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ep.3 入り江の邂逅

 薄紫の双眸が海面から突き出され、周囲を見渡す。そろそろ夕暮れ刻が近い。頭上の大空は紺色に変わり、水面近くは燃えるような赤に染まり始めていた。


 セレイアは小さな岩の上に軽く飛び上がる。準備運動とばかりに、高い一音を長く響かせてみると、水面から魚が飛び跳ねて応えた。

 歌声が風に乗って大洋の上を走っていく。まるで呼応するかのように、白波が小さく渦巻いた。


(今日は風が強くて気持ちがいいわ。お父様も、ルヴィちゃんも、たまには海上で歌ってみればいいのに)


 セレイアは上体を反らせて天を仰ぐ。抜けていく風が髪を泳がせる感覚が心地よい。


(空はこんなに広くて綺麗なのに。何か、争わない方法は無いのかしら)


 ため息に歌が阻害される。今日はもう帰ろうと、海中へ飛び込もうとした時、視界の端に何かが走った。


 セレイアがじっと遠くの海面を見る。波を立てて脇目も振らずに泳いでいるのは、この辺りに生息する海獣だった。


「やっぱり今の時期はすごく気が立ってる。それにしても、あんなに急いで何処へ……?」


 試しに一声掛けてみたが、海中を疾走する彼が振り向くことはない。セレイアは海獣の向かう方角へと視線を動かし、さらに目を凝らす。そこにある姿を認めた瞬間に、セレイアは慌てて海へと飛び込んだ。


 セレイアの尾ひれが力強く水を蹴る。上下になびく身体はぐんぐんと水を切って進み、さほどかからず巨体の隣へと追いついた。


「ねえ! 入り江はだめよ! 人間がいるわ! この時期は立ち入っちゃいけないって、そう決められてるはずなのに……」


 海獣と並走しながらセレイアが少し声を荒げる。先程遠目に見えたのは、禁じられているはずの入り江で遊んでいる様子の人間の子供たちだった。


 セレイアが何度も止まるように告げる。分厚いひれに触れた手が強く弾かれ、細い身体は海中を転がった。

 繁殖を控えたこの時期の海獣は、一年のうちでも特に気が立ち、そして手に負えない程に腹を空かせている。


「あなた、あの子たちを……怪我させたらごめんなさい……!」


 彼の意図をはっきりと理解して、セレイアは海中で身を翻すと、あらんかぎりの歌声を張り上げた。

 放射された振動に、周囲の海域がびりびりと震える。一瞬、辺りが静かになったかと思うと、水は俄かにざわめき始めた。


 水流が激しく渦巻き、気泡を含みながらひとところに集まる。大きく盛り上がった水面は、やがて大波となり、入り江へと疾走する彼よりも早く、遊んでいた子供たちに異変を感じさせた。


「な、波だ!」


「バカ! 早く逃げろ!」


 子供たちが弾かれたようにその場を逃げ出す。小さな足が砂浜を蹴り、奥の木々の間へと駆け込んだ時、大波は入り江へと到達した。


 砂山を喰らうように、大量の海水が空から降り注ぐ。押し寄せた波は、子供たちの逃げ込んだ森を濡らすことなく、水面が不自然に引いていった。


 すっかり静かになった入り江で、セレイアは波の間から顔を出した。周囲を見渡して、人間の子が取り残されていないことに安堵のため息を吐く。


「上手くいってよかった……。こんなこと、メルヴィナちゃんにバレたら、また怒られ――」


 呟きかけた独り言は、喉奥から飛び出した小さな悲鳴に塗り潰された。

 海上を疾走する勢いのままセレイアに乗り上げてきたのは、先程の海獣だった。獲物を逃がされたことを理解しているのだろうか。食糧を狩り損ねた怒りを、彼は目の前の人魚にぶつけることにしたようだった。


 入り江の白い砂浜に半分打ち上げられたような形でセレイアがもがく。鋭い海獣の牙は、魔力に守られた人魚の肌を傷付けることはなかったが、重い巨体に押し潰されているという事実に変わりはなかった。


「狩り、の……邪魔、して……ご、めん、なさ……で、も……人間、は、食べちゃ……だめ……あなた、の血が、悪く、な……」


 浅い呼吸の合間で何とか訴えるが、興奮しきった彼の耳にはもはや届いてはいない。


 セレイアは身の上で暴れる巨体の合間から空を見上げた。紺から黒に染まり始めた空には、星が瞬き始めていた。


(彼には悪いけど、また、魔力で……だめ、声が上手く出せない……)


 白く霞み始めた視界に、不意に影が差した。

 ばさりという羽音と、風を切る音、それに続いて、海獣の低い叫び声が響き渡る。


 セレイアを押し潰そうとしていた巨体が、暴れ方を変えた。これまでの地面に叩き付けるような動作から、苦痛に身を捩るような動きへ。生臭い吐息に、何か違う匂いが混じる。


 海獣が大きく身を捻ったタイミングで、セレイアの腕が掴まれる。そのまま巨体の下から一気に引き摺り出された。


「うっ……ごほっ……あ、なた……は……」


「下がっていろ」


 圧によって痛めた胸を押さえながら、セレイアが自らを助けた相手の素性を尋ねる。それには答えず、男は一言だけを返した。


 砂浜に横たわり、軽く咳き込むセレイアからは、男の背だけが見える。

 彼女よりもずっと広いであろう背中には、それを隠すように、茶褐色の大きな翼が生えていた。


(この人……翼人族の……ヴァレアの民だわ……。確か、人間に、騎士として仕えているって……どうして、こんなところに……)


 ぼんやりと考えているセレイアの視線の先で、何かが光を反射して煌めいた。


「あっ、だめ……っ!」


 制止しようとするセレイアを振り返ることなく、男は無言のまま剣を振り下ろした。


 砂を巻き上げ暴れていた海獣が、どさりと重い音を立てて横たわる。一切の音が聞こえてこないことから、彼がその一撃で事切れたことは姿を見ずとも理解できた。


「ちょっと……! 何も殺すことなんて――何? ど、どうしたの?」


 乱暴を咎めようとしたセレイアの目の前で、男の身体が静かに崩れ落ちた。


 剣を杖に片膝を付いているらしい男の正面へとセレイアが回り込む。その酷い状態に、セレイアは思わず息を飲んだ。


 男の広い胸から腹にかけては、複数の斬り傷のようなものがある。怪我を負ってさほど時間が経っていないのか、それらは今も血を溢れさせていた。


「その傷……ご、ごめんなさい! わたしのせいで……!」


「違う。これは、ここに来る、前に……」


 返答の合間にも男の顔色は一層悪くなる。セレイアは慌てて彼を砂地に横たえた。

 薬のようなものを持っていないか男に聞くが、意識の遠くなり始めた彼からは荒い息しか返らない。


「ど、どうしよう……! ルヴィちゃんを呼んで……だめ、間に合わない……! 誰も来ない入り江だもの、わたしが、どうにかしないと……」


 強く目を瞑って考えてから、セレイアはハッと何かを思い付いたように顔を上げる。素早く周囲を見渡し、岩場に目的の色を見つけると、急いで駆け寄った。


 深い緑色の二枚貝は、海と陸との境に生えていた。セレイアが手を伸ばし、そのうちの一つを毟り取る。鋭い貝の縁が指先を切り、海水に赤い水滴が混じった。


 セレイアは貝を手に、倒れた男のそばへと戻る。既に男の意識はほとんど失われているようだった。

 男の頭元に膝まづいて、セレイアが貝を強く握り込む。


「いたっ……ねえ、これ……! 人魚の血には、癒しの力があるの! そのぐらいの傷ならきっと治せるはず……! ねえ、飲める……⁈」


 広い肩を揺さぶり、セレイアは血の滴る手のひらを男の顔へと近付けた。薄く開かれた口元に数滴の血が落ちたが、男の反応は無い。


 セレイアはまた少しだけ悩んで、自らの手のひらに口を寄せた。桃色の唇が、赤い血潮を吸い上げる。

 口内に血を含んだまま、そっと男に覆い被さると、セレイアは乾きかけた唇を塞ぐように口付けた。


 男の身体が微かに反応し、喉の膨らみが上下する。彼が人魚の血を嚥下したことを確認してから、セレイアは男からそっと身を離す。屈強な身体に刻まれた傷は、すっかり出血が止まり、確かに治癒の気配が見てとれた。


「ぐっ……」


「……!」


 男が小さな唸り声を漏らし、固く閉じられた瞼が微かに震える。それを見るや、セレイアは身を翻して海へと逃げ帰った。


 海流に乗って海の底へと向かいながら、セレイアはため息を吐いた。深く裂いた手のひらからは、赤くなった水が細い糸のように伸びている。


「ルヴィちゃん……絶対に怒るだろうなぁ……」


 はあ、ともう一つため息を吐いてから、セレイアは水を蹴り、彼女の住まう海底宮殿に向かって泳いだ。

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