第十話:知らないかもしれませんけど
うぅーっと声を殺した私は、雰囲気でブラックが笑っていることに気がついた。恨みがましく顔を上げると、顔を逸らされた。そして片手で口元を覆って肩を揺らす。そこまで、笑うな。というか、分かっててやったよね。明らかに……。私は扉を背にしてたから気がつけなかったけど、ブラックは確実に気がついてたよね。
「ブラックー……」
恨みがましい目で見上げれば、ブラックはにこにこと楽しそうに笑って「怒った顔も可愛いですよ」とこめかみに、ちゅっとキスを落として「また明日」と消えてしまった。
「全く、ちゃんとドアから出て行けっていってるのに」
むすっと口にした私に呆れたような溜息が聞こえた。
「そういう問題ではないと思いますよ」
私は再びぎくりと肩を強張らせて、ゆっくりとシゼを振り返った。良い湯で加減というくらい赤くなってる自信はある。シゼはオイルポットを持って「これですよね?」とフツーに確認してくれた。
「う、うん。そう。……あー……ええっと、その、お見苦しいところを……すみません」
ごにょごにょと続けた私にシゼは呆れたように笑ったあと首を振った。
「仲が宜しいのは良いことです。マシロさんが抑止力になっているのは事実ですから」
「―― ……シゼ、そういういい方は」
ブラックが暴れ馬か世界の災厄かというように口にしたシゼに私は眉を寄せる。私はブラックが唯の人であっても、唯の獣族であっても好きだと思う。
「そうですね……マシロさんはあまりご存じないですしね。種屋店主殿のことを……」
「今は違うのだからそれで」
「そうですね。ええ、そうです……間違っていませんよ」
やんわり笑みを深めたシゼが、どこか泣いているようで私はそれ以上食い下がることは出来なかった。世界にとってブラックは闇の部分を背負った業深きものなのだろう。
それからシゼはもうひとがん張りしてくれて、夕食を一緒にと誘ったのにあっさり断られた。城に戻ってからもまとめておきたいことがあるらしい。
一瞬、戻ってからも仕事があるというシゼに申し訳ない気持ちになったが「単に、放置時間が必要だったものなので気にする必要ないです」とすっぱりと切り捨てられた。
仕方ないので簡単に食べられるだろうとサンドイッチを作ってバスケットに入れ帰りに持たせた。私の料理はいまいちだけれど、シゼの口には合うようで素直に感謝してもらった。
私はシゼを送り出してから戸締りをし、書斎にあった顧客名簿の控え――カウンターの裏にあったものは綺麗に吹っ飛んでしまってなくなっていたから――を持って降り、パラパラと捲る。取り急ぎ渡しておいた薬がなくなりそうな人が居ないか気になっていた。
「……ああ」
こつこつとペンの先っぽで用紙を突く。長期服用をしなくてはいけない薬が――ちゃんと服用してくれていれば――明日の夜には切れてしまう家があった。
シゼが今日用意してくれた中にはその薬はない。特別なものではないが、アレルギー系のものだからなくなると辛いだろう。
私は多く作ったサンドイッチで軽く夕食をとり明日届けてあげる薬を作ることにした。今から作れば、明日の夕暮れまでにはいつも届けている分量くらいは出来上がるだろう。
「まぁ、ブラックも来ないしね」
正直一人暮らしにはあまり慣れていなかった。家は広いし、静かだし……。一人の食事も味気なく、簡単に済ませるか抜いてしまいがちだったりもする。一応そんなことを継続することへの危険性も分からないわけではないが、元の世界では家族に構われ、寮ではみんなに構われていた私としては想像以上に一人は重い。
はぁと一つ溜息を零し、ちらりと左手の薬指に納まった指輪の深い煌きに口角を僅かに引き上げる。
頑張ると決めたのだから、頑張る。
うんっと頷いて、私は作業を開始した。
***
「マシロさん、マシロさん。こんなところで寝ていては風邪を引きますよ。一人暮らしだからといってだらしなさ過ぎますよ」
―― ……うー、だらしないとは失礼だ。
「起きてください。マシロさん」
「駄目。起きる、無理」
私は何人だ? という片言の単語を並べて片手を振った。うとうととし始めたころの記憶はある。朝日が昇ったころだった。
「あとどのくらいで起きる予定ですか?」
かなり譲歩したと思えるその問い掛けに私は「一時間」と答えた。はぁと呆れたような諦めたような溜息が聞こえたあとはもう五月蝿くされることがなくなって、私は深い眠りに落ちた。
優しくて柔らかくて暖かくて、幸せな眠り。
いつまでもその心地に包まれて眠っていたい気持ちに絆され惰眠を貪る。
貪る予定だった、の、に
―― ……ジリリリリリリリッ!
「ぎゃっ」
けたたましいベルの音に私は跳ね起きた。
目覚ましっ! 目覚ましっ?! 目覚ましどこっ!!
軽いパニックに落ちていつも同じ場所にあるはずの目覚まし時計を探す。
―― ぽちっ
「はー……」
ベッドサイドに置いてある目覚まし時計に腕を伸ばし、ようやく静かにさせると大きく息を吐き出した。
ごしごしと目を擦りつつ、目覚まし時計を握り締めると閉まっていたカーテンを開く。陽光が目に痛い。昨日起きた時間とほぼ一緒だ。
ぼんやりと時計を元の位置に戻して、私は大きな欠伸を一つ。続けて背伸びを一つ。
「あれ?」
私なんでベッドに入ってるんだろう? ブラックでも来たのかな?
ことんっと手にした時計をサイドテーブルに戻して、ベッドの脇に揃えてあった靴を履き、ぼんやりしたまま階下へと向った。
「―― ……ええ、そうですね。朝と夕で十分だと思いますよ。飲んでいる間が、楽になるからといって服用回数を勝手に変えないで下さいね?」
一階に下りると聞きなれた声だけど妙に柔らかい話し口調が耳に入った。珍しくお客さんだったようだ。対応しているのはもちろんシゼだ。そういえば今日も同じくらいの時間に来るといってくれていた。
お客さんが出て行くのを見計らってから声を掛けた。
「店番ありがとう……それで、さ、私、ベッドで寝てた?」
シゼはカウンターの上で多分さっきのメモだと思うけど、それを取りながら「お客さん来るんですね」と失礼なことをいい顔を上げた。
「調剤室の作業台に突っ伏して眠っていましたよ。作業の邪魔になるので僕が連れてあがりました。一時間と零していたので目覚ましも掛けておきました。おはようございます」
一息にそこまで告げてくれたシゼに「おはようございます」と返しても困惑が隠せない。
「は、運んだの? シゼが、私を?」
「ええ」
「重いのに」
「そうですね。意識のない人間を運ぶということは容易ではないですが、一応僕も男なのでマシロさんを運ぶくらい雑作もないんですよ」
知らないかもしれませんけど。と、少し拗ねたように加えたシゼに私は一瞬ぽかんとしたあと、我に返って一応「重くないっていってくれるのが先だと思う」とぶーたれておいた。
「そういえば先程の方に渡したものもそうなのですが、価格表がみあたらなかったので、とりあえず連絡先は控えておいたのであとで集金にいってくださいね?」
「あー……そうだ、価格表も燃えちゃったんだ……あ、でも控えがあるから、あとで持って降りとくよ」
にこにこと告げた私にシゼは軽く眉を寄せる。
「もしかして、まだ僕に店番を頼むつもりですか?」
物凄く不機嫌そうだ。どうせお客さんなんて来ないのだろうから、ちょこっと気に掛けて置いてくれるだけで良いのに。喜んで引き受けてくれないにしても、嫌がられるとは思わなかった。
首を傾げた私にシゼは眉間の皺を濃くして、溜息。幸せ落としまくりだよシゼ。
「先程の方になんといわれたか聞いていなかったんですか?」
「ん? 聞いてないよ。もう帰るところだったし」
「夫婦経営になったのかっていわれたんですよっ!」
顔を真っ赤にして、ぷいっと顔を逸らしずかずかと私の隣を追い越して奥の調剤室に向ったシゼに私は苦笑した。
「ごめんごめん。私が相手じゃ、そりゃ嫌だよね」
「……そういう意味ではなくて……」
おばさんというのは総じてそういうお話が大好きだ。どう見たって私とシゼでは最悪姉弟ってところだと思うから、シゼはからかわれただけだと思うけど……それを真に受けて困惑しているシゼはちょっと可愛い。
「兎に角、出掛ける準備して私出るから、お昼までには戻るし、宜しくね? 多分誰も来ないと思うけど、嫌なら、閉めといてくれたら良いから」
けらけらと笑いながらそう付け加えた私に、シゼは恨みがましい視線を向けた。王宮の、それも王子専属の薬師を顎で使うのは私くらいだろう。