ep.7 空に還る魂 (2)
カイルラスに剣を渡した翌日、セレイアは海域の視察に出ると言って宮殿を抜け出した。
早朝や夜中と違って明るい海中では多くの人魚や魚たちとすれ違う。
彼らに挨拶や歌を返しつつ、セレイアの尾ひれは迷わず入り江の方角へと水を蹴った。
やがて水深は随分と浅くなり、きらきらとした海面の向こうに見知った色を見つけて、セレイアは海底付近からゆっくりと浮かび上がった。
「カイルラス……?」
海中からそっと呼びかけてみると、その微かな音を拾ったらしい男の人影が近づいて来る。
顔を出しても大丈夫だという意図を動きから感じ取り、セレイアは真昼時の入り江に顔を出した。
「意外と慎重なことだな」
そう言ってカイルラスが薄く笑う。
珍しい表情にセレイアは数度瞬きしてから、少しだけ不服そうに頬を膨らませた。
「だってこの間、人間の子供たちを見かけたところだもの。人間に仕える身であるというのなら、わたしと一緒にいるところを見られたら、あなたはきっと困るでしょう?」
じっと見上げてくるセレイアに、カイルラスは微かに驚いたような顔をしてから、ふっと小さな笑い声を漏らした。
「お前は……確かに、リュアの姫君なのだな」
「? 最初からそう言っているじゃない。ああでも、証明するものがないものね。疑われてもしょうがないわ」
「そのような意図ではない。いや、この話は後だ。ついて来られるか?」
ばさりと羽を鳴らして、カイルラスの身体が上昇する。
その動作と問いの意図を理解して、セレイアはくすりと笑った。
「わたし、泳ぎは得意なの。道案内は任せるわ」
その返答を聞いて、カイルラスはセレイアに背を向ける。鳶色の翼が一度大きく羽ばたくと、男の身体が空を滑るように風を切って進んでいく。
とぷん、とセレイアは海中に沈み、海面の向こうに浮かぶ影を追って泳いだ。
入り江から随分と行ったところの崖で、カイルラスはぴたりと止まった。
少しも離れず彼について行っていたセレイアも、同様にその場に静止すると、きょろと周囲を見渡す。
「ここに、見せたいものがあるの?」
「ああ。しばらく、あの空を見上げていろ」
セレイアは頷き、カイルラスの指差した先をじっと見つめる。
切り立った崖からせり出すようにして、大樹が生えている。上空では相当風が強いのだろうか。葉の擦れるざわめきが泣き声のように聞こえた。
ふと、空に人影のようなものが現れた。大樹から飛び立ったように見える彼らは、いずれも翼を背負っている。海上からは遠過ぎてはっきりとは分からないが、数人が連なって飛んでおり、さらに端の者たちが中央の人影を支えているようにも見えた。まるで海中を泳ぐかのように、上昇し、旋回し、彼らは青空を自由に飛び回る。
セレイアは無言のまま、食い入るように影たちを見つめる。その美しい光景は、儀式か何かのようだと思った。華やかさや煌びやかさを大切にするリュアのものとはまた異なる、荘厳で静かな儀式。瞬きも忘れて見入るセレイアの視線の先で、連なっていた影が次第にばらばらに離れていく。最後まで繋がっていた二人が離れた時、片方の翼人が力を失ったように、空から落ちてきた。
「あっ……消えた……?」
思わず驚きの声を上げたセレイアが見守る中で、確かに落下してはずの身体は消え去っていた。
セレイアがカイルラスを振り返る。彼は無言で空を指差し、手のひらを上にして拳を開いた。
青空からひらりと舞い落ちてきた一枚の羽が、海へと落ちる前に、カイルラスがそっと受け止める。静かに差し出された大きな手のひらを、セレイアが覗き込む。彼の手の上で、黄褐色の羽は霧のように消えた。
「これが、空に還るということだ。短命な我らは、空に生まれ、空に生きる。その瞬間まで誇りを手放さなかった者だけが、友の手を借り受け、空に死ぬことを許される」
カイルラスが言い終わってから、セレイアは止まっていた息を吐き出した。
つまりはヴァレアの葬儀を見せられたのだと理解する。空へ送られた者がどのような翼人であったのか、どうして彼の身体が消えたのか、人魚族が海に溶けるのと同義であるのか、それでは海に飲まれたという件の剣の持ち主はどうなったのか。
幾つも浮かんだ疑問を置いて、セレイアは空を見上げるカイルラスの横顔を見た。
「どうしてわたしに、これを見せてくれようと思ったの?」
「お前が、本心からヴァレアを理解しようとしていると、そう思ったからだ」
カイルラスが振り返る。夜の入り江の逢瀬とは違い、明るい太陽の下で、男の青緑の瞳は澄み切っているように見えた。
「始めこそ、酔狂か何かだろうと思った。古来より続く種族間の争い、それを根絶させるなどと宣う者は、古今東西ほら吹きか夢想家かのどちらかだ。過去にそう言って野心を偽り、ヴァレアに危害を加えんとした者は後を絶たぬと聞く。一族の長として、お前を見極める必要があった」
「そう言ってもらえるっていうことは、わたし、少しは信用してもらえたのね」
「……俺の知人に、同じような理想を謳う者がいる。お前のその掴みどころのなさは、どこかあの男に似ている」
「あなたがそんな優しい顔をするのだから、大切なヒトなのね。あなたの翼を預けられる友達なの?」
「知人だ。……友というには、看過できぬところが多過ぎる」
そう言って眉を寄せたカイルラスの眼光は、やはり先程のまま柔らかい。
セレイアは嬉しそうにくすくすと笑った。
「いつか、会ってみたいわ。あなたが大事にしているそのヒトに。それからわたし、やっぱりあなたのお友達になりたいと思うわ」
どうしたらいいと思う? とセレイアが首を傾げる。
カイルラスは小さなため息を吐いた。
「種族の長であれば、一族の未来を、つまりは己が身を顧みた方が良いのではないか? 民を導く身でありながら、そう安々と危険に首を差し入れることは望ましくないと俺は考えるが」
実に苦々しげな忠言が、先程の知人に会わせろという要望を指していることは明らかであり、セレイアは心外だ、と肩を竦めた。
「それに、あなただって、危ないことに踏み込んでしまう性格でしょう? 最初にわたしを助けたこともだけれど、こうしてお話ししていて気付いたの。あなた、リュアの文化や伝承を聞いている時、表情は変わらないけれどすごく楽しそうだわ」
カイルラスは眉を顰めたが、反論したり立ち去ったりすることはしなかった。
セレイアはまたくすくすと笑い、きっと近いうちに友達だと言わせてみせる、と海中で胸を張った。
崖下の海を、風が吹き抜ける。
頭上から少し傾き始めた太陽を見上げながら、カイルラスが呟くように問いを投げかけた。
「最後に一つ聞きたい。お前は、何故に種族間の和平を望む?」
「それは、その方がずっと素敵だから。だって、争いたくて争っているヒトなんて、いないはずだもの」
カイルラスの疑わしげな視線に、本当にそう思っているのだとセレイアが苦笑する。
ちゃぷん、と音を立てて白い腕が海中に沈められる。指先でそっと尾ひれの鱗を撫でると、セレイアは少し遠い目をした。
「それに……何だか、そうしないといけない気がしたの。わたしだけじゃなくて、妹も……」
そう言いかけて、セレイアが悩んだように眉を寄せる。
記憶にある限り、メルヴィナがそのようなことを望んだことは一度もない。しかし、確かに種族を超えた和平を謳っていたような、そんな幻想がたまに脳裏に浮かんだ。
セレイアが黙って目を閉じ、波間のように揺らめく思い出を探る。
――皆が手を取り合えたら、この世界はもっと素敵になると思わない?
ねえ姉さん、と愛らしい声が耳奥に聞こえたような気がした。だが、それがいつの会話だか思い出せなかった。
「……セレイア?」
いつになく心配を滲ませたような声に、セレイアは目を開き、ごめんなさい、と苦笑いを浮かべた。
「答えは、ちゃんと考えたいわ。だから、宿題にさせてもらえる?」
そう問うセレイアに、カイルラスはほんの僅かに目を細めて頷いた。