ep.8 抗魔の翡翠 (1)
「セレイア姉ー!」
聞き慣れた少し高い声に、セレイアが振り返る。
棚場の方から、いくつかの小さな人影がこちらへと泳いで来ていた。その内の一人とぱちりと目が合う。セレイアを呼び止めた少年は、満面の笑みを浮かべた。
「なあ、見てて!」
そう言って小さな身体がぐんと水を切って上昇する。頭上を泳いでいた小魚の群れを、まるで帯で縛るようにぐるりと一周して、人魚の少年はセレイアの目の前へと降りてきた。
セレイアがくすりと笑って子供の頭を撫でてから、視線を海面の方へと向ける。急な乱入者に隊列を邪魔された魚たちは不満げに胸びれを揺らして泳いで行った。
つん、とセレイアの腕が軽く突かれる。首を下にやると、少年より一回り身体の大きな少女が口を尖らせていた。
「もー、セレイア姫様からも言ってやってください。最近この子たち、歌の練習もしないで、魚たちにちょっかいばっかり」
「だってあいつら、セレイア姉が歌い出すといっつも寄って来てさ」
ひれの先をくすぐられると鬱陶しいのだと、少年が泳ぎ去る魚群に向けて舌を突き出した。
まあまあ、と少年を宥めてから、セレイアが少し残念そうに眉根を下げてみせる。
「泳ぎを見せてくれたのは嬉しいわ。でも、ついこの間まで歌も頑張ってたと思うけれど、練習はやめちゃったの?」
少年がぷいと目を逸らした。代わりに別の子供が、がっかりしたような顔でため息混じりに答える。
「練習したって、次の儀式はまだまだ先だもん。そこで王様に認められないと、兵隊にはなれないって、大人たちが言ってた」
それもそうだけど、とリーダー格の少女は少し難しい表情で仲間たちの顔を見渡した。
セレイアは苦笑した。数十年に一度の歌の儀式は、ついこの間行われたばかりだ。
衛兵を希望する者は、皆あの場で自らの力量を示し、王自らが城に招くというのが通例となっている。
「あなたたちは、城の衛兵になりたいの?」
もちろん、という複数の返事が返った。
ぎゅっとセレイアの手が握られる。先程自分を呼び止めた少年が、両手に力を込めてこちらを見上げていた。
「そしたら、王様になったセレイア姉を守ってやれるだろ? セレイア姉、いっつもふらふらしてるから」
「ふふ、ありがとう。でも王位のことはお父様が決めることだって、この間も言ったでしょう?」
少なくともしばらくはその予定はないわ。そうセレイアが肩を竦めると、セレイア姉ちゃんはジユウジンだから、と誰かの声が返った。
衛兵になれたらどうするか、子供たちが楽しそうに話している。衣装への憧れや、宮殿暮らしの夢など、ひと通り盛り上がった後で、子供たちはセレイアを振り返った。
「姫様、あたしたちが宮殿に入れるようになったら、いつでも一緒に遊べるね」
「ああ、それでロウゼキモノの人間たちをたくさんやっつけてやるんだ」
少年が自慢げに胸を張る。片言のような発言は、恐らくは周囲の大人たちの言い分を真似ているのだろうとセレイアは思った。
周りを軽く見渡し、大人たちがいないことを確認してから、セレイアが口元に手をやって内緒話のように囁く。
「皆は、人間だとか、他の種族が、悪いヒトばっかりだって思う?」
「分かんない。見たことないもん」
「でも、翡翠貝が増えてるのは人間のせいなんでしょ?」
女の子の問いに、そうだそうだ、と声が上がった。
どうやら彼らが遊び場にしている別の棚場が、件の緑の貝に侵食され、そろそろ立ち入りが禁じられそうなのだという話だった。
「大人たちが言ってた。人間が海にたくさん入って、ハイスイオセン? のせいだって」
「廃水による生態系汚染ね。ママがそう言ってた」
「お前んとこの母ちゃん、宮殿で勉強してるんだもんな」
「研究よ、王宮研究員。あたし、衛兵がダメなら、ママと同じ研究員になって宮殿に住むの」
そう言って少女が胸を張る。
セレイアは少し困ったように眉根を下げた。
確かに、人間による海への侵食や排水の増加が、リュアの住処を汚染する原因なのではないかとそう囁かれている。
「でもまだそうと決まったわけじゃないわ。……それより、折角集まってるんだから、また一緒に歌ってみない? わたし、皆の歌が聞きたいわ」
セレイアがそう言って両手を合わせる。子供たちは頷き、互いに少しずつ距離をとった。
まだ水中に泡を立たせる程度の拙い歌声が、海底の遊び場に響き渡った。
◇
夜の入り江で、セレイアが岩に上体を乗り上げてカイルラスと言葉を交わす。
あの翼人族の葬儀以来、ほんの少しだけ彼の態度が柔らかくなったようにセレイアは感じていた。
この日はカイルラスが部下を引き連れ訓練をしていたということで、遙か上空、雲の向こうの紺碧の世界の話を聞く。カイルラスの話が終わったところで、セレイアは、はああ、と感嘆したような息を吐いた。
「真っ青で影一つない世界。深海と比べてどっちが静かかしら」
「どうだろうな。そもそも種族によって、拾う音の帯域が異なる。海底でお前が歌ったとて、俺の耳がそれを捉えることはないだろう」
「そうかしら? 今度、宮殿から目一杯歌ってみるっていうのは、どう?」
少し挑発的に笑うセレイアに、やめておけ、とカイルラスが答える。
「それでなくとも、宮中では変わり者扱いを受けているのだろう。件の妹に心労を掛けたくないのでは無かったのか?」
「ええ、だから残念だけど、やめておくわ。今からここで歌ってもいい?」
カイルラスは答えず、乾いた岩場に腰掛けた。
それを肯定の意だと判断し、セレイアが瞼を下ろして、そっと歌声を吐き出す。
夜風に静かな音色が流れる。魔力を込めることもなく、高く透き通った声がただ穏やかな音階を奏でた。
ふと、視線を感じてセレイアが目を開ける。月明かりを背にしたカイルラスが、無言でじっとこちらを見つめていた。
その表情はいつもと変わらず、歌を好ましく思っているのかどうかは分からない。しかし、止められないということは、少なくとも嫌がられてはいないのだろう。セレイアはそう判断し、旋律を流しながら僅かに目を細めた。
しばらくそのまま続けていると、カリカリという固い音が耳に届いた。指先をくすぐる感触にセレイアは視線を落とす。岩についた片手の先で、巻貝がじっとこちらを見つめていた。
セレイアが口元に人差し指を立てると、巻貝は呆れたような顔で海へと転がり落ちていった。