ep.24 渦心 (1)
カイルラスがそこへと辿り着いた時、それは既に渦というよりは虚無だった。
厚い雨雲に覆われ、月明かりもない暗い夜空。それ以上に真っ黒な海は、ただぽっかりと大きな口を開けている。
渦巻く魔力。微かに耳に届く、悲鳴のような歌声。底も見えない大渦に向けて、カイルラスは躊躇うことなく飛び込んだ。
◇
翼が重い。呼吸が阻害される。水面を割った感触は無かったが、いつの間にか身体は海中にあるようだった。
透明とはまるで言い難い視界には、渦巻く泡の他に、貝や珊瑚の破片、海底の石や砂、恐らくは船の残骸などが巻き込まれている。
身体にまとわりつくような水流を裂きながら、カイルラスが何とか海底を目指す。のしかかる海は一層重く、翼が軋むような感覚があった。
「ぐっ……!」
吹き飛んできた木材の破片に背を打たれ、カイルラスの口からごぽりと空気が漏れ出る。息が苦しい。一度上がろうにも、大渦の水流は全てを海底へと引き込んでいる。
顔を顰めたカイルラスは、ふと胸元に熱を感じた。流れに連れて行かれないよう、慎重にそれを取り出す。美しい鱗は、海中を照らさんばかりの光を放っていた。
鱗が何かを訴える。ああ、とカイルラスは頷いた。深い海中から一度だけ空の方角を見上げると、すぐに海底へと向き直り、そして手にした鱗をごくりと飲み込んだ。
寒さが消えた。先程まで身を切るような冷たさだった海水が、今は沸き立つような熱さを感じた。同時に耳をつんざきそうな程の叫びが聞こえる。悲しい、恐ろしい、苦しい、憎い、愛おしい――
「セレイア」
海中でカイルラスはそう言葉を発した。ざわりと海が歓喜に震え、まるで手を引かれるように海底に向かって身体が引き込まれる。
それに抗うことなく、軽くなった翼で身体を推進させて、カイルラスはまるで滑空するように大渦の震源を目指した。
より深い海へと潜っていく。大渦による水流は上層に比べてむしろ穏やかになっている。
遠く、ぼんやりとした灯りが見えた。あれが夜光草かとカイルラスは思った。萎れた草を手にして、海中だとそれは美しいのだと、そう言った時の彼女の表情を思い出す。
突如、暗い海中から鈍色の刃が突き出された。
「翼人が何故海に……! 人間どもの差金か!」
「セレイア様には近付けさせぬ!」
尾ひれを有した男たちが、そう口々に言ってカイルラスへと斬りかかる。
振り切られる刃を躱してカイルラスは相手の姿を見た。鍛えられた上体、手にした剣。セレイアから以前に聞いたことがある、宮殿に住まう者のみが許された美しい衣装。逆立つ髪と血走った目は、はっきりとした怒りを滲ませている。
「王家の衛兵か。今ここで刃を交える意味はない。手遅れとなる前にそこを退け」
「貴様、言葉を……⁈ 大鱗の加護か! まさか捕らえたメルヴィナ様の……人間はそのような手まで使って……!」
「セレイア様に伝令を! もはや猶予はない! 夜明けを待たず攻め入るべきだ!」
衛兵たちの間に狂気が伝播する。沸々と沸き立つ海を、カイルラスの剣が切り裂いた。
「……お前たちには聞こえないのか。あの娘の声が」
カイルラスが呟く。水流に掻き消されそうな低い声を、衛兵のうちの何人かが辛うじて拾った。
振り返った兵に向けて、カイルラスが剣先を突きつける。生涯を共にした刀身は、海の底にあってもいつもの輝きを失わない。
騎士の誇り、その一部分は剣に宿る。
かつて海底に取り残されたそれを、友の魂が眠る剣を、頼みもしないのに捜索し空へと届けたあの娘の、誇らしげな笑顔を思い出した。
「種族への慈しみよりも、他種族への憎悪を優先するというのであれば、それはあの娘が愛したリュアではない!」
「何を……貴様に、アルヴェニル王を狂わせ、メルヴィナ様を拐かし、セレイア様を苦しめる貴様らに、我らの何が分かる‼︎」
金切り声で一帯の海域を震わせて、弾かれたように衛兵たちが向かって来る。
何度振り払おうとも繰り返し襲い来る彼らには、もはや言葉の類はなかった。声にならない音だけを叫びながら、瞳孔の細くなった海の民たちは、目の前の異物を滅するためだけに剣を振るう。
狂っている。カイルラスはそう思った。痛みや死への恐れなど微塵も浮かべず、過去の怨嗟と海の怒りに飲まれ切った彼らは、たとえ泡となろうとも己の行く手を阻もうとするだろう。
仕方がないと舌打ちして、剣を構え直す。海ごと兵を両断しようとしたその時、突如として視界が白い泡に覆われた。
「羽の兄ちゃん、こっち!」
一面の泡飛沫の中で、そのような高い声がしたかと思うと、カイルラスの目の前には小さな手が差し出されていた。一瞬悩んでからそれを取る。柔らかな感触。子供の手だろうか。しかし、それとは思えない力と速度で身体が引っ張られる。
泡の煙幕を抜け、衛兵たちから随分と距離を取ったところで、人魚の子供はカイルラスの手を離した。いつの間にか、彼らに並走するような形で複数の人魚が周囲を泳いでいる。いずれも小柄な身体だった。
宮殿の方角へと泳ぐひれを止めないまま、子供の一人がカイルラスを振り返る。大きな瞳がまじまじと全身を見て、最後にもう一度背中の翼を凝視してから、はあぁ、と子供は感嘆の息を吐いた。
「すげぇ、ほんとに翼人だ。海の中なのに飛んでる。すっげぇ」
「馬鹿言ってないで、やるわよ。喉の調子は?」
「えっと、わたしたちが、セレイア様への道を作るから。流れに乗ったら、衛兵よりずっと早く辿り着けると思うから」
そう口々に子供たちが告げる。
何故己を、カイルラスがそう問うと、セレイアがきっとそれを望んでいる、といった返答があった。
「だってセレイア姫様、隠すの下手だから。陸や空と仲良くしたいって言うなら、こそこそ遊びに行ってないで、大人たちにもはっきりそう言ったらいいのに」
「しかもその魔力、兄ちゃん、セレイア姉の大鱗を貰っただろ。まさか結婚すんの?」
「馬鹿。翼人が海と結ばれるわけないでしょ」
「でもわたしの伯父さん、陸の人間と結婚してたよ。この前こっそり会いに行ったもの」
ママには内緒ね、そう最後の子供が言葉を締めて、彼らはひと所に集まってくるりとカイルラスを振り返った。
海流で送ると言う子供たちに向けて、カイルラスは手にしたままだった剣を納め、一言だけ問う。
「お前たちは、海の外と手を取り合いたいと思うか」
「分かんない。だってまだ何も知らないもん」
「あ、でも俺、一回空を飛んでみたい。羽の兄ちゃん、もし生きて帰ったら案内してくれよ」
少年の要望にカイルラスは一瞬押し黙ると、口角を上げて頷いた。
「承知した。俺は恩義を忘れない。この翼が届く限りの紺碧へ、貴殿らを導くと誓おう」
「堅っ苦しい兄ちゃん。まあいいや。約束な」
すう、と息を吸い込み、子供たちの喉から声が発される。
少年少女らの奏でる歌声は、透明で瑞々しく、どこか辿々しく、しかし大海に響き渡る王の歌声に掻き消されることなくふわりと広がった。
彼らの中心を起点としてやがて水流が生まれる。それはカイルラスのもとへと届くと、男の身体を宮殿の方角へと押し流した。
「セレイア姉のこと、よろしくな――!」
既に遠くなった背後から、そんな幼い声がカイルラスの背を押した。