ep. 19 泡に消える足跡 (2)
全身の血が沸騰するような感覚。それを何とか抑え込みながら、セレイアは大海中を泳ぐ。
声の届く範囲の兵や人魚、海の生物たちに指示を与えて妹の痕跡を探した。
翡翠貝の群生地を縫うように進み、全身の傷を治しながら深い海溝へと潜り込む。海面から幾度も顔を覗かせ、沈没した船の破片を持ち上げ、珊瑚礁や海草郡の合間を潜る。
報告のあった入り江の付近にも何度も行ってみたが、何やら普段よりも陸の兵の巡回が厳しく、浅瀬に上がって調べることはできなかった。
ぐるりと大海を巡り、息を切らせて戻って来たセレイアのもとへ、里の方から小さな人影が一生懸命泳いできた。
「セレイア姉! メルヴィナ様がいなくなったって……!」
里の子供の問いに、セレイアは何とか首を縦に振る。首元の宝飾品が邪魔だと、細い手がそれを引きちぎった。
海中に美しい貝殻が揺蕩う。それを見て、ハッとしたように子供の一人が手を挙げた。
「セレイア様! あたし、装飾の破片を見ました! もしかしたらメルヴィナ様の……白の入り江に行く途中の海です!」
「それは、いつ……?」
「何日か前……それ以来、メルヴィナ様のお姿を見てないから、本当にメルヴィナ様の貝なのか分からないけど……」
ごそごそと子供が身体を漁り、小さな手が突き出される。そこに乗せられた白い貝殻の破片には確かに見覚えがあった。
セレイアが受け取った貝を両手で握って胸に抱く。恐らくは前回入り江に向かわせた時、何かがあったのだと思った。報告の時点で妹の不調に気が付かなかった訳ではないのに、何故その時に問い詰めなかったのだと、きつく唇を噛む。
子供たちは互いに顔を見合わせてから、気まずそうに視線を彷徨わせる。姫の行方不明は既に里中に周知されたことであり、それで大人たちが噂話をしていることも知っていた。
恐る恐る、一人の子供が顔を上げる。
「セレイア姉……お、大人たちが、言ってた……メルヴィナ様は、その……人間に、捕まったんじゃ、って……それで、『ハハギミ』様と同じように……」
きっと鋭くセレイアが子供を睨む。視線を受けた子供は小さな悲鳴を上げて身を竦ませた。
怯える子供たちを見ると、セレイアはすぐに我に返り、ごめんなさい、と力無い声で謝罪した。
「でも、そんなことは無いわ。ノアリス……人間の王が、そんなことを許すはずがない。もう二度と、あんな、酷いこと……う、ぅ……」
メルヴィナの貝を抱き締めて、セレイアがついに嗚咽を漏らす。
脳裏には、あの時に見た母の亡骸が浮かんでいた。魔力に護られた頑強な身体が力任せに引き裂かれ、剥がされた鱗、無惨に千切れたひれ、抉られた肉と漂う死臭。そしてその周囲に醜く群がる、口元を赤く染めた人間たち。
また血が沸きかけた時、セレイアの手にそっと触れるものがあった。いつの間にか閉じていた瞼を持ち上げる。それは子供たちの小さな手だった。
「セレイア姫様、わたしたちも頑張ってメルヴィナ様を探すから、だから……」
そう告げる少女の声は震えている。
セレイアはハッと目を見開くと、ぶんぶんと強く首を横に振った。両腕を伸ばして、子供たちの身体を抱き締める。
「ごめんなさい、ありがとう、みんな。私、絶対にあの子を助けたいの。大事な妹なの。だから、お願い。力を貸して」
ぎゅっと腕の力を強めてセレイアが囁く。うん、と幾つかの返事が返った。
彼らを解放すると、セレイアはもう一度礼を言い、ひとまず宮殿へ戻ろうと振り返る。背後で子供たちの意気込む声がした。
「棚場の方は見たわよね、他にはどこが思いつく?」
「入り江とか海溝には近付いちゃダメだって言われてるし……あたし、いつもその辺りを泳いでる魚を捕まえてくる」
「俺はやっぱり陸が怪しいと思うけどな。でも上がったら怒られるし、やっぱり足じゃなくて、翼が生やせれば良かったのに」
それなら空から探してやれるという少年に、馬鹿なことを言ってないで真面目に考えろと少女が怒る。
セレイアは無言のまま、海底へと潜りかけていた身体をぐんと旋回させた。
◇
海面に顔を出す。すっかり日は登りきり、青い空には遠く影が弧を描いている。
セレイアは胸元に隠し持っていた笛を取り出すと、それを咥え、そっと息を吐き出した。
穴からは海水が出るばかりで、音がしたのかどうかは分からなかった。水を切らなければ駄目だろうかと、笛から一度口を離した時、風を切り裂いて大きな人影が舞い降りてきた。
「場所を変えたい。着いてこられるか」
ヴァレアの旋回する空を見上げたまま、カイルラスが低い声で告げる。
セレイアは頷き、宙を滑る彼について海面すれすれを泳いだ。
間も無く辿り着いたのは、大きく迫り出した崖の下だった。
波に抉られた陸地が洞穴のように頭上の空を覆い隠し、ひやりとした海風が流れる。
器用に身を滑り込ませたカイルラスが岩場の一つに降り立つ。セレイアはその足元で海中から顔を出した。
「カイルラス、聞いて。メルヴィナがいなくなったの」
「ああ。……聞いている」
カイルラスの返答に、どうして、とセレイアが問う。
ほんの一瞬躊躇った後で、カイルラスは一層声を潜めて答えた。
「既に帝国上層、その一部では知られているようだ。今朝ノアリスから話があった」
「それは……帝国が、人間が、あの子を捕らえたというの」
一句一句区切るようにしてセレイアがさらに問う。
洞穴の奥から響く波音が僅かに強くなる。カイルラスは静かに首を横に振った。
「まだ分からない。それをノアリスが調べている。我らにも、空からの捜索に当たるようにと」
「それなら、ノアリスの場所を教えて。海と情報を擦り合わせるわ」
間髪入れずにセレイアが告げる。カイルラスは再度首を振った。
「それはやめておけ」
「どうして!」
「お前は、この状況で人間を前にして、己が冷静でいられると思うか」
普段よりもゆっくりと、カイルラスが問う。
セレイアが目を見開く。わなわなと唇が震えた。
彼女からの返答があるより前に、カイルラスは先程よりも一層ゆっくりと、まるで子供にでも言い聞かせるように告げる。
「繰り返し伝えているように、帝国は一枚岩ではない。現に今、これを機に軍備を整えている勢力がある。つまり、今お前が感情のままに奴らの前に姿を現し、疑念に駆られて陸を害しでもすれば、ノアリスは和平への反対勢力を抑えきれなくなる」
「それが……なんだというの……」
ぽつりとセレイアが呟いた。笛を握った手と反対の手のひらを開く。貝殻の破片が食い込み、柔らかなそこは深い跡になっている。
「どうして……何で海との争いを望むの……優しいあの子が、レティシアがそれを嫌って、あの子は命を落としたというのに……美しい海を侵して、母様を喰らって、まだ足りないというの。海の恐ろしさを知りながら、それでも私からあの子まで、メルヴィナまで奪おうというの? あなたは、カイルラス、あなたはそれでも人間の味方をするの⁈」
次第に大きくなった声が、断崖の壁に反響する。
波はいつしか強くなり、カイルラスの乗った岩場は既に海中に沈みかけ、腰の剣が幾度も潮の飛沫を浴びた。
盛り上がる海に身を持ち上げられ、セレイアの目線が高くなる。大粒の涙を流す薄紫の瞳が、ついに真っ直ぐに、カイルラスの翡翠の双眸を捉えた。
「カイルラス、あなたを、信じていたのに……!」
まるで生き物のように海面の一部分が迫り上がり、カイルラスの腰に巻きつく。
胸元まで沈めようとする海に視線をやることもなく、男はただ真っ直ぐにセレイアの目を見返した。
「俺は、お前を信じている。リュアの血筋、過去、葛藤、それらを抱いた上で、俺に語ったお前の矜持は虚言ではないと」
「嘘なんかじゃないわ! あなたの、あなたたちのことを、もっとよく知りたいって……一緒に歩んでいきたいって……あなたのことを、愛しているって……! でも、メルヴィナは私の妹なの……わ、私……やめて、これ以上奪わないで、私にあなたたちを傷付けさせないで……!」
震える声で告げて、セレイアが両手で頭を抑える。
目の前の男への情と執着、愛する妹を奪われたことへの怒り、過去の惨状と人間への恨みが、複雑に波のように押し寄せた。
この場所へ来て初めてカイルラスが明確な動きを見せた。混乱した様子のセレイアへと手を差し伸べる。身体を覆う海水の表面がざわめきたった。
「セレイア、陸はノアリスが、空からは俺がメルヴィナを探す。開戦の口実に使われようというのであれば、必ずその前に救い出す。お前は……これ以上心を乱さぬよう注力すべきだ。お前が己を見失えば、この状況を望んだ者の――」
「っ、分かってるわよ! 分かってる……!」
差し伸ばされた手を取って、セレイアは海から身を飛び出させると、その勢いのままカイルラスの胸を叩いた。
噛み締めた奥歯の隙間から漏れ出す声を、男の肩口に押し付けるようにして何とか堪える。やがて迫り上がっていた海面が次第に下がっていった。
震える背中を抱き支えるカイルラスの手は、冷たい潮ですっかり濡れきっている。彼が足場にした岩が再び姿を現し、尾ひれがすっかり海面の上に出てしまっても尚、押し殺した嗚咽が洞穴に響いていた。