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ep.22 海嘯の災禍

 暗い海底。細い手が牢の格子を握り、強く揺する。

 大きく息を吸ってあらん限りの声を張り上げたが、それらは全て真っ黒な貝に飲み込まれた。


 リュアの罪人を捕える黒石貝の牢は、魔力を放出させないよう、内にいる者の発する音を吸収する。歌声どころか、己の呼吸音すら聞こえない真っ暗な深海。冷たい静寂の中で、セレイアはぎゅっと胸元の貝殻の破片を握り締めた。


 ◇


 ぼんやりとした灯りが近付いてくる。セレイアが顔を上げると、想像通りそれは夜光草の光で、手にした父王は見張りの兵を下がらせた。


「――、――」


 発した声はやはり音にならない。それでもアルヴェニルは、娘の言いたいことを理解したようで、呆れたようなため息を吐いた。


「予定通り、明朝には全て海に沈める。よりにもよってリュア王家へと牙を剥いた罪、海溝の底で永劫後悔するがよいわ」


「――!」


「あの出来損ないがそれでも王族であると、そう宣ったのはお前であろう、セレイア。過去に殺め損ねた忌まわしきあれが、このような形で役に立つとは」


 セレイアの手が強く格子を叩く。そこに滲んだ少量の血に、アルヴェニルは馬鹿なことをするなとまたため息を吐き、隙間から娘の腕を掴んだ。


 ぐいと引き出された白い腕。父王がそっとなぞると、拳の傷はすっかり治っていた。セレイアの強い視線がアルヴェニルを射抜く。薄紫の瞳に浮かんだ怒りをはっきりと見据えながら、彼は口を開いた。


「お前の執着していたあの翼人は、儂がこの手で海へと沈めた」


 同時に差し出された笛を見て、大きな瞳がより一層見開かれる。一瞬の沈黙の後で、セレイアは首を横に振った。


「――」


 そのようなはずはないと、はっきりとした確信があった。あの気高い空の騎士が、紺碧に還らず深海に眠るなど、そのようなことはあり得ない。何故ならば、彼の矜持は失われてなどいないのだから。


 興奮に怒らせていたセレイアの全身から力が抜ける。どこか穏やかにすら見える娘の姿に、アルヴェニルは瞠目し、やがて深い息を吐き出した。ごぽり、と大きな気泡が浮かび、天井に当たる。


「やはり、レティシア、あの愚か者を殺してでも止めるべきであった」


 セレイアが呟きに反応するより早く、アルヴェニルはさらに続けた。折れそうなほどに強く握った細い腕からは、何かが軋むような音がする。


「百年前のお前は美しかった。純粋な怒りに鱗を染め上げ、この儂すらをも凌駕する魔力、甘美な歌声。お前こそが儂の宝であった。やはり奪わせるべきではなかったのだ」


 掠れたような声でそう言って、アルヴェニルは腕を離し、代わりにするりとセレイアの手を取った。

 白く柔らかな手を包み込むように握り、普段と同じように指腹が愛おしげに手の甲を撫でる。


「リディアを、お前の母親であったあの裏切り者を、人間共に喰らわせたのは儂だ、セレイア」


 セレイアが目を見開いた。掴まれた手を引こうとするがびくともせず、反対の手が抗議するように格子を何度も叩く。


 怪我をするからやめろ、と父王が少し困ったように告げる。まるで先程の告白が嘘だったかのように、いつもの威圧感などまるで感じさせない柔らかな声音だった。


 どうして、とセレイアが音にならない声で問う。それを察したアルヴェニルは、ゆっくりと首を横に振った。


「先に儂を裏切り、陸へと上がったは彼奴の方よ。すぐに連れ戻したかと思えば、薄汚い陸の血を胎へと宿し、呪われた娘は儂の可愛い愛娘たちをも誑かした。陸は儂からリディアを奪い、レティシアを奪い、挙句に唯一残されたお前すら再び奪おうとしている」


 その内容に反して、アルヴェニルの声には怒りや憎しみは滲まない。その代わりに、深い疲労や諦めのようなものを感じた。


 呆然とした様子のセレイアの顔をじっと真っ直ぐに見て、アルヴェニルは格子の隙間から流れ出た金の髪を優しく撫でる。


「お前にも理解できるはずだ、セレイア。リュアにとって血は何にも勝る。執着は感情を生み、それは即ち海を統べるための力となる。故に、リュアの王は愛情深く、そして、愛を失うことに耐えられない」


 ふっと、アルヴェニルが目を細める。確かな愛情がそこには浮かんでいた。


 包まれたままのセレイアの手に、何かが握らされた。ぴり、とした痛みが手のひらと指に走ったと、そう思った瞬間、アルヴェニルがセレイアの腕を強く引いた。


「――⁈」


 何が起こったのか、すぐには理解が出来なかった。


 無理矢理に動かされた手が、何かを裂いたような感触。目の前に広がっていく赤い霧。解放された手から、ころりと、翡翠色の貝が落ちた。


 アルヴェニルは、深く切り裂かれた喉から血と気泡を溢れさせながら、それでもこちらを見て優しげに微笑んでいた。


「ぁ……ぁ…………」


 セレイアの喉が震える。零れ落ちそうな瞳は、愛する父王の目を凝視した。


 やがて、長年海を統べてきた強い双眸が光を弱めていく。大海を巡ることのできる強靭なひれから、鱗が剥がれ落ちる。いつも自分を優しく撫でていた大きな手が、指先から泡へと変わっていく。


「あ……あああぁあぁあぁ――――‼︎」


 両手で頭を押さえてセレイアは叫んだ。黒い貝が飲み込みきれない音が、宮殿の壁を震わせる。


 轟々と逆巻く大波。自らの身体から流れ出る血が、それに飲まれていく様を眺めながら、アルヴェニルは満足げに笑った。


「お前に、とって……儂も、また……愛、する、血族で、あった……!」


 赤く濁った泡と共にそんな言葉を吐き出して、そして、海の王は泡となって大渦へと消えた。


 ついに耐えきれなくなった牢が砕ける。一瞬の静寂。次いで深海を揺るがす轟きが走る。


 解き放たれた魔力は奔流となり、海の怒りが海底宮殿を覆い尽くした。

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