ep.24 渦心 (2)
ついに大渦の原点へと辿り着く。
美しい宮殿のあったはずのそこには既に何も無く、露出した海底の中心で一人の女が蹲っていた。
「セレイア――」
「――!」
掛けられた声にセレイアが弾かれたように顔を上げる。両手で自らの口を押さえ込み、しかしその指の隙間から、頭が痛くなるような声量の音が漏れ出していた。
カイルラスがほんの一瞬だけセレイアの目を捉える。視線が合ったその瞬間に、彼女を取り囲むようにまた渦が湧き、視界は一面の泡と波に覆われた。
熱い。カイルラスは顔を顰めた。まるで近付きすぎた太陽に灼かれるような、身を流れる血が沸騰するような感覚。激しい水流によって毟り取られた羽根がそのまま渦に飲まれる。視界を掠めた鳶色の先端が焦げていたような気がして、カイルラスはふっと熱い息を漏らした。
ここにきてようやく、海の民というものを身をもって理解した。脆く美しく、余りにも共感性の高過ぎる種族。血を分け与えられ、大鱗を飲んだためであろうか。そこに言葉などなくとも海の王の感情が手に取るように分かった。
「セレイア、お前を助けにきた」
発した声は海の悲鳴に掻き消される。波に抗い身を進めると、何かが頬を切り裂いた。
両手で嵐をかき分けながら前へ。中心に近づく程に奔流は激しくなる。今にも押し流されそうになる身体を、翼を駆使してなんとか留める。幼き頃に竜巻に飲まれた時もここまでではなかったと、カイルラスの口から笑い声が漏れた。
「セレイア、俺は嵐の空へ出ることが好きだった。父には無謀を幾度も咎められたが、あの猛り怒れる空が、その前には寿命の差異など吹いて飛ぶような途方も無い強大さに、俺は憧れ惹かれた」
全身に傷を負いながらカイルラスが告げる。
大渦の中に混じった泡の音に、彼は観念したように苦笑した。
「ああ、そうだ。お前に長としての自覚を持てと、それは俺自身に向けた言葉だった」
幻滅したか、と波に向かって問う。翼を撫でた水の感触に、彼は安心したように笑った。
飛沫の向こうに、ついに人魚の姿を捉えた。両腕で自らの身体を抱き締め、唇を切れるほどに噛み締めながら、薄紫の瞳がこちらを見据えている。強い眼光。轟々と唸る海中で、カイルラスは頷いた。
「セレイア、俺はお前の大切なものを奪う。だがその代わりに、お前の誇りと矜持は守り抜く。美しいばかりではない。冷たい死の海、身を裂く嵐の空、全てお前と共にこの目に映したい」
こくり、とセレイアが頷いた。
まるで幼子を招き入れるように、白い両腕が開かれる。
破裂する轟音。美しい旋律が男の鼓膜を割った。急に静寂となった世界で、それでも背中の羽根が引きちぎれる音を聞いた。
小さくなった翼を羽ばたかせ、カイルラスが海中に浮かび上がる。怒れる海流が全身を襲う。千切れた衣服の破片と共に、剣が彼方へと押し流された。
優しさなど感じさせない母なる海。うねる大波を蹴って大きな体躯が滑空する。
魔を帯びた強靭な鉤爪が渦を切り裂き進み、そしてそのまま、透き通る白い肌をぶつりと突き破った。
「――、――」
ぴたり、と歌声が止む。最後に吐き出された泡には、短い言葉が混じった気配があった。
爪を引き抜かれた喉から霧のような鮮血を溢れさせ、セレイアは慈愛の籠った眼差しで、鳶色の頭を包み込むように抱き締めた。