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恋愛小説のはずでした

私の恋文を笑った婚約者より、兄が許せません

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/11/02

「あなたのいない春が来るくらいなら、冬が終わらなければいいのに」


 書斎の中から聞こえた言葉に、足が止まった。

 それは、私が書いた言葉だった。昨冬、婚約者のエドガー様が高い熱を出したと聞いて、二晩眠れなかったあとに書いた手紙。その一節を、ほかでもない彼が読み上げている。

 甘く、息を震わせた、私とは似ても似つかない声だった。


「いやあ、冬のままでは困るな。狩りにも行けなくなる」

「大したものだ。僕にもそれくらい熱心な婚約者が欲しいよ」


 笑い声がした。

 扉は手の幅ほど開いていた。私は四人を夕食へ呼びに来ただけだった。エドガー様が久しぶりにいらっしゃるので、彼の好きな林檎の焼き菓子も用意してある。食後に一緒に食べられたらと、朝から楽しみにしていた。

 書斎の奥で、紙をめくる音がした。


「でも、オスカーの前で読むのはまずいんじゃないか。実の妹だぞ」


 そう言ったのはジュール様だった。

 私は扉の縁にかけた指へ力を入れた。ようやく誰かが止めてくれる。お兄様が、こんなことを許すはずがない。

 兄は笑った。


「クレールは昔から大げさなんだ。僕が学校へ戻るだけでも、この世の終わりみたいな手紙を寄越したよ」

「では、君はもう読み慣れているわけだ」

「まあね。本人には言うなよ。泣かれたら面倒だ」


 四人の笑い声が重なった。

 誰がいちばん大きく笑ったかは、分からない。ただ、兄の声だけは間違えようがなかった。子供のころ、私を肩車したまま走って、母に叱られたときと同じ声だった。

 私は扉を押した。


「返してください」


 エドガー様が顔を上げ、手にした便箋を卓上へ伏せた。

 手紙は一通だけではなかった。彼の膝には、私が選んだ淡い水色の封筒が何通も載っていた。手近な卓上にも、開かれた便箋がある。

 兄の笑顔が消えるのを、私は見た。


「クレール。どうしたんだ、急に」

「夕食を知らせに来ました。でも、その前に手紙を返してください。全部です」


 自分の声が掠れていた。

 恥ずかしかった。顔が熱くて、四人のうち誰の目も見たくなかった。膝の上でくしゃりと折れた便箋まで、裸で人前へ放り出された私の一部のように見えた。

 エドガー様は紙を重ね、笑いかけてきた。


「そんな顔をしないでくれ。君が僕を好きだという話をしていただけだよ」

「私があなたを好きだったことは、知っています。書いたのは私ですから。あなたに、読んでほしくて書いたんです」


 そこで息が詰まった。

 好きだった、と言った自分の声が、耳に残った。


「皆様の前で笑っていただくためではありません。手紙を返してください。それから、婚約も終わりにしてください」


 椅子の脚が床を擦った。兄が立ち上がったのだ。


「少し落ち着け。そんな話を、ここで始めるものではないだろう」

「私の手紙を読むのには、よい場所だったんですね」


 兄は口を閉じた。

 エドガー様が私の名を呼んだ。二年間、呼ばれるたびに嬉しかった名前が、今は、機嫌を直せと言うための言葉になっていた。

 私は卓上へ手を伸ばし、自分の便箋を取った。


「明日の朝、残りも全部持ってきてください。あなたの手紙と指輪は、私からお返しします」

「待ってくれ。僕にはまだ話が――」

「今日は聞けません」


 手紙の束を持ったまま、エドガー様は動かなかった。

 無理に奪い合えば、また笑われる気がした。そう思う自分が嫌で、唇を噛んだ。私が嫌だと言っていることを、もう一度あの人たちの遊びにしたくなかった。

 兄がこちらへ来かけたので、私は一歩下がった。


「夕食には出ません。私の分は、下げてもらいます」


 廊下へ出てからも、背中が熱かった。

 階段を上がるまで泣かなかった。部屋の扉を閉じ、鍵を回そうとしたところで、指が滑った。二度目にも回せず、三度目にようやく鍵が掛かった。そのまま取っ手へ額をつけた。

 笑われていた。

 私がこの家で笑われている間、兄もそこにいた。


* * *


 エドガー様からの手紙は、全部で十一通あった。

 領地へ帰った知らせ、舞踏会に来るかという問い、誕生日に贈った品への礼。短い手紙ばかりだったが、私はその短さも、忙しい人が自分のために時間を使ってくれた証拠だと思っていた。

 十一通を机に並べた。書斎から持ち帰った自分の便箋は、いちばん端へ置いた。


 昨冬、エドガー様は領地で熱を出した。

 私には詳しいことが分からず、重い病ではないかと怖くなった。母も、初めはただの風邪だと言われていた。十二歳の私が寝室へ入れてもらえないうちに、母は亡くなった。

 また、好きな人がいなくなる。

 怖くて食事も喉を通らなかった私へ、兄は、詳しい様子を確かめてやると言ってくれた。


 その兄が届いた知らせを見せてくれた夜、私はやっと眠れた。

 手紙は、その翌朝に出したのだった。あなたが大切です。無事に春を迎えてください。私も一緒に、庭を歩きたいです。

 何度書き直しても、私の文章は兄のようにすっきりしなかった。それでも最後には、伝わってほしいと思うことを全部書いた。


 私は便箋の端を摘んだ。

 破ってしまいたかった。細かくして燃やせば、あの声で読まれた文章を見なくて済む。

 けれど、折れ目から破きかけたところで手が止まった。これを書いていた私は、何か悪いことをしたのだろうか。

 好きな人が元気になってほしいと願ったことまで、間違いにしたくなかった。


 扉が叩かれた。

 兄の声だった。私は机の上を片づけず、鍵を開けた。入ってきた兄は、十一通の手紙を見て眉を寄せた。


「本当に返すつもりなのか」

「ええ。指輪も箱へ入れました」

「クレール、あれは酒の席の冗談だ。エドガーにも悪気はない。君が可愛いから、つい仲間に自慢したくなったんだろう」


 私は兄の顔を見た。

 先ほどまでは、部屋へ来た兄が、何と言うのか分からなかった。もしかしたら、真っ先に謝ってくれるかもしれないと、まだ思っていたのだ。

 そうではなかった。


「お兄様にも、面白かったですか」

「だから、そんな深刻に受け取るなと言っているんだ」

「面白かったかと聞いています」


 兄は困ったように息を吐いた。

 私が幼いころ、欲しいものを諦めずに言い続けたときの顔だった。私は二十一歳になった。婚約者へ書いた手紙を、勝手に読まないでほしいと言っている。

 それでも兄の前では、聞き分けの悪い子供になってしまうらしい。


「……あの文章は、少し大げさだっただろう。君だって、あとから読めばそう思うはずだ」


 胸の奥で、何かが切れた。


「私は、怖かったんです!」


 兄が肩を揺らした。

 こんな大きな声を出したことは、ほとんどなかった。喉が痛んだが、止められなかった。


「お母様のときみたいに、お別れも言えないまま亡くなってしまったらどうしようって。それを、お兄様は知っていたでしょう。あの夜、私の隣に座って、手紙を見せてくださったでしょう!」


 兄の視線が、机の上へ落ちた。

 私は濡れた頬を手の甲で拭った。手巾を探している間に、言いたいことをまた飲み込んでしまいそうだった。


「あの方にとっては、笑える文章だったのかもしれません。でも、お兄様は、私が何を怖がっていたか知っていた。知っていて、一緒に笑ったんです」

「それは……そこまで考えていたわけでは」

「私が泣いたら面倒だから、本人には言うなとおっしゃいました。傷つくとは、分かっていたんですよね」


 兄は何も言わなかった。

 私は、その沈黙の間にも、昔のことを思い出してしまった。

 初めて兄へ手紙を書いたのは八歳のときだった。寮にいる兄へ会いたくて、便箋いっぱいに同じことを書いた。帰ってきた兄はそれを持っていて、宝物が増えたと言った。私は嬉しくなり、次の手紙には、庭で見つけた虫の絵まで添えた。


「学校へ戻るお兄様に出した手紙も、本当は面白かったんですか」


 聞きたくなかった。

 聞かなければ、あの思い出だけは今までどおりにしておけたのに。

 兄はすぐに首を振った。


「違う。あれは、本当に嬉しかった。今も取ってある」

「では、どうしてあんなふうに話したの」


 返事は来なかった。

 私は椅子へ座った。立っていられなくなったのだ。兄が近づき、私の肩へ手を置こうとしたので、体を引いた。

 その手を避けるのが、こんなに辛いとは思わなかった。


「私に優しかったお兄様まで、いなかったことにしたくありません。でも、今夜笑っていたのもお兄様です。どちらかだけが本当だなんて、私には思えない」


 兄の手が、行き場を失って下がった。

 父が亡くなったのは五年前。家を継いだばかりの兄は忙しく、それでも私の話を聞く時間を作ってくれた。だから、私も兄を困らせたくなかった。兄の友人と婚約したときには、二人の大好きな人が家族になるのだと思った。

 今日失ったのは、婚約者だけではなかった。


「婚約は終えます。お兄様に、あの方と私を仲直りさせてほしくありません」

「……今日は、もう休め。明日になれば、少しは」

「明日になっても、あの笑い声を忘れません」


 私は扉の方を見た。

 兄は何か言いかけ、結局、言わずに出ていった。鍵を回す音を聞かせるのはひどいことだろうかと、一瞬迷った。

 それでも、回した。


 その夜、伯母のアデルへ手紙を書いた。

 明日からしばらく泊めてほしいこと、婚約を終えるつもりであること、詳しくは会って話したいこと。便箋を前にすると指が強張ったが、途中でやめなかった。

 使いを頼むと、一刻ほどで返事が来た。部屋はある。いつでもおいで、と。


 母が遺した資金から、成人した私には毎年決まった額が支払われていた。贅沢はできないが、暮らし方を選べば、兄の屋敷にいなくても生活できる。

 伯母の家へ永久に置いてもらうつもりではなかった。まず離れたところで、次の住まいを探したかった。

 私は侍女のルーシーに、明日の朝、馬車と荷物の支度を頼んだ。彼女には伯母の家へ同行してもらい、その後の勤め方は改めて相談したいと伝えた。


「お召し物は、どちらを持っていらっしゃいますか」


 そう尋ねられて、私は衣装棚を開けた。

 エドガー様が好きだと言った薄桃色の服を、最初に手へ取ってしまった。しばらく見つめてから戻し、深い緑の服を選んだ。着たときに、自分の目の色が明るく見えるのが好きだった。

 荷物を選ぶたびに涙が出た。それでも、鞄の底は少しずつ埋まっていった。


* * *


 翌朝、書斎には昨夜と同じ四人がいた。

 私が、手紙を聞いた方にも立ち会ってほしいと伝えたのだ。私の知らないところで、最後には笑って許したことにされるのは嫌だった。

 エドガー様の前には、昨日の手紙の束が置かれていた。私を見ると立ち上がり、困った恋人をなだめるような笑顔を作った。


「よく眠れたかい。昨日は驚かせたね」

「眠れませんでした」


 私は向かいの椅子へ座り、小箱と十一通の手紙を卓上へ置いた。

 エドガー様が小箱を開けた。中の指輪を見たとたん、微笑みが止まった。


「本気なのか」

「昨夜、そう申し上げました」

「皆の前で少しからかわれたくらいで、二年の婚約をなくすのか。君は、僕が好きなんだろう?」


 その問いに、胸が痛んだ。

 好きだった。彼が門をくぐってくるだけで、窓辺へ行くのを我慢できなかった。隣を歩けば、自分の歩幅を少し大きくした。あの手紙を書いたころの気持ちを、今すぐ全部消すことはできない。

 彼は、それを分かって言っているのだ。


「好きでした。あなたが病気になったら心配しましたし、会える日は嬉しかった。だから、あなたにだけ手紙を書きました。今ここにいらっしゃる皆様へ送ったものではありません」


 ジュール様が目を伏せた。バスティアン様は、何か言いかけてやめた。

 エドガー様は眉を寄せた。


「そんなに恥ずかしかったなら、もう読まないよ。それでいいだろう」

「私の手紙が恥ずかしいものだった、ということにはしないでください」


 机の下で握った指に、爪が食い込んだ。

 昨夜は、ただ顔を隠したかった。今も、あの声を思い出すと体が熱くなる。それでも、彼が笑いやすいように、自分の気持ちを粗末なものに変えるつもりはなかった。


「私が本気で書いたものを、あなたは笑い物にしました。お兄様も、皆様も。それを聞いた私が傷ついても、今度は騒ぎすぎだと笑う。私は、もうあなた方の前へ気持ちを差し出したくありません」


 兄は、窓際の椅子に座ったままだった。

 昨日より顔色が悪かったが、何を考えているかは分からない。私には、それを聞き出してあげる余裕はなかった。

 エドガー様が兄を見た。


「オスカー、君からも何か言ってくれ。君の妹は、少し思い詰めている」


 いつもなら、そこで兄が笑う。

 クレールは昔からこうなんだ。少し放っておけば機嫌が直る。エドガーも困ったものだが、君のことは大事にしているんだよ。

 私は、その声を聞く前に立った。


「お兄様から説得されても、変えません。私は今日、アデル伯母様の家へ行きます。馬車も、支度してもらいました」

「家を出るのか?」


 兄がこちらを見た。

 私は頷いた。椅子の背を握らなければ、膝が震えそうだった。


「ここにいると、またお兄様に泣きつきたくなると思います。今夜こそ分かってくださるかもしれないと、待ってしまう。もう、それをしたくないんです」


 兄の口が、少し開いた。

 私は卓上の便箋へ手を伸ばした。エドガー様が押さえていた指をどけないので、その手を見た。


「返してください」

「だから、待てと言っている。オスカー、止めろよ。こんなことで家まで出るなんて、どうかしている」


 兄が立ち上がった。

 私のそばへ来るのかと思った。体が強張ったが、彼はエドガー様の方を向いた。


「……僕も、笑った」


 低い声だった。

 エドガー様は、ほっとしたように頷いた。


「そうだろう。皆でふざけていただけで」

「違う。今、君をかばうつもりで言ったんじゃない」


 兄の声が途切れた。

 言葉を探す間が長く、私は自分の呼吸を数えた。兄のために続きを言いたくはなかった。何を言うかは、兄が決めることだった。


「ジュールが止めかけたのに、僕が笑った。妹は大げさだと、僕が言った。本人には言うなとも。僕がああ言わなければ、そこでやめられたかもしれない」


 ジュール様が顔を上げた。

 兄は私の顔へ逃げず、昨夜の仲間を見ていた。


「クレールが嫌がらないと思っていたわけじゃない。傷つくと分かっていた。だから、聞かせなければいいと思った」

「おい。今さら一人だけ、立派な兄の顔をするなよ」


 エドガー様の言葉に、兄の頬が赤くなった。

 私は息を止めた。兄は人前で愚かだと思われることを嫌う。だから昨日、妹を子供扱いして笑う方を選んだのではないか。

 また、その方へ戻るのだろうか。


「立派なことなんて、していない」


 兄はそう言った。


「君に手紙を読ませて笑ったのは、僕だ。それを、妹が騒いだ話に変えるのはやめる。僕から、この件は冗談で済んだと誰かに話すこともない」


 エドガー様は、まだ手紙を押さえていた。

 兄はその手を見下ろした。


「返してくれ。クレールは、昨夜からそう言っている」

「君があとで取りなしてくれればいいだけだろう。僕たちの付き合いまで、こんなことで」

「取りなさない。君と酒を飲むために、妹へ我慢しろと言うのは、もうやめる」


 部屋が静かになった。

 私は兄を見なかった。見たら、よく言ってくださったと感謝してしまいそうだった。昨日の兄もそこにいたのに、今日だけで帳消しにしたくなる自分が、怖かった。

 便箋を押さえていた指が、ようやく離れた。


 私は手紙を取り、日付を確かめた。

 誕生日のもの、彼が遠出をしたときのもの。どれも、自分が書いた日を覚えていた。誰かの手でついた葡萄酒の染みが一つあり、見つけた瞬間、また泣きたくなった。

 それでも数えた。昨夜取り戻した一通を除き、控えのあるものは、すべて揃っていた。


「ほかの方に渡した手紙や、写しはありますか」


 エドガー様は、ない、と答えた。

 その返事を私は信じ切れなかった。兄は、私が昨夜取り戻した一通も含めれば、ここで見たものはすべて返されたと補った。知っている範囲だけを言う、硬い声だった。

 ジュール様が私へ頭を下げた。


「聞いてしまったことも、笑ったことも、申し訳なかった。ほかへ話すことはしません」


 バスティアン様も謝った。

 私は、謝罪を聞きました、とだけ答えた。場を収めるために、大丈夫ですとは言えなかった。

 エドガー様が、指輪の箱を閉じた。


「君は、気持ちが変わったらどうするつもりだ」

「あなたとの婚約を終えてほしいという気持ちは、変わりません。正式な手続きのお返事を、お待ちします」


 その人と暮らす家のことを、何度考えたか分からない。

 窓には明るい色の布を掛けたい。庭へ小さな卓を出し、二人でお茶を飲みたい。彼が帰ってきたら、話したかったことを順番に聞いてもらおう。

 その相手が、私の言葉を持ち出して笑っていた。


 私は、十一通の手紙を彼の方へ押した。

 もう一度だけ振り向いてくれるのを待つような気持ちは、まだ胸のどこかに残っていた。でも、その気持ちを理由に椅子へ座り直さなかった。

 扉を開けると、廊下の先にルーシーが待っていた。


* * *


 玄関には、鞄が二つ置かれていた。

 兄は客を帰してから下りてきた。私は外套の留め金を掛けているところだった。うまく指が動かず、ルーシーに手伝ってもらった。

 兄は、私たちのそばで足を止めた。


「クレール。すまなかった」


 私は兄を見た。

 昨日、聞きたかった言葉だった。たった一晩なのに、今はその言葉を受け取るために、随分遠くから戻らなければならない気がした。

 兄が、握っていた手をほどいた。


「昨夜は、エドガーの前で君の味方をするのが、気恥ずかしかった。妹の言い分ばかり聞く兄だと思われたくなかった。君なら、最後には分かってくれると……勝手に思っていた」


 私は聞いていた。

 その説明で、胸の痛みが軽くなることはなかった。私が泣くことより、友人にからかわれることの方が兄には嫌だったのだと、はっきりしただけだった。


「分かりました。どうして笑ったのかは」

「今すぐ許してくれとは言わない。ただ、ここを出ていく必要までは――」

「あります」


 兄が黙った。

 私は外套の襟を直した。小さな動作を一つ終えると、次の言葉を言う力が出た。


「お兄様が謝ってくださったことと、私がこの家で安心して暮らせることは、同じではありません」


 言い終えると、涙が落ちた。

 兄は手を伸ばしかけ、今度は途中で止めた。それを見て、私は余計に悲しくなった。以前の兄なら、私は自分からその手を取っていたのだ。

 兄を憎いと思った。どうして、これほど好きだった人を、私に怖がらせたのだろう。


「エドガー様に笑われたことは、もちろん許せません。でも、私は、お兄様に聞いてほしかったんです。ひどいことをされたって、帰ってきて、泣きたかった。そこに、お兄様もいた」


 うまく息が吸えず、言葉が切れた。

 兄は、すまない、ともう一度言った。私は頷けなかった。


「しばらく、会いに来ないでください。連絡が必要なことは、手紙でお願いします。返事を待っているからと、何度も催促しないで」

「……いつなら、帰ってくる」

「帰る日を、今日は決めません」


 兄の目が、鞄へ向いた。

 昨夜のように、明日になればと言いかけて、口を閉じた。私が本当に行くのだと、やっと分かったのかもしれなかった。

 私はルーシーと外へ出た。御者が鞄を積み、馬車の扉を開けてくれた。


「クレール」


 呼ばれて、振り返った。

 兄は玄関の段の上にいた。子供のころ、出かける兄を見送っていた場所に、今は兄が立っている。


「君が書いてくれた手紙は、宝物だった。それは、嘘じゃなかった」


 胸が痛かった。

 それを信じたい気持ちは、今もあった。だから、簡単に、全部嘘だったと言って捨てることもできなかった。


「だったら、笑わないでほしかった」


 兄の顔が歪んだ。

 私は馬車へ乗った。扉が閉まるまで、兄はもう私を呼ばなかった。


* * *


 伯母の家へ着くと、用意された部屋で泣いた。

 食事の席でも泣いてしまい、温かいスープが冷めた。アデル伯母様は、温め直しましょうと皿を下げさせた。何があったのか、今すぐ順序立てて話すようには求めなかった。

 それがありがたくて、また泣いた。


 三日後、婚約解消についての正式な書面が届いた。

 兄は、私が解消を申し出た理由を先方へ伝えていた。返ってきた書面の内容を確かめ、私は署名した。手続きが終わったからといって、エドガー様を好きだった時間まで消えるわけではなかったが、もう彼の婚約者ではなかった。

 兄からは、あの二人の前で自分が加担した事実を改めて認め、私が許したと周囲へ話さないよう伝えたという報告も来た。


 手紙の最後に、体を大事に、とあった。

 私はそこを長く見た。書いた人の声が分かる字だった。会いたいという気持ちと、まだ会いたくないという気持ちが、同じ紙の上へ落ちてきた。

 受け取りました、とだけ返した。帰るとは書かなかった。


 ひと月の間に、私は伯母の家から歩ける場所へ小さな住まいを借りた。

 家を選ぶときには、初めに見つけた物件は一人で管理するには大きいと分かり、部屋の少ない方へ変えた。ルーシーには条件を相談して、そのまま働いてもらうことになった。伯母も折に触れて来てくれる。

 兄の屋敷にいたころより、考えなければならない用事は増えた。それでも、誰が訪ねてきてよいかを、自分で決められた。


 ミレイユへ手紙を書いたのは、引っ越しから三日目だった。

 寄宿学校のころからの友人で、今も毎月便りを交わしている。新しい住所を知らせるだけなら、短く書けた。その下へ、会いたいと書こうとして、ペンが止まった。

 大げさな声が耳の奥へ戻ってきた。


 私はペンを置き、窓を開けた。

 通りの向こうで、パン屋が看板を裏返している。買い物帰りの女の子が、大きな籠を両腕で抱えていた。いつもの夕方だった。

 ミレイユに会いたかった。最近あったことを聞いてほしかったし、彼女が前の手紙で書いていた、庭の木が倒れた騒ぎの続きも聞きたかった。

 その気持ちまで、つまらない挨拶の中へ隠す必要はないはずだった。


『新しい家に、あなたに座ってほしい椅子を一つ置きました。会いたいです。泊まりに来てもらえたら、とても嬉しい』


 書いたあとで、顔が熱くなった。

 いかにも待ち構えているようだと思った。実際、待ち構えていた。来る日が決まれば、きっと朝から窓の外を何度も見るだろう。

 私は書き直さずに封をした。


 五日後、ミレイユから返事が来た。

 来週の木曜日に行く、二泊してよいか、椅子のほかに寝台も空いているか。その三つを読んだところで、私は笑ってしまった。

 寝台はある。朝食も出せる。庭の木の話を忘れずに持ってきて。

 そう返してから、客用の部屋の窓を開けに行った。


 木曜日、私は予想したとおり、何度も外を見た。

 昼過ぎに馬車が止まったときには、ルーシーより先に玄関へ着いていた。扉を開けると、ミレイユが大きな包みを抱えて立っていた。


「会いたかった!」


 口から出た声は、自分でも驚くほど大きかった。

 彼女は包みをルーシーへ渡し、両腕を広げた。


「私も。あなたの手紙を読んで、すぐ来たくなったのよ」


 抱きつくと、懐かしい香りがした。

 私は笑っているつもりだったのに、目から涙が出た。ミレイユの肩へ顔をつけ、もう一度、会いたかったと言った。彼女は、うん、と答えて背中を撫でた。

 同じ言葉を繰り返しても、面倒だとは言われなかった。


 落ち着いてから包みを開けると、編んだ籠から丸いパンが現れた。

 とても大きい。私は両手を広げて、その幅を確かめた。


「これ、二人で食べるの?」

「うちの料理人が、新しい家には大きなパンを持っていくといいって。私も、こんなに大きいとは思わなかったわ」


 ミレイユが真面目な顔で言うので、笑いが止まらなくなった。

 ルーシーも横から覗き、大きい方のナイフを出してきますと言った。私は伯母にも声を掛けようと決め、余ったら明日、薄く切って焼こうと提案した。

 明日の朝にもミレイユがここにいる。そのことを思うと、胸が温かくなった。


「私の椅子は、どれ?」


 食堂へ入ると、彼女が尋ねた。

 私は窓際の一脚を引いた。午後の光が差す、座ると庭の小さな木が見える席だった。ミレイユは腰を下ろし、私の方へ体を向けた。


「では、まず木が倒れた話から。あれね、実は父が切ろうとしていた木とは別だったの」


 私はパンを切る手を止めた。

 続きを聞きたくて、身を乗り出した。ミレイユが得意そうに話し始めるので、今度は私も、引っ越しで間違えて運ばれてきた椅子の話をしようと思った。

 伝えたいことが、いくつもあった。

 今日はそれを、楽しみにしてくれる人が、目の前に座っていた。

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