第三十六話:そんなうっかりご勘弁
「早く雨が止めば良いのにね」
並んで回廊を歩きながら、どんよりと曇っていてはらはらと涙を零す空を見上げる。
エミルは、ついてきていた使用人をあっさりと必要ないと追い払ったので、二人きりだ。私が、お邪魔しているところは基本的に人が少なく、使用人も最小限なのだと思う。
通常状態に戻ったといっていたけれど、これまでとあまり変わらない。
「みんな帰しちゃって大丈夫?」
「大丈夫だよ。僕だって多少なりはなんとか出来るし、それに、カナイもアルファも呼べば直ぐに来てくれる。彼らより対応の早い武人は居ないよ」
みんなの話しをするとき、エミルはちょっぴり誇らしそうな顔をする。それがいつもより少しだけ、子どもっぽくて可愛いなと思う。
でも、カナイは図書館とやらだし、アルファも今日は騎士塔とやらへ行くといっていた。直ぐといっても、限界があると思うのだけど。
私はエミルに手を引かれのんびりと歩みを進める。
雨が降っていなければ、庭に出ても良さそうだ。霧雨のような雨だから、びしゃんこになるということはないだろう。とはいっても、曇天では緑も陰る出来れば青空が望みたい。
「今日は誰も訪ねてこなかった?」
「え? うん、エミルが寄ってくれただけだよ」
突然の問いに当然の答えを返す。エミルは「そっか」と頷いたあと、話を続けた。
「ここは僕の居住区で僕の領域だから、出来る限り勝手はさせないけど……昨日、ジルライン陛下が退位を表明したから、次の王位を巡って少し騒がしくなっているんだ」
「……うん?」
「だから極力僕の傍に居て。今、王位継承権を持っているのは僕を含め三人で、その僕らの仲は特に悪くはない。悪くはないけど……この時期はうっかり殺されちゃうこともあるから」
ないないない、うっかりで殺されるようなこと普通ないっ。
「マシロには危険はないけど、マシロの存在を欲しがるものは多くて、正直、影響力はかなりある」
私の頭の整理も追いつかないまま話は進んでいく。
「マシロは……今どう?」
「え、どう、とは?」
「記憶、早く取り戻したい?」
ふと、足を止めてそう問い掛けたエミルを私は見上げた。真面目に聞いているのだろう。
だから私も正直に答える。
「よく分からない。エミルたちが良くしてくれるから、今現在、記憶がないからって困ることもないし……でも、この間みたいに、記憶をなくす以前の私を知っている人と出会うと混乱する。どう接して良いか分からないし、早く思い出さなくちゃとも思う……分からない。なくて良いとは思わない、でも、どうしてもと問われると……自信ない。カナイやシゼに面倒を掛けてるとも思うし」
ぽつぽつと言葉にして外に吐き出していると、なんだかしょんぼりとした気分になってくる。その気持ちを察してか、エミルは「そっか」と微笑んで、ふわふわと私の頭を撫でてくれる。
「シゼもカナイも分からないことを追求するのが大好きだから、やらせておくと良いと思うよ。マシロが責任を感じる必要はない。特にカナイは、知識欲を掻き立てる題材がなくなったら隠居しちゃうと思うし……それを考えると、マシロは常にカナイに新しい問題を投げ掛けてくれるから、僕もとても助かってるよ」
それは喜んで良いのかな? ようするに問題児なんだよね、私……。
「僕、個人の意見としては、記憶があってもなくても根本的にマシロはマシロだから……気にならないんだけど。それに、今のままならこうやって傍に居られるし。役得だよね」
にこりと無邪気に笑って「行こう」と手を取るとまた歩き始める。
「でも、今……そのことを公には出来ない」
一瞬前まで、にこやかだったエミルは廊下の先を睨みつけて続ける。
「さっきもいったけど、この国にとってマシロの影響力は大きい。今、争いなく平穏を保っているのは二つ月が中立を保つという誓約を交わしているからで……マシロに記憶がないということを理由に反故されかねない。そうなると、現在第一継承順位にあるハスミは、国と並ぶのではないかという武力を保持している蒼月教団を面白く思っていないから、潰しに掛かるかもしれない……第二位のキサキにしても、魔力と武力の均一化を求めているし、大聖堂を相手とってことを起こす危険がある」
「え、じゃあ、この間私マリル教会の人に……」
慌てて口にした私にエミルは、握る手に力を込めて視線を私へと送りにこりと微笑む。
「彼は大丈夫だよ。彼は白い月の信者だし、非武力団体でもあり、なんといってもマシロには返しても返しても返しきれないくらいの恩があるからね。僕や周りを謀ることはあっても、マシロにだけは誠実だと思うよ。何より、傍にいる白銀狼はマシロの命しかきかないからね。司祭が何か妙な動きを見せれば、即マシロへと情報が流れると思う」
よく分からないけど、記憶のある頃の私ありがとう。
そっか、と零して胸を撫で下ろした私にエミルは微笑み「平穏を望むんだね」と続ける。
「平和が一番じゃないの?」
私は、争いなんて無縁の世界で生活してきた。誰かがそれによって命の危険に晒されるなんてこと、身を持って経験したことは全くない。
平和なんて当たり前にそこにあるものだと、そう、思っていた。
そんな私の呑気な返答に、エミルは軽く頷いた。
「うん。そうだね……じゃあ、僕もマシロの望みを叶えるために、少しは努力しようかな」
「努力?」
「そう、王様になる努力。僕には他の二人に比べて圧倒的に知識を得る時間が短かったからね、王宮の中の意見としてはあまり僕はお勧めしない感じかな?」
そう切り出して、本当に私に語りかけてくれているのか、不思議なくらい単調にエミルは続ける。
「でも僕にはいざとなれば、僕の後ろ盾は強固だ」
「後ろ盾?」
「うん、そう……あまり持ち出したくはないけれど、それでもそういうものも含めて僕の一部だ。図書館、マリル教会、そして、何より白月の姫。これらが全て脅威だってことは周知の事実なんだよ。それもあって一番暗殺率も高いんだけど」
曖昧な笑みを浮かべてそう締め括ったエミルに、肝を冷やされた。凄く怖いことを口走っているのに、どこか現実味を帯びない様子は、私に恐怖を与える。