第三十五話:つまり園芸屋さん?
次に目を覚ましたときには、もう見慣れたベッドの上だった。
ゆっくりと呼吸すると、もう息苦しくは感じない。
私は、解放された。
「マシロ? マシロ、大丈夫? 急に倒れたから驚いたよ……平気?」
どこともつかないばしょを彷徨っていた私の視界にまず入ったのはエミルだ。
凄く不安そうな顔をして覗き込んでくれている。私は、何とか強張る頬を緩めて笑って見せた。そして、ゆっくりと身体を起こして、枕を背に座った。
もう、どこも痛まない。
それでもやっぱり軽い眩暈を覚えて、俯いてぐっとこめかみを押さえてから深呼吸。そして口を開いた。
「さっきの人、誰? 私、あの人に殺されかけたような、断片的だけど……急に思い出して……」
口元に添えた指先が微かに震えている。情けないな……。そんな私の手をエミルはそっととって包み込んだ。
「彼はブラックというんだ。僕は彼を擁護するつもりは微塵もないけど、彼がマシロに手を掛けるようなことは有り得ないよ……。だから心配しなくても大丈夫だよ?」
「―― ……でも、私確かに……」
大丈夫だというエミルの言葉を疑うつもりはない。つもりはないのにあまりにリアルな記憶の断片に私は戸惑う。
「記憶が混濁してしまっているんですね」
そっとエミル越しにティーカップを差し出してくれる。中身はホットミルクだ。受け取って少し口に付けると、くどいくらい甘い。シゼ仕様だと直ぐ分かった。
続きを促すように、私もエミルもシゼのほうへと視線を寄せる。
「すみません。このところ実験的に古代種を弄ったので……断片的な記憶が出てしまっているのかもしれないです。きっとその襲われた記憶は、白い猫のほうだと思います。同じ獣族で混同してしまっているのでしょう」
申し訳なさそうにそういったシゼに、気にしないでと告げてから、改めて思う。私は日常的に命の危険に晒される生活を送っていたのだろうか? 断片的な記憶……確かに、顔ははっきりと思い出せなかった。
「マシロさん……すみません。あの……出来るだけ早く新しい解決の糸口を見つけますから」
私が物思いに耽ってしまっていると、責任を重く感じたシゼが酷く消沈した台詞を吐いた。
「あー……俺も図書館に戻って探し直す。もう少しだけ待ってくれ」
カナイまでそんなことをいい始める。
カナイは久しぶりにここに戻ってきたのに、少し休んだほうが良い。
私は嬉しいような申し訳ないような気持ちになって、でもやっぱり嬉しいほうが勝つのか自然と笑みを零していた。
「気にしなくて良いよ。二人とも頑張ってくれてるもん。ないものを追いかけても仕方ないし……抑止剤が出来ただけでも昨日今日のことを忘れてないだけでも凄いことだよ。ありがとう」
私にはここに来て一週間分くらいの記憶しかないけど、それでも忘れたくないと思う。消えてしまった私の記憶も、その期間を知っている人たちも今の私と同じように忘れないで居てほしいと思っているのだろうか? だとしたら、私はその思いに応えなくては、いけないのだろうか……? だとしても私は今この場に居る誰も責める気にもなれない。
その日一日、私はベッドの中で過ごすことを余儀なくされた。
心配してくれるみんなに悪いから素直に従うけれど、眠るにも限界があるし退屈にも程がある。翌日のお昼前にはその限界が襲ってきた。
ぼーっとする頭を起こして私は大きく背伸び。ベッドから抜け出せば控えていたメイドさん――今の担当は昨日もお世話になったシシィだ――が慌てて駆け寄ってくる。
「大丈夫、私は病人じゃないから」
退屈すぎて死にそう。と素直にぼやくとシシィは困ったように微笑んだ。
「そうだ、ブラックってどんな人?」
とことこと今日も飽きることなく降り続く雨を確認しに窓辺に寄りながら問い掛けた私にシシィは小首を傾げ「存じません」と口にする。
「え、昨日来てた、ほら猫耳と尻尾をつけてた変な人だよ」
頭上に両手を添えてぱたぱたと扇ぎながら、そこまで告げると合点がいったのか「ああ」と頷いた。
「彼は種屋です」
「……ふーん。園芸屋さんか……」
ぽつりと呟いて外を見る。地面にはこのところの長雨で小川のような流れが出来ている。
王宮に出入りしている庭師ってところかな? ……とてもそんな風には見えなかったけど。偉そうだったし。雇われている人の態度ではなかったと思う。
それに何より、人を殺している、にしては……自由すぎる。みんなが深い介入を望まないことが分かるから、詳しく問質すことは避けた。
きっと私の記憶が戻れば、この程度のパズルは解けるのだろう。きっとそのときの私は知っていたはずだ。だから、気にならないといえば嘘だけど、余計な心配をみんなに掛けたくないから、あえて突っ込まない。
―― ……それに……
窓ガラスに添えた手には指輪が光る。私が瞳を細めるとシシィがにこにこと口を開く。
「綺麗ですね。ここでは『愛を叶える石』と呼ばれているんですよ。婚約や結婚する際によく使われる石なんです。でもそれほど立派なもの私は今まで目にしたことありません」
ターリ様方もお持ちではないと思いますよ。と、夢見るように続けるシシィは女の子だ。シシィの話をそのまま受け取るなら、私にはやはりそれを贈られるような相手が居て、その人はこの国でそれなりの影響力を持つ人物なのだろう。
それを思い出せないのはやはり少しだけ残念だ。
頬が緩むのをなんとか堪えたところでコンコンとノックが聞こえた。シシィが急いで扉に寄りそっと開ける。
「マシロ、気分はどう?」
顔を覗かせたのはエミルだ。
「平気だよ」
「―― ……良かったら、少し話せないかな?」
にっこりと誘われて、私は断る理由もない。
退屈していたところでもある。
準備するからちょっと待ってて、と一度寝室からエミルを追い出して慌てて着替えた。