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ep.23 海の呼び声

 いつも静かなはずの夜空は、今夜はまるで泣いているようだった。


 悲鳴のような強風を裂きながら、カイルラスの身体が空を舞う。

 海水に濡れた身体はすっかり乾き切っていたが、空を覆う厚い雲からは、今にも雨が降り出しそうだ。


「ノアリス……まだか……」


 カイルラスが舌打ちする。皇帝の姿は城内の何処にもなく、ついには彼が海によって害されたのだという話まで持ち上がっていた。


 高まる戦への機運、擦れる鎧の音と火薬の匂い。それを振り切るように再び大空へと飛び出したカイルラスは、遠く海に大穴を見た。

 まるでそこで世界が途切れてしまったかのように、海面にぽかりと空いた穴。よく目を凝らして、それが海底へと引き込む大渦なのだとようやく判別できた。


 カイルラスは直感する。あれは、アルヴェニルによるものではない。


 胸元にしまった鱗から悲痛な声が聞こえたような気がして、カイルラスは一層速く夜の空を滑り降りた。


 ◇

 

 断崖へと迫り出した大樹は、ヴァレアにとっての聖地だった。

 まるで葬儀の時のような面持ちで、翼の民たちは長の言葉を待つ。


「俺は、あの大渦へ行く」


 前置きも何もない宣言に、己らは、という更に端的な返答があった。

 カイルラスは首を横に振り、一人でいいという旨を付け加える。


「お前たちは引き続き領海線の警戒に当たれ。先走った人間が海に呑まれぬよう、必要があれば牽制を」


「皇帝は」


「まだ戻らぬが、あれは必ず要件を果たす。故に俺は、開戦までの時間を稼ぐ」


「戦となった場合には」


「我らが仕えるは帝国ではなく皇帝ノアリスだ。故に陸の命令を受ける必要は無い。己が矜持に従え」


 そのような短いやり取りだけで、戦士たちは皆静かに頷き、暗い空へと飛び立っていった。


 彼らを見送り、カイルラスが振り返る。あと一人だけ翼人族の男が残っていた。

 カイルラスとよく似た鳶色の翼、羽の光沢は鈍く、所々に傷や乱れがある。顔に小さな皺を刻んだ男が、やれやれとため息を吐いた。


「俺の生きている間に大戦とはなあ。つくづく陸と海は相入れない」


「少しでも歩み寄るその未来のため、血と煙に覆われぬ空のために、我らはノアリスと手を組んだ」


「お前の親友殿か。つくづくお前は変わり者だよ、カイルラス。空だけをその瞳に映し、気高き魂のまま紺碧に還られた兄殿とは大違いだ」


 喉を鳴らして男が笑う。腰に吊るした年季の入った剣がかたかたと揺れた。


 カイルラスが静かに振り返る。視線の先で海の大穴はより一層大きくなっていた。


「不在の間、一族を頼みたい」


「断る、と言いたいところだが、可愛い甥子の頼みだ。ただし俺の寿命までには帰って来いよ。唯一の友たるお前を失えば、はみ出し者の俺は空へと還り損ねる」


 首だけを回してカイルラスが男の顔を見る。そこに浮かんだ懐疑に、からからと男は笑った。


「これでも空の民だ。放浪癖を兄殿に謗られ、甥子に長の重圧を押し付けようとも、風と自由にあることが俺の誇りだ。お前に悪影響を与えたらしいことだけは詫びねばならんだろうがな」


「俺の矜持は変わってはいない。俺はこの空とそこに住まう者、そしてそれを守らんとする者のために、剣を振るう」


 ばさりと翼を広げて、カイルラスが大樹を飛び立つ。背後から追う影にほんの少しだけ速度を緩めると、年老いた翼がカイルラスの翼を掠めた。


「風の加護があらんことを」


 古い呪いの言葉を背に受けて、カイルラスの身体が滑空する。


 真っ直ぐに大海を目指す途中で微かな声のようなものが耳に届いた。空中で胸元から鱗を取り出す。再び淡く光るそれは、何かを訴えているようだった。


 数秒だけ逡巡して、カイルラスは進行方向を変える。新たな目的地に向けて、翼は迷いなく夜風を切った。


 ◇


 美しい入り江は、普段の面影を少しも残してはいなかった。

 白い砂浜は波にさらわれ、露出した岩場には船の残骸らしきものが漂っている。


 空中からカイルラスは荒れ切った海を睨むように見た。押し寄せる波の高さは既に人間の背丈に近く、それでいて海水が浜を越して森へと入り込むことはなく不自然に引いていく。


 すんでのところで耐えている。そのような印象を抱く、怒りと悲しみを内包した海だった。


「これを見せたかったのか?」


 カイルラスが鱗へと囁く。返答はなく、彼の手の中で透明な鱗は淡い光を揺らした。


 ふと視線を感じた。腰の剣へと手をやりながら振り返ると、いつの間にか海上に人影が浮かんでいる。


「何者だ」


「セレイア様は、堪えておられます」


 問いには答えず、年老いた人魚の男はそう静かに告げた。


 数秒考えてから、カイルラスが剣から手を離す。これまでに何度か耳にしていた、アルヴェニルに長年侍っているという男だろうと思った。


 話の先を促すと、老人魚は頷き、そして海の状況を語り始めた。



「アルヴェニル様は、お亡くなりになりました。自害されたのです。……セレイア様の手によって」


 開口一番の告白に、カイルラスが目を見開く。


 陸を嫌った短気な海の王、しかし娘であるセレイアのことは確かに愛していたのだと、これまでの交流からそう理解していた。


 それが何故、そんなことに。そう問うと、愛しているが故だと老人魚は答えた。


「前王は……アルヴェニル様は、余りにも王家の血に囚われ過ぎました。リディア王妃様を愛し、片時も離れることを許さず、王妃が目に映しただけの兵を泡へと変えた。リディア様はそれを嫌い、海の外の陸へと可能性を探し、そして裏切られたアルヴェニル様は嫉妬と憎悪に狂ってしまわれた。百年以上も前のことです」


「王が狂えば、海はどうなる」


「無論、乱れます」


 海獣の凶暴化や、人魚を害する翡翠の貝、海流の変化。王位継承より前から続く海の不安定はそれが原因だろうと、老人魚は淡々とした声で続ける。


 それでも尚、アルヴェニルが王位を退かなかったのは、セレイアが記憶を失ったためか。そうカイルラスが問うと、老人魚はまた頷いた。


「しかし、セレイア様は力を取り戻されました。アルヴェニル様の下で大海のために奔走され、しかし御心は常に海の外にあった。アルヴェニル様は恐ろしかったのです。リディア様、レティシア様に続き、愛する者に三度裏切られることが」


 カイルラスは目を閉じる。頭にはメルヴィナを失った時のセレイアの様子が思い浮かんでいた。直情的で排他的。強大な力を持ちながら、あまりにも臆病で脆い。


 リュアは感情に生き、執着によって海を守る。愛情深く、そして過去をけして手放さない。既に充分過ぎる程に理解していた。その上で、カイルラスは再び老人魚の目を見据えた。


「セレイアは、あの大渦だな」


「どうなさるおつもりで」


「俺が止める」


 少しも迷わずにそう答える。それは不可能だという返答が返った。


「確かに貴殿はセレイア様の大鱗を持っておられる。しかし、貴殿には頑強な肌もひれもない」


 カイルラスが懐からセレイアの鱗を取り出した。淡く光る透明なそれを手のひらに乗せ、理解した、と薄く笑う。


「俺の前に姿を現したは、これを引き取るためか。加護を得て、あの娘のもとへと向かうつもりだったか」


「……私はリディア様を幼少のみぎりよりお世話しておりました。お任せ頂いたのです。あの血に愛された娘がいつの日か狂い果て、他者を害することになれば、その前に止めてやるようにと」


 ざぱりと、荒れた海が割れる。現れた岩の地面へと尾ひれで降り立ち、老人魚は大きく首を横に振った。


「セレイア様の力は既にアルヴェニル様を超えていらっしゃいます。あの大津波は大陸をも呑む。もはや争いになどなりません。彼らを護りたいのであれば、どうか鱗を」


「断る」


 カイルラスが鱗を握り込む。

 眉を寄せる老人魚に向かって静かに問うた。


「セレイアは暴走を耐えていると言ったな」


「それも時間の問題でございます」


 老人魚が背後を指し示す。暗い夜空と水面との境界が不自然にうねっている。


 泣き叫ぶような海の声の中で、それでも確かに振動がカイルラスの耳に届いた。聞き間違えようのない、この世で己だけが拾うことのできる、あの笛の音だった。


 ばさり、と翼がはためく。降り出した大粒の雨を艶やかな羽が弾き返した。


「俺が止める」


 カイルラスが繰り返す。

 今にも飛び立とうとする身体に、老人魚は、何故か、とだけ尋ねた。


 空中で男が振り返る。半分濁った緑の瞳が、海に佇む人魚を見下ろす。


「ヴァレアは、友の信頼をけして裏切らない」


 それだけを言い残し、そして鳶色の翼は雨風を裂いて大海の方角へと瞬く間に姿を消した。


 海上に残された一枚の羽が、波によって海中へと引き摺り込まれる。それを無言で見送って、老人魚はとぷんと水の中へと潜った。

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