アットホームな職場なもので
最初のやつは随分と往生際が悪く、二人がかりで押さえつけているというのに、こちらが近づくたびに身体を大きく捩り、何度も男の腕を振りほどこうとするので、予定していた時間をとうに過ぎても、なかなか仕事を終えることができなかった。
大きな身体を無闇に動かされるとこちらまで危ないので、私は男にもう少し強く押さえるよう命じたのだが、男は額から汗を滴らせながら、これ以上は無理ですよ、と情けない声を上げるばかりで、一向に状況は改善しなかった。
「だったら、もう一人呼んでこい」
「今からですか」
「ほかにいつがある」
男は舌打ちをして、扉の向こうに声をかけた。
ほどなくして別の男が現れ、事情を聞くなり顔をしかめたものの、私が道具を手に取ると、何も言わずに二人で相手を押さえ込み始めた。
ようやく大人しくなった。
私は刃先を爪の端に差し込み、手首を捻るようにして、爪を少しずつ引き剥がしていった。
ミシッと、爪が割れる音がした。
それまで比較的静かにしていた相手が、突然、身体を大きく跳ねさせた。
「押さえろ!」
私が怒鳴ると、男たちは慌てて力を込め直したが、一度暴れ始めたものを大人しくさせるのは容易ではなく、こちらが刃を動かそうとするたびに激しく抵抗されるので、そのたびに手を止め、動きが収まるのを待たなければならなかった。
まったく面倒なやつだった。
私は改めて刃を差し込んだ。
先ほどより少し深く入ったところで、手元に伝わる抵抗が変わったので、そのまま力を込めて引き剥がすと、硬い欠片が音を立てて床へ落ちた。
相手がまた動いた。
男の一人が悪態をついた。
「いい加減にしろよ、こいつ!」
「喋ってないで押さえてろ」
私は床に落ちたものを靴先で脇へ寄せ、刃に付着したものを拭い落としてから、残っている部分へ再び手を伸ばした。
剥がすたびに爪が足元へ落ち、相手はそれを嫌がるように身体を動かしたが、こちらとしては途中でやめるわけにもいかず、男たちが押さえる位置を変えるのに合わせて何度も手を持ち直し、必要なところまで済ませることにした。
途中、一人がもう十分ではないかと言い出した。
「まだ残ってる」
「でも、もうかなりやりましたよ」
「見りゃ分かるだろ」
「これ以上はちょっと……」
私は手を止め、男の顔を見た。
男はそれきり黙った。
最後の一片を剥がし終えるころには、相手の抵抗も随分と弱くなっており、時折身体を揺することはあっても、先ほどまでのように激しく暴れることはなくなっていた。
私は刃物を置いた。
「釘を持ってこい」
男の一人が顔を上げた。
「まだやるんですか」
「当たり前だろ」
男は何か言いたそうにしていたが、結局何も言わず、壁際に置いてあった箱を取りに行った。
私はその中から一本をつまみ上げ、位置を確かめてから、金槌を振り下ろした。
硬い音が響いた。
もう一度叩くと、釘は少しずつ奥へ沈んでいき、やがて十分なところまで入ったので、私は手を止め、別の一本に持ち替えた。
相手が大きく息を吐いた。
次の釘を当てると、また身体を捩った。
「動かすなよ」
私は男に言った。
「押さえてますって」
「だったら最後まで押さえろ」
金槌を振り下ろした。
甲高い音が、建物の中に何度も響いた。
釘を打ち込むあいだ、男たちはほとんど口を利かなかったが、そのうちの一人が時折こちらの手元を覗き込んでは、何か言いたそうに顔をしかめていたので、私は余計なことを考えなくて済むよう、作業が終わるまで数を数えていろと命じた。
やがて最後の一本を打ち終えると、私は金槌を置き、指先で確かめながら、突き出している部分を一つずつ処理していった。
男たちが手を離した。
相手はしばらく動かなかった。
それから、こちらの様子を窺うようにゆっくりと顔を動かしたが、私が道具を片づけ始めると、もう何もしてこないことが分かったのか、静かにその場を離れていった。
「ようやく終わりましたね」
男が言った。
私は返事をせず、時計を見た。
九時二十六分。
ボスが指定した時間を、二十六分も過ぎていた。
◇
ウチのボスは、遅刻が嫌いだった。
本人が約束の時間を守ることなど滅多にないくせに、こちらが五分でも予定を超過すると、すぐに携帯を鳴らしてくるのである。
そのくせ、遅れた理由を説明しようとすると、そんなことは聞いていないと言って話を遮り、とにかく早く終わらせろと命じるものだから、こちらとしても真面目に相手をする気にはなれなかった。
その日も、次の場所へ向かう途中で携帯が鳴った。
「おい、終わったのか」
開口一番、ボスはそう尋ねた。
「一件目はな」
「遅いぞ」
「暴れられたんだよ」
「そんなことはどうでもいい。次のやつはどうした」
「これからだ」
電話の向こうで舌打ちが聞こえた。
「例の、腹のでかいメスだろ」
「ああ」
「ありゃまだ使うんだからな。余計なことするなよ」
「分かってる」
「本当に分かってんのか」
「だから、分かってるって」
私はそこで電話を切った。
ボスは昔から、こちらが何をしているのか逐一把握していないと気が済まない男だったが、それでも仕事そのものを手伝うことは滅多になく、面倒なことはすべて現場の人間に押しつけて、自分は結果だけを確かめようとするのだった。
ここに来てから、もう随分と長い。
最初のころは何かにつけて腹を立てていたものだが、近頃では、あの男の声を聞いても何とも思わなくなっていた。
慣れというのは、恐ろしいものだ。
私は携帯をしまい、奥へ向かった。
◇
二番目は、腹の大きなメスだった。
ひと目見ただけで、相当にひどい状態であることは分かったが、近づいてみると、その膨らみは想像していた以上のもので、内側から押し広げられた腹が不自然な形に張り出し、呼吸をするたびに大きく上下していた。
私はしばらく眺めたあと、腹の表面を軽く叩いた。
鈍い音がした。
もう一度、少し位置を変えて叩くと、今度は先ほどとは違う響きが返ってきたので、私は何度か同じことを繰り返してから、傍らに立っていた若い男へ道具を持ってくるよう命じた。
「何をするんですか」
「刺す」
男は目を丸くした。
「腹をですか?」
「そうだよ」
「本当に?」
「ほかに何をすると思ったんだ」
男は答えなかった。
私は受け取った器具を確かめ、必要な準備を済ませると、腹の左側へ近づいた。
相手は先ほどから荒い息を繰り返しており、こちらが触れようとするたびに嫌がるように身体を揺すったが、図体が大きいせいか、思うように動くこともできないらしく、何度か身じろぎをしたあとは、苦しそうに息を吐くだけだった。
「少し押さえとけ」
私は男に言った。
男は躊躇していたが、私が黙って待っていると、諦めたように近づいてきた。
私は位置を確かめた。
そして、腹に突き刺した。
相手が大きく身体を震わせた。
男が思わず手を離しかけたので、私は怒鳴った。
「動かすな!」
「す、すみません!」
私は器具を持ち直し、手元に伝わる抵抗を確かめながら、ゆっくりと先へ進めていった。
やがて、奥の方で何かが抜けるような感触があった。
細い音がした。
最初は何の音なのか分からないほど小さかったが、それは次第にはっきりと聞こえるようになり、やがて鼻を突くような臭いが漂い始めたので、隣の男はたまらず顔を背けた。
「うわっ、何だこれ……」
「黙ってろ」
「いや、でも……」
「口を閉じろって言ってるだろ」
私は腹から目を離さなかった。
内側に溜め込まれていたものが少しずつ抜けていくにつれて、あれほど異様に張り詰めていた表面が徐々に緩み、突き出していた部分がゆっくりと小さくなっていく様子は、見慣れている私にとっても、どこか奇妙な光景だった。
男は鼻を押さえながら、しきりにこちらの手元を気にしていた。
「もういいんじゃないですか」
「まだだ」
「でも、かなり抜けましたよ」
「分かってる」
「じゃあ、もう……」
「全部終わってからにしろ」
男は黙った。
相手はほとんど動かなくなっていた。
私は時折腹に手を当て、まだ残っているものの具合を確かめながら、音が弱まるのを待った。
先ほどまで荒かった呼吸が、いつの間にか静かになっていた。
やがて、もう十分だろうと思えるところまで収まったので、私は器具を引き抜き、残された小さな穴を拭ってから、ようやく一歩後ろへ下がった。
相手はしばらく立っていた。
それから、ゆっくりと身体を沈めた。
男が不安そうに顔を覗き込んだ。
「大丈夫なんですかね」
「さあな」
「さあなって……」
「今は放っておけ」
私は道具を片づけた。
男はしばらくその場に残っていたが、私が歩き出すと、慌てて後を追ってきた。
時計は正午を少し過ぎていた。
◇
昼飯を食べていると、奥の部屋から甲高い声が聞こえてきた。
最初は一度きりだったが、しばらくすると何度も繰り返されるようになり、その合間に水の跳ねる音や、何か硬いものを引っかくような音まで混じり始めたので、私はとうとう箸を置き、隣に座っていた男に何があったのかと尋ねた。
「例の汚れたやつですよ」
男は飯を食べながら答えた。
「朝からやってるのか」
「そう聞いてますけど」
「随分とかかるな」
「相当ひどいらしいですからね」
私は残っていた飯をかき込み、湯呑みの中身を飲み干すと、席を立った。
廊下へ出ると、先ほどよりも声は大きく聞こえた。
何かが倒れる音がし、それに続いて女の怒鳴り声が響いたので、私は濡れた床を避けながら奥へ進み、声のする部屋の扉を開けた。
中では、女が二人がかりで相手の身体を押さえつけ、その上から何度も湯を浴びせていた。
相手はひどく暴れていた。
身体を捩るたびに水が跳ね、どうにか逃れようとして腕を振り回すので、押さえている方も随分と苦労している様子だったが、女たちは手を緩めず、湯をかけては擦るという作業を、何度も繰り返していた。
「まだ終わらないのか」
私が言うと、一人が振り返った。
「全然落ちないんですよ」
「そんなにひどいのか」
「見てください、これ」
女が指で示したところには、黒ずんだものがべったりと付着しており、その周りにも同じような汚れが広がっていたので、私はしばらく眺めていたが、確かに簡単には済みそうにないと思った。
女が新しい湯を流した。
相手が甲高い声を上げた。
それと同時に身体を大きく捩ったため、押さえていたもう一人が慌てて体勢を立て直し、その隙に湯をかけていた女が、汚れの残っている部分を指先で擦り始めた。
「暴れないでよ!」
女が怒鳴った。
相手は聞く耳を持たなかった。
「ちゃんと押さえてて!」
「押さえてるってば!」
「また動いたじゃない!」
「そっちが急にかけるからでしょ!」
女たちは言い争いながらも作業をやめようとはせず、湯をかけ、身体を擦り、残っているものを確かめては再び湯を流すということを、執拗なほど繰り返していた。
私は壁にもたれ、腕を組んだ。
相手は何度も逃げようとした。
しかし、逃げ場はなかった。
少しでも身体を動かそうとすれば、すぐに女たちが押さえ直し、自由が利かなくなったところで再び湯が流されるのである。
やがて、最初のころには湯を浴びせられるたびに激しく抵抗していたものが、次第に大人しくなり始めた。
最初は時折身体を捩っていたが、その間隔は少しずつ長くなり、しまいには女が触れてもほとんど動こうとしなくなった。
「静かになったな」
私が言うと、女は額の汗を拭った。
「疲れたんでしょうね」
「まだやるのか」
「あと少しです」
女は再び湯を流した。
今度は声が上がらなかった。
私はそれを見届けると、隣の部屋へ向かった。
◇
四番目は、薬漬けの最中だった。
扉を開けると独特の臭いが鼻をつき、その奥では若い男が片腕を押さえながら立っていたので、私は何があったのかと尋ねようとしたが、男の腕に細長い裂け目ができているのを見て、だいたいの事情を察した。
「やられたのか」
男は頷いた。
「油断しました」
「馬鹿だな」
「すみません」
私は部屋の奥へ目を向けた。
相手はひどく興奮していた。
こちらが近づくと身体を低くして威嚇し、少しでも手を伸ばそうものなら容赦なく爪を振り回すので、若い男もすっかり怖気づいてしまったらしく、女が何度呼びかけても、なかなか近づこうとしなかった。
「何をやってる」
私が言うと、男は情けない顔をした。
「いや、こいつ、相当気が荒くて……」
「見れば分かる」
「さっきも急に飛びかかってきたんですよ」
「だから何だ」
男は黙り込んだ。
私はしばらく様子を見ていたが、一向に仕事が進む気配がなかったので、とうとう痺れを切らして男を退かせ、自分で身体を押さえ込むことにした。
相手は激しく抵抗した。
こちらが少しでも力を緩めれば、すぐに身体を捩って逃れようとし、そのたびに鋭い爪が手袋の表面を引っかくので、私は何度も押さえる位置を変えながら、女が作業を終えるのを待たなければならなかった。
「まだか」
私は尋ねた。
「もう少しです」
「長ぇなあ」
「決まった時間があるんですから、仕方ないでしょう」
女はそう言いながら、容器の中身を確かめた。
薬の臭いが漂っていた。
相手は唸り続けていた。
身体を何度も捩り、時折こちらの手に爪を立てようとするので、私は顔を近づけすぎないように注意しながら、女が時計を見ているのを待った。
やがて所定の時間が経ち、女が残った薬品を洗い流し始めると、それまで押さえ込まれていた相手は、最後の力を振り絞るように再び激しく暴れ始めた。
水が跳ねた。
男が慌てて布を取りに走った。
私は黙って身体を押さえ続けた。
ようやく女が手を止めた。
「終わりました」
私は力を緩めた。
相手は素早く身を引き、こちらを睨みつけながら低く唸った。
「好きにしろ」
私はそう言って手袋を外した。
時計は午後三時を回っていた。
◇
夕方、ボスが顔を出した。
「全部終わったか」
「ああ」
「問題は」
「最後のやつが随分と暴れた。若いのが一人、引っかかれたくらいだ」
ボスは呆れたように笑った。
「あいつもまだまだだな」
「経験が足りない」
「お前がちゃんと教えてやれよ」
「面倒だ」
「それがお前の仕事だろ」
私は返事をしなかった。
ボスは机の上に置かれた帳面を取り上げ、今日の件数を確かめた。
「朝のやつはどうした」
「釘は全部入れた」
「外れないな」
「ああ」
「腹の方は」
「中身を抜いた。今は落ち着いてる」
「死んでないな?」
「今のところはな」
「ならいい」
ボスは満足そうに頷いた。
それから予定表を取り上げ、翌日の欄に目を落とした。
「明日も頼むぞ」
「まだ何かあるのか」
「朝から二件。午後にはでかいのが一つ入ってる」
「何をする」
「タマを取る」
私は顔をしかめた。
「またかよ」
「仕方ないだろ。決まってるんだから」
「人手は」
「二人つける」
「今日みたいなやつを寄越すなよ」
ボスは笑った。
「分かってる」
私は帳面を閉じ、机の端へ押しやった。
窓の外はすっかり夕暮れだった。
◇
最後の見回りを終えたころには、建物の中は静かになっていた。
朝から聞こえていた物音もすっかり収まり、時折どこかで何かが動く気配がするほかは、廊下の向こうから低い機械音が聞こえてくるだけだった。
最初のやつは、もう普通に動いていた。
腹の大きかったメスも落ち着いていた。
湯を浴びせられていたやつは静かになっていたが、薬品を使われていた方は相変わらず機嫌が悪く、私が近づこうとすると、まだ何か言いたそうに低く唸った。
私はそれ以上構わず、扉を閉めた。
これで今日の仕事は全部終わった。
事務室に戻り、道具の数を確かめてから、記録簿の最後の欄へ完了の印をつける。
全件恙なく処理済み。
私は帳面を閉じた。
外へ出ると、夕方の風が吹いていた。
駐車場の脇では、ボスが煙草を吸っていたが、私を見るなり片手を上げ、明日は六時からだからな、といつもの調子で念を押してきた。
私は適当に返事をして車へ向かった。
その途中、建物の奥から甲高い声が聞こえたので、思わず振り返ったが、すぐに静かになったので、それ以上気にすることはなかった。
車に乗り込み、エンジンをかけた。
敷地の外へ出るには、古い門を一つ通らなければならない。
私は門の前で車を停め、運転席を降りた。
夕日はすっかり低くなり、建物の屋根や木々の影を長く地面に伸ばしていた。
門の脇に立つ古びた木製の看板にも、西日が当たっていた。
――父ヶ峰ふれあい牧場
その下には、色褪せた文字でこう書かれている。
乗馬体験・酪農体験・保護猫ふれあい広場
私は門扉を開き、再び車へ乗り込んだ。
背後から、馬のいななく声が聞こえた。
明日も忙しくなりそうだった。
私はアクセルを踏み、夕暮れの農道へ車を走らせた。




