第二十八話:デリカシーに欠けるのはお約束
日が暮れる頃には空は泣き出してしまった。
雨脚は直ぐにとても速くなり、私を迎えに来るといっていたアルファは顔を見せることはなかった。
「酷い雨だね」
「ああ」
ただ外を見た感想を述べた私に、あっさりとした肯定だけが返ってくる。
そして戸口で待っていた私に「ほら」と目的のものを見つけたのか、カナイは一冊の本を押し付けた。夜の闇を模したような黒い装丁に、紅い月が描かれている。そして金の文字で書かれた本のタイトルは『白蒼月紅譚』小難しいタイトルだけど童話らしい。
メイドさんとか、各区域の境に立っている兵士さんが私のことを時折『白月の姫』と呼ぶことが気になった。だから、迎えに来てくれたカナイにその話をした結果。今に繋がる。
「その本……あまり子供向けじゃないんだが……まぁ、良いか」
と私の部屋へ戻るまでの間カナイはぶつくさといっていたけど、勝手に解決したらしい。ぺらぺらと歩きながら本の中身を斜め読み。
確かに文字がぎっしりさん。
子供向けという雰囲気ではない。
……子ども?
いえ、私は十分に大人ですよ。カナイさん。
一言物申そうと顔を上げたところで、ぐいっと腕を引っ張られた。
おととっと、カナイに廊下の脇へと寄せられると正面から荷物が歩いてくる。私は、カナイに肩を支えられたまま、その荷物が通り過ぎるのを待っていたら擦れ違いざま、私たちを発見した使用人が肩を跳ね上げて「申し訳ありません」と頭を下げた。
「荷物荷物荷物っ!」
反射的に腕をいっぱいに伸ばしたが届かない。
絶妙なバランスで積み上げられていた箱が廊下に崩れ落ちると思ったのに、箱は宙で止まった。そして慌てて手を伸ばした使用人の腕の中に再び納まる。さっきよりは安定した感じで。
「お手数お掛けして申し訳ありません」
と口にしたところから、カナイが魔法だか魔術だかで手を貸したのだろう。使用人に対しても勿論カナイは愛想がない。
「構わないから、落とさないように運んでくれ。どうせ、俺の部屋に運ぶところだったんだろう?」
「は、はい、そうです」
「開けておくから、奥の書棚の前に積んでおいてくれ」
「承知しました……あの、姫様にも申し訳ありませんでした」
「え、ああ。良いですよ、別に……それより手伝わなくて大丈夫ですか?」
ここに体格だけはあるのが一人居ますが、と隣に居たカナイの腕を叩けば、いわれた彼は苦笑して首を振り「ご心配ありがとうございます」とだけ答えたあと暇を告げて、通り過ぎていった。
「カナイも手伝ってあげれば良いのに」
その後姿を見送っていた私を他所に、カナイはさっさと歩き始めてしまう。追いかけて、ぼやけば「そりゃ悪かったな」と肩を竦めた。むっ。ちょっと馬鹿にされた気分だ。
「雨止まないね……」
本日何度目かの台詞。
黙って本のページを捲っていたのだけれど、退屈になってきて私は本を閉じ外を見た。
返事がない。
私は眉間に皺を刻んで、カナイを見た。カナイはあのあとどっさり持ち込ませた本に埋もれていた。
「……雨季に入るから。と、何度いわせるつもりなんだ?」
手元を覗き込んだ私を邪魔臭そうに片手であしらって、カナイは顔を挙げ、顔に宛がっていた眼鏡を外した。
「聞いたよ。何度も……なんか退屈なんだもん。話しよーよ、それとも何か他の……」
カナイは目頭をぐぐーっと押しながら、嘆息。
「お前、本当に緊張感ないな。焦りとかないのか?」
緊張? 焦り……やや黙すとカナイに「ないんだな」と呆れたように口にされ反射的にあるよっ! と語気を強めていた。
「色々あるよ。私にだって思うところっ。でも、大丈夫だっていったんでしょ。みんなが大丈夫だっていうから、だから、私がそれを口にするのは駄目じゃない。駄目じゃ、ないかと思うから」
いいつつ私は隣の開いた席に腰掛けて頭を抱える。
「信じられないよ、私がこんな世界で暮らしてたなんて……」
くしゃりと頭を抱えて愚痴を零す。嫌な場所だとは思わない。
みんな良くしてくれるし過ごしやすいとも思う。
でも、この世界が自分のホームグラウンドだと、どうしても実感が湧かない。もう何年も過ごしていた場所だなんて、思えるわけない。
私はこの間まで高校生だったんだ。
それなのに鏡に映る自分の姿だって、あの頃より少し大人びている。それはもう自分であって自分じゃない。混乱しないわけない。
でも、ここに居た証のようにこの文字が読める。
私がペンを持てば、すらすらとこの世界の文字を書き綴ることが出来る。ここに来たばかりの頃、エミルが教えてくれたのだといっていた。私の記憶なんて関係なく、身体は素直にこの世界のことを覚えていて、確かに馴染んでいる。
私はもう、どこの誰なのか正直なところ分からなさ過ぎて、どうしようもない……――
じわりと浮かんできそうな涙を、こっそりと拭った私に、取り繕うような咳払いが聞こえ、カナイは、あ、あーっとわざとらしい声を漏らした。
「―― ……あー、こほんっ。悪かった……あー、うん。俺も忘れてた。お前はそういう奴だな。弱っちぃのに無理を平気で押すんだった。悪い、いつも通りにし過ぎた」
ぼすっと大きな手が私の頭を押さえつける。
待て、待て、待て。
これは謝罪している人の態度じゃない。ぐぐっと額が膝に近づく。膝と仲良くするつもりはないっ! 怒ろうと思ったら圧し掛かった手のひらは、ぐしゃぐしゃと人の頭を掻き雑ぜてあっさり離れた。