第三十三話:キスまでの距離
「……私は……私は駄目じゃないと思うよ? 私には、特に今の私にはこの国の事情なんて分からないけど、命は軽んじて良いものじゃないと思う。私は、その、えっと……エミルが何を選択したのか分からないけど、でも、迷ったり悩んだりするのは間違ってないと思う」
だから、一人で泣かないで…… ――
いいかけて、手を伸ばしかけて、私は慌てて引っ込めた。こういうときに触れていいのは限られているはずで、きっと無遠慮に誰もが触れていいわけじゃないと、そう、思う。
今の私にはエミルとの距離が、分からない。
私は、一度だけきゅっと唇を噛み締めえてから、話を続けた。
「迷いがない恐れを知らない、何かを決断するときに大切なことだと思うけど、でも、私は、迷いながら悩みながらの決断していくほうがずっと大切だと思うよ」
自分の中で口にしたことを反芻する。私は変なこといっただろうか? いや、寧ろ何いってんだ私。
「えっと、その……足を止めなければ、考えることをやめなければ、それは間違いじゃないと、そう」
思う。と続けたかったのに最後までいえなかった。
エミルの影が降ってきて、私を包み込むと「マシロまで濡れたらごめん」といってから腕に力を込めた。触れることに躊躇してしまった私は馬鹿みたいだ。
雨に濡れたせいか、いつもより強くエミルが使っている香水の香りが纏わりつく。とても柔らかくて若草のような香りにほんのり甘い香りが混じる。
「いい香り」
「え?」
しまった。つい場違いにも程がある感想を述べてしまった。
「あ、ごめん。そのエミルって優しい香りがするなと、そう、思って」
ごにょごにょと口にするとエミルは、ありがとうと頬を寄せてくる。私はあまりの近さに呼吸をするのも戸惑われるのに、エミルにとってこの距離はいつも通り、なのかな?
「僕も気に入ってる。僕をイメージしてくれたんだって……凄く嬉しかった」
香りもお手製なんだな。
プレゼントだったのかも、それにエミルのいい方からすれば女の子だ。調香をするなんて上流階級の趣味は違うな。なるほど、と続けた私がそのあとの言葉が続かないことに気がついたのか、エミルは少しだけ迷ったように唸って続ける。
「あー……その、記憶にないときの話をするのは、混乱して可哀想かなと思うんだけど、念のため……マシロがくれたんだよ?」
「え?」
私が香水を作るような人間だったとは! というか、なんか身につける香りを送るなんて……なんというか、やはりそんなに近しい関係だったのだろうか? エミルが予想したとおり混乱した私にエミルは、ふふっと笑いを零す。
そして、私の背から片手を離すとそっと頬に触れた。
まだ少し冷たい手に、なんだか苦しくなって自分の手を重ねる。微かにぴくりと反応したけどエミルはそのままで居てくれた。
冷たいエミルの手がじわじわと熱を取り戻してくれる。心の中も同じように暖かくなってくれれば良いのだけれど……そんなことまで、私に出来るとはやはり思えない……。
自分の不甲斐なさに胸が痛む。
シゼは何もしなくても良いといってれた。傍に居てあげて欲しいと。
でも、でも、そんなのじゃ全然足りない。もっと、もっと、慰めてあげたい。私でエミルに降り注ぐ悲しみを癒してあげられたら良いのに。
強く、強く、そう思ったらじわりと目頭が熱くなってしまった。
「マシロ?」
「っ! あ! ごめんっ!」
視界が緩んで、慌てて顔を拭おうと思ったら手を押さえられた。え? と顔をあげると「僕にさせて」と微笑まれエミルの長い指がそっと目元を拭っていく。
何度も優しく、目元をなぞる。頬を撫でる。
くすぐったい。苦しいくらい心拍数が上がってしまう。
―― ……でも、それすら心地良い。
エミルの優しさがじわりと染みてくるような気がする。
「マシロはやっぱりそうやって僕を甘やかせるよね……」
不意に零したエミルの言葉に、私は「え?」と目を丸くした。それが可笑しかったのか、エミルはやんわりと瞳を細める。
「それは、マシロが優しいからだって、分かってるんだけど……マシロの傍は凄く心地良い」
ど、どうしよう……やっぱり、凄くドキドキする。
恥ずかしさに直視できずに、逃げるように視線を逸らした。きっと私顔真っ赤になってるし、きっと触れられてるからそれもばれてる、よ、ね?
頬に掛かっていた手が、するりと滑りおきてきてそっと私の顎に掛かる。そこにほんの少しだけ力がかかって私の顎を持ち上げた。
恐る恐る視線を上げれば、エミルは凄く近い距離に居た。睫毛の本数まで数えられそうな距離に、私は思わず息を詰める。でも見つめてくる月さえ拝めない夜の闇に黒く翳った瞳から逃れることも出来ず、ただ囚われたように私は見つめ返していた。
マシロ……と名を重ねられ、私は瞼を落とした。
吐息が感じられるほど近くに来て「―― ……っ」とエミルが息を殺した。思い描いていた感触が来ず不安に瞼を持ち上げればエミルが暗い中でも分かるくらい真っ赤になって口元を覆っていた。
「ごめん。マシロの気持ちも考えずに……」
「―― ……え、あ……」
私こそすみません。言葉に出来ずに私はただ赤くなる顔をエミルから逸らした。そして目に入った指輪に私は瞳を細める。
もしかしたらエミルが贈ってくれたものかもしれない。もしそうなら、私はきっとエミルに恋をしていたのだろうな……と、思うと自分の知らない私にほんの少し嫉妬しそうになる。
「戻ろうか?」
「え、あ、ああ、うん」
立ち上がったエミルが私に手を差し出すから慌てて私はその手を取った。
「エミル、傘ないの?」
「うん、走ってきたから。マシロの傘に入れてくれる?」
「もちろん」
記憶が戻ったら、私たちはもっと近くなるんだろうか? それとも……。