ、持って帰ったら店の温室で育てられないかな?」
にこにこと聞いてくるマシロに、出来るでしょう。と答える。
「あ、でも、手狭かな……増えそうだし」
「それなら、種屋の温室でも構いませんよ」
どこか職業病の抜けないマシロに苦笑しつつ助言すれば、マシロはやや迷ったあと「やめとこ」と決定した。
「使用頻度は高くないと思いますけど、気に入ったのなら持ち帰っても構いませんよ?」
土から離してしまっては直ぐに枯れてしまう性質を危惧しているのなら、そんなこと問題ない。その程度のことが雑作もないことだということくらい、マシロにも分かりそうなものなのだけど。
「良いの、良いの。ちょっと思っただけだから、気にしないで」
にこりと割り切った笑顔を見せられても、何故だか腑に落ちなくて首を傾げる。それを察したのかマシロは小さく溜息を吐いて「だからね」と続けてくれる。
「場所が分かってるんだから、必要なときに採りに来れば良い話でしょう?」
「マシロがそんな面倒しなくても」
素直に返すと、マシロは、もうっ! と少し怒ったように語気を強めた。
「だから、一緒にまた来よう! っていってるの」
ぷいっと顔を逸らしてそう告げたマシロに、ようやく合点がいった。
「ああ、なるほど」
「ブラックって、どこか抜けてるよね。天然なのかな……」
頬を染めて、ぶつぶつと零す愚痴も可愛らしい。
正直いえば、抜けているというよりは、実際は知らないだけだ。だから、検討付けることが出来なくて、マシロの中の当たり前の繋がりが、時折よく理解することが出来ない。
その辺りの至らなさ具合に自己嫌悪に陥るが、マシロはあまり気にはして居ないようだ。その証拠に……
「マ、マシロっ! 何やってるんですか」
「え、何って、ほらもう寒くないし、ちょっと水遊び?」
考え事をしている隙に、マシロはあっさり靴を脱ぎ捨て、スカートの裾をあげて泉の淵に腰を降ろして水を弾いていた。
「寒くなくても風邪を引きますよ」
いって歩み寄れば、マシロは足先で水を弾くのをやめて泉の中へ立ち上がる。底の見える浅い泉ではあるが、転びでもして痛い思いをするのは忍びないと思ったのに
「綺麗で、気持ち良いよ? ブラックも入ったら?」
逆に誘われてしまった。
確かに、風に煽られて散った花びらが水面に落ち、傾いた陽光を煌かせる情景は美しい。それをただ見るに留めず、自ら楽しもうとするマシロはもっと瑰麗だと思うけれど、伝えたら否定されるだろう。
遠慮します。と、口にして、転ばないように気をつけてくださいね。と重ねれば、分かってるよと返ってくる。分かっていても、転ぶのがマシロだ。
「っ!」
―― ……っ!
「危ないと、いったのに……」
きっと、水面に浮かぶ夢見草の花びらでも拾おうとしたのだろう。その途端、予想通りバランスを崩したマシロの腕を慌てて取った。
ああ、結局、水に入ってしまった。
濡れそぼるのはあまり好きではない。
「ああ、猫って濡れるの嫌うよね」
「……ですから、私は猫ではないと、何度も」
眉を寄せれば、そうだったとばかりに口にされて、短く嘆息する。
「でも、服が濡れるのは嫌だったんだよね? どーせ、すぐ乾かせるでしょう?」
「まぁ、そう、ですが……」
水を吸って重くなる衣服は気持ちの良いものではないと思う。
「嫌なのに、魔術も簡単に発動出来るのに、来ちゃったんだ?」
マシロはどこか嬉しそうにそう続けて、掴まえたままになっている手を持ち上げ笑った。いわれてまじまじとマシロを掴んだ手を見る。
「―― ……」
本当に……どうして、今自分は水の中に居るのだろう。
マシロを助けるにしても、時間を止めるなり、風を操るなりすれば良かっただけの話なのに……咄嗟に出たのは腕だった。
「頭、冷やしたほうが良いですね」
判断力が確実に鈍っている。変だ。おかしい。
こんなことをするより、力を使ったほうが確実だし、何よりマシロにとっても安全なのは明白だというのに。
「は? なんでっ」
「え、ですから……もっと的確で確実な方法が山とあったと……」
思い切り声を裏返したマシロに、慌てて説明すれば、マシロは途端に噴出した。くつくつと楽しそうに笑って、歩み寄ってくるとそのまま腕を回して抱きついてくる。
裾を支えていたほうの手も離してしまうから、マシロの服まで結局濡れてしまった。
「マシロ?」
「……っ、ご、ごめん。面白くて、つい……」
謝罪しつつも尚笑っている。
暫らく、笑いのツボとやらに入ったマシロを戸惑いがちに抱き締め返していれば、ようやく治まったのか、ひょこりと顔を上げる。
「ありがと」
「はい?」
突然告げられる謝辞の意味が分からない。
「つまり、ブラックは正常な判断が出来なくなるくらい、私のことが好きなんだよね?」
「え、えぇ、と……?」
「直ぐに何パターンも、助ける方法くらい思いつくのに、咄嗟に出たのは腕だった。考えるより先に身体が動いちゃったんでしょう? しかも、自分でおかしくなったんじゃないかと思っちゃうくらい、無意識に。だから、この、私のために伸ばされた腕が凄く嬉しい」
凄く好きだと続けられて、もう、どうでも良くなった。
マシロがいうとおり、無意識だった。
危ない! と思ったら、反射的に身体が動いていた。
掴まえて、何事もなくて、心の底から安堵した。




