ep.4 愛と憎悪の種族
海底宮殿の透明な大屋根を、美しく揃えられた歌声が震わせる。
広いホールを見下ろす珊瑚の椅子に腰掛け、セレイアは集まった民たちに笑顔で手を振り返した。
数十年に一度行われるこの歌の儀式は、遥か古代の神話の時代、リュアの民が海を統べるようになった頃から続いているといわれている。
それは荒ぶる海を沈めるためであったり、攻め入る他種族から自国の民を守るためであったり、ここ百年ほどは単なる催しとしての側面も強い。
「セレイア」
隣の珊瑚に深く腰掛けた父に、そう優しく促され、セレイアは頷いて椅子から身を離す。
海中でくるりと身を翻して、人魚族の王である父に深く一礼してから、ホールの方を振り向いた。
軽く息を吸い、セレイアの唇から音色が奏でられる。国を挙げた催しに相応しい、荘厳で美しい調べ。民たちが静かになり、肩越しにちらりと伺った父が満足していることを確認してから、セレイアはそっとまぶたを下ろした。
儀式のために定められた音階をなぞりながら、セレイアは数日前のことを思い出していた。
あの日、禁じられた入り江で翼人族に血を与えた帰り道に、セレイアはメルヴィナに見つかり、愚行を叱りつけられていた。
「ば……馬鹿じゃないの⁈ 翼人族は人間の手先よ⁈ なんでそんなこと……ちょっと来て!」
入り江での出来事をかいつまんで説明したセレイアに、メルヴィナは一瞬で顔色を変え、他の人魚に見つからない物陰へと姉を連れ込んだ。
いまだに血の滲み続ける手のひらを両手で包み込み、メルヴィナが治療を始める。人魚族は皆例外なく魔力を持つが、特に他者の治癒に関しては、誰もが行える基本技能といってもよい。
セレイアの傷は瞬く間に塞がり、薄い傷跡を残すのみとなった。痛みのないことを確認してから、メルヴィナがもう何度目かになるため息を吐く。
「姉さんは治癒が苦手なんだから、お願いだから危ないことしないでよ。このことがお父様の耳に入ったら、どうなることか……」
「うん、ありがとう。ごめんね、ルヴィちゃん。でも、放っておけなかったの。あの人、酷い怪我してたのに、それでもわたしを助けてくれたの」
「もう分かったから。姉さんが世間知らずなのは、今に始まったことじゃないから。やっぱり、一人で行かせるんじゃなかった。次から、入り江の視察も一緒に行くから。人間が禁を破って立ち入っていたっていう話も気になるわ」
「ご、ごめんなさい……」
妹の苦言にセレイアが深く肩を落とす。その背の向こうに現れた人影に、メルヴィナが小さく息を飲んだ。
「セレイア? このようなところで、何をしておる」
「お、お父様⁈ どうしてこんなところに……」
慌てて振り向き、セレイアが両手を突き出した。きっと無意識であろう行動に、メルヴィナが二人に気が付かれないように嘆息する。
「セレイア、その傷はどうした? 翡翠貝の傷だな?」
「あっ、えっと、これは……」
「西の海草郡でまた翡翠貝が増えているのを、姉様とあたしで見つけました。申し訳ありません、国王様。状況を確認していたところ、誤って姉様が手をついてしまって……」
しどろもどろになるセレイアを庇うように、メルヴィナが淡々とそう報告する。
父、アルヴェニル王は頷き、セレイアに近くへと来るように呼び寄せた。
セレイアが王のもとへと泳ぎ寄る。その白い手のひらを取ると、アルヴェニルは労るように、薄い傷跡を何度も指先でなぞった。
「そうか、すぐに城の者を向かわせよう。セレイア、もう痛みはないか?」
「は、はい、お父様。ルヴィ……メルヴィナちゃんが、すごく綺麗に治してくれたので……」
「そうか。宮中に治癒に長けた者が多いからといって、お前は怪我にはよくよく気をつけるのだぞ。全く、可愛い娘の肌に傷を残すとは……誠に忌々しい貝よ。今に根絶やしにしてくれるわ」
アルヴェニルが低い声で言い放った。セレイアはちらとその顔を見上げる。先程まで深い心配を滲ませていた父の顔には、今は強い憤怒だけがあった。
そこから視線を逸らすように斜め下を向くと、セレイアは自らの失態をもう一度小声で詫びた。
大ホール中に、透き通った高い声が響き渡る。
珊瑚の椅子の脇に立ったメルヴィナは、横目で父の顔を伺った。人魚の王は、実に満足げに目を細め、美しい声で歌う愛娘のことだけを見ている。
メルヴィナは周りに気づかれぬよう安堵の息を吐いた。姉がこの儀式をしくじりでもすれば、機嫌を損ねた父によって、また周囲の海域が荒れるところだった。
(ま、姉さんに限って〝歌〟を失敗するだなんて、あるはずがないけれど)
そう結論付けて、メルヴィナは再び姉へと視線を戻す。ホール中の視線を一身に集めるセレイアは、そのようなことを気にした様子もなく、目を閉じたまま歌い続けている。
セレイアの歌は、他の人魚たちとは、それこそ格が違う。メルヴィナはぼんやりとそんなことを考えた。
聴く者を圧倒する甘美な歌声は、しかしどこかほんの少しだけ不安定で、そしていつも寂しげにメルヴィナには感じられた。
「――この度の儀式も、大洋を統べるリュアの名に恥じぬものであった。特に、セレイア。お前の歌声は人魚族随一だ。王として、そして父として、お前を誇りに思う。無限の大海のようなお前のその魔力があれば、リュアの民はこの先も永劫、繁栄が約束されるだろう」
儀式を終え、アルヴェニル王が民の前でそう語る。
途中で名指しされたセレイアは、向けられた無数の視線に少し恥ずかしそうに礼を述べた。
王は続けてリュアの歴史や、海を統べることの意義、それらを守るために外敵と戦う力が必要であることを声高に語っている。
セレイアはさりげなく下がり、後方に控えているメルヴィナのそばへとぴたりと付いた。
「儀式は素敵だけれど……お父様の演説、毎回苦手だわ。見て、皆目の色が変わったみたいに、他種族への敵意に囚われている。折角さっきまで楽しく歌っていたのに……」
「……姉さん。文句ならせめて後にして。誰かの耳に入りでもしたら、今度こそ折檻じゃ済まないわよ」
「それは……うん、ごめんなさい。危うくルヴィちゃんまで危険に晒すところだったわ」
「あたしのことはいいの。いくらでも上手く言い逃れが出来るんだから。姉さんはもう少し、その場限りの嘘、っていうのを学んだほうがいいわ」
この間も馬鹿正直に外出を白状して謹慎を言い渡されたところでしょう、とメルヴィナが呆れたような小声で囁いた。
セレイアが小さく肩を落とす。頑張る、と妹に囁くと、頑張っている間は無理だ、といった旨の返答があった。
メルヴィナが肘で軽く姉を突く。二人の視線の先では、アルヴェニル王の演説が一旦終わりとなったようだった。民に背を向けようとしたところで、王は思い出したようにホールを振り返る。
「加えて、先日西の珊瑚棚において、領海を侵す不届者の船があったことは既に聞いているだろう。その人間族についてだが、我が国の聡明なる兵たちが素性を突き止めた。皆の者、安心せよ。あの狼藉者らは、船の残骸と共に、既に深海の奥底だ。儂の力をもってして、沈められぬものはない」
どん、と手にした杖の先が宮殿の床を突く。王の宣言を受け、民たちは一瞬静かになると、俄かに歓喜の声を上げた。
「さすがはアルヴェニル王! 我らの長よ!」
「次は港町ごと波にさらってやれば良いのです!」
「王とセレイア姫の魔力をもってすれば、彼奴らの都を沈めることも夢ではあるまいて!」
口々に喜びと賛美を述べる民たちに、アルヴェニルは手を挙げて応える。
やがて、王と姫を讃える歌が民の間から聞こえ始めた。アルヴェニルは頷き、セレイアを振り返る。
笑顔で手招きをする父の意図を察し、セレイアはぎこちなく頷いた。
「姉さん、この場は耐えて」
メルヴィナがセレイアの耳元で囁く。妹の気遣いに礼を言うと、セレイアは父の隣へと泳ぎ寄り、賛美を歌う民たちへと笑顔で手を振った。