ep. 19 泡に消える足跡 (1)
「あっ、メルヴィナ。どこへ行っていたの? 入り江の約束は明日のはずでしょう? 出かけるというのなら護衛に兵を――」
「っ、要らないってば!」
海底に、ぱしんという軽い音が響いた。
差し伸ばした手を払い除けられたセレイアは、それでも気を害した風もなく、このところ様子のおかしい妹を気遣う。
何か気になることでもあるのか。困っているというのであれば自分が助けになる。愛する妹を傷付けるものを許しはしない。
尚も重ねられていく慈しみに、黙りこくっていたメルヴィナが勢いよく顔を上げた。
「やめてって……あたしは姉さんに守られるばっかりの子供じゃない!」
そう言い残して、美しい尾ひれが海水を蹴る。
取り残されたセレイアは少し困ったような表情を浮かべてから、衛兵を呼ぶために宮殿の方へと身を翻した。
海中を進みながら、メルヴィナが苛立ったように髪に指を絡ませる。
すれ違う魚たちも面倒ごとに近付くと厄介だと思ったのだろう。こちらの姿を認めては大きく迂回して泳ぎ去っていく。
(何であんな馬鹿なこと……今の姉さんに当たったって、仕方ないのに……)
はあ、と深いため息を吐く。小さな泡が前髪をくすぐりながら海面へと昇っていった。
それこそ酷く子供じみた行動だと理解していた。数日前にノアリスを引っ叩いて以来、父や兵たちだけでなく、姉のことすら避け続けている。
――だってキミは、セレイア以外の一族が、海のことが嫌いだ。
男の声がまた耳奥で聞こえたような気がして、メルヴィナは首を横に振る。
加えて、王座には向いていないと宣言されたことを思い出し、鱗が持ち上がるような不快感を感じた。
「そんなこと……あんたに言われなくたって、自分が一番よく分かってるわよ。嫌いよ。あたしを疎むお父様も、それに付き従うだけの人魚たちも、勝手に亡くなったお母様も……あたしから優しい姉さんたちを奪ったこの海が、大っ嫌いよ」
そう絞り出すように呟くと、ほんの少しだけ胸が軽くなったような気がした。
ただ一人自分に残された長姉が二度と離れていかないよう、恵まれない魔力を何とか磨き上げてきた。
父王や兵に疎まれながらも、後継となるための知識と実績を積み上げてきた。
事情を知らぬ里の者らはつゆ知らず、それでも父にとって、自分が玉座に座ることなどあり得ないのだと理解はしていた。
「大嫌い、嫌いよ、姉さんのバカ。海や空ばっかりじゃなくて、あたしを見てよ。セレイア姉さんのバカ」
勢いに任せてそんな悪態が口をつく。
言葉にしてみるとそれは余りにも幼稚な願いで、反対に頭がすっかり冷めていくのを感じた。
馬鹿みたい、とメルヴィナは最後にそう呟き、堪え切れずに笑い声を漏らす。
ひとしきり笑ってから、遠く宮殿の方から近付く気配を感じた。あの過保護な姉が、結局護衛を寄越したのだろう。
そうはいくかと、メルヴィナが強く水を蹴る。細い身体が水流を残しながらぐんぐんと進む。
「明日は入り江の約束よ。姉さんがうんと羨ましがるぐらい、陸と空の話を聞いてきてやるんだから」
そのために、あと一日しかないがこちらも海の現状を調査しておこう。
そう結論づけて、メルヴィナは追っ手の兵を撒きながら大海の状況に目と耳を凝らした。
◇
セレイアが目を覚ました時、宮殿に朝日は差し込んでいなかった。
夜光草だけが照らす宮中は、白くぼんやりとした灯りがゆらゆらと揺蕩っているように見える。いつもの風景であるはずなのに、どこか物悲しさを感じた。
何か胸騒ぎのようなものがする。身支度もそこそこに、セレイアはすぐに王の間へと身を滑り込ませた。
「お父様、何か海がおかしいわ」
既に玉座に座しているアルヴェニルへとそう告げる。父王は頷き、そばにあった衛兵をセレイアの方へと押し出した。
傷を負った様子の彼がこちらへと泳いでくる。それは酷くゆっくりとした動きに思えた。
「メルヴィナ様が、行方不明となられました」
ざわり、とセレイアの周囲の海が湧き立つ。状況を、と何とか問うと、衛兵は説明を続けた。
曰く、昨日に妹姫の護衛を命じられたがその対象と合流することは叶わず、何とか痕跡を追って大海中を巡っていたが、それもぱたりと途絶えてしまったのだという。場所は陸にも近い海域、あの入り江へと向かう海だった。
セレイアは両手で己の身を掻き抱いていたが、報告が終わるや否や声を張り上げた。
「それなら……早く兵を集めて海中を捜索しなさい! 哨戒に出ている者たちにも伝令を、海獣や魚たちにも伝えて、痕跡が消えたという海域には私が直接――」
「セレイア」
金切り声を遮る低い声。室内の衛兵を捜索に行かせて、セレイアは玉座へと少しだけ泳ぎ寄った。
「何、お父様」
アルヴェニルより一層低い声でセレイアが問う。
泡を含んだ海流で乱れた金の髪。それを見下ろしながら、父王は玉座に肘を置き、ため息を吐いた。
「お前が出向くことは許されぬ。状況からして、人間共の罠だということも考えられる。唯一の後継にして、愛する娘であるお前を万が一にも失うことになれば、海は怒り、民は惑う」
「メルヴィナもあなたの娘よ! 何より大切な、私の妹だわ‼︎」
宮殿を震わせる声でセレイアが叫ぶ。同時に発された魔力によって、美しい海底宮殿は瞬く間に大渦に飲み込まれた。
轟々と海流が逆巻く。夜番を受け持っていた衛兵、朝の支度を始めようとしていた侍女たち、突然の起床を強制された者たちから、次々と混乱の声が上がる。
大荒れする室内で、それを意にも介した様子もなく、アルヴェニルはやれやれと玉座からようやく腰を上げた。
まるで殺意を込めたような鋭い視線をじっと見下ろして、父王は愛する娘にはっきりと告げた。
「あれは、お前とは違う。いくら姿形を真似ようが海に愛されぬ、所詮は紛い物だ」
「っ――‼︎」
セレイアが反射的に息を吸い、声を吐き出そうとした寸前に白い手が口を塞ぐ。
強く自分の口を抑えたまま、セレイアは王の間を勢いよく飛び出した。