ep.18 狭間の二人 (2)
メルヴィナの尾ひれが海を蹴る。
海面を離れるにつれて周囲は一層暗く、静かになっていくように思えた。
ここのところの海はおかしい。それを肌身に感じた。海獣や魚たちの混乱は頻発し、海流は安定せず、貝や珊瑚に歪なものが増えた。
リュアの王の代替わりは、本来であればゆっくりと時間をかけて行なっていくものだ。それだけ、海の王が周囲に与える影響は計り知れない。
(だからあたしが、あれだけ準備して……せめて姉さんが、あたしを頼ってくれれば……)
泳ぎを止めないまま顔を顰める。せめてこの辺りの海域を見回っておこうかと方向転換しかけた時、宮殿の方角から泳いで来る人影が目に入った。
「メルヴィナ。お帰りなさい。帰りが遅いから心配していたの」
水を切り裂くような速さで泳いできたセレイアは、ぴたりとメルヴィナの目の前で停止すると、息を切らせた様子もなくそう告げた。すぐに伸びてきた両腕によって身体が抱き寄せられる。
「怪我はない? ああ、髪の先が少し絡まってしまっているわ。宮殿に戻れば私が綺麗にしてあげる」
「大丈夫よ姉さん。それより、陸の方は確かに改革が進んではいるわ。でもやっぱり、海とは違って時間がかかるみたい」
「そう。ありがとう、メルヴィナ。私の代わりに話を聞いてきてくれて」
そう言ってそっと妹の身体を解放する。尚も全身を巡る視線に、大丈夫だ、とメルヴィナは繰り返した。
「それより、姉さんの方は?」
「何も問題ないわ。ふふ、記憶が戻ってから魔力の調子がずっと良いの。今なら、たとえあなたがどんな傷を負ったって治してあげられるわ」
海中でくるりと回ってセレイアが誇らしげに胸を張る。
以前よりずっと艶やかな金の髪は、この暗い海中でもまるで光を放っているようであった。
透き通った薄紫の瞳が、愛おしいものを見る時のように細められ、真っ直ぐにメルヴィナへと向けられる。
「大丈夫、私が全部守ってみせるわ。誰より大切なあなたのことを。それから、この海と、そこに住まう者。陸や空とも手を取り合える未来。全部よ。私、そう決めたんだもの」
さあ宮殿へ帰ろうと、セレイアがメルヴィナの手を取る。
より深い世界へと潜っていきながら、静かだった海中には歌声が流れ始める。
まるで歓喜するかのように湧き立つ海。海底へと引き込む水流。まるで上機嫌に見える姉と、掴まれた手の小さな痛み。
微かに立った鳥肌に気が付かれないよう、メルヴィナは空いた手で自らの身体を抱き締めた。
◇
「単刀直入に言うわ。どうして姉さんに余計なことを言ったの。前に釘を刺したはずよ、記憶のことには触れるなって」
約束の一週間が経つより前に、メルヴィナはノアリスをこの入り江へと呼び出していた。
今夜は先日とは違って、空から周囲を警戒するカイルラスの姿がない。いつもより一層注意を払って、ノアリスは憤った様子のメルヴィナに小声で答えた。
「何故って、それをセレイアは知りたがってた」
「……百年前、姉さんがどうなったのか、あなたは知ってるんでしょう。断言するわ、次に同じことがあれば今度こそ大陸はみんな海に沈む。次は誰も、翼人族だって生き残らないわ」
メルヴィナが言い切った。宝石のような真紅の瞳がじっとノアリスを見据える。こちらを強く咎めるような、それでいて痛みを堪えたような視線に、ノアリスはやれやれと肩を竦めた。
「それを防ぐために、セレイアが決めたことだろう? キミこそ、どうしてそう頑なに姉を過去から遠ざけようとする?」
「セレイア姉さんが、正真正銘、父王アルヴェニルの後継だからよ」
つまり? とノアリスは先を促す。
メルヴィナは濡れた髪をかき上げ、深いため息を吐いた。
「あんたの思惑は分かってる。あんたは本気で海との停戦を望んでる。だから、お父様じゃなくて、和平主義のセレイア姉さんに王になって欲しかった。でも、それじゃ駄目なの。セレイア姉さんじゃ結局同じことの繰り返しになるわ」
「セレイアがいつかアルヴェニルのようになると?」
メルヴィナは頷く。いつか、ではなく、既にその兆候は十分過ぎるほど現れているのだと苛立たしげに続けた。
「お父様だって、きっと最初からああだった訳じゃないわ。お母様と、間接的にレティシア姉さんを人間に奪われて、それで余計に海の外を憎むようになってしまった。海の血が濃いリュアは、いつか必ず狂うの」
「それで、血の薄いキミが姉の代わりに王座に就こうと、お父君に疎まれようとも必死に頑張ってた訳だ。愛する姉が凶行に走らないために」
「馬鹿なことだって思ってるんでしょうね。でもレティシア姉さんとも約束したの。二度とセレイア姉さんに酷いことはさせないって」
「そのためにセレイアの自我を歪ませてでもか?」
ノアリスの問いに、メルヴィナはふいと視線を逸らす。
脳裏にはレティシアを失った後の、もう一人の愛する姉の姿が浮かんでいた。圧倒的な魔力による威圧感はすっかりなりを潜め、侍女や里の者にも好かれる無邪気な愛らしさ、そして何より無意識下でレティシアを真似ているのだろう。以前の姉からは信じられないことだが、争いを嫌い、陸や空との共存すら望んだ。
正直、リュアや大海にとってどちらが良かったのかは分からない。それでも、とメルヴィナは呟いた。
「……狂ってしまうよりマシだもの。なのに……あんたたちのせいで、台無しよ。やっぱり陸になんて、近付かせるんじゃなかった」
最後に、何かを諦めたような口ぶりでメルヴィナが吐き捨てた。
静かな入り江に、波の音が響く。
しっとりと濡れた砂を踏んで、ノアリスが一歩メルヴィナへと近づいた。
「メルヴィナ、キミはとっくに気付いていると思うが、オレは遠い昔にリュアの血を引いている」
ノアリスの告白に、メルヴィナは怪訝そうな表情で彼の顔を見返す。
それがどうかしたのか、と問うと、深掘りしてこないところがキミらしい、とノアリスは苦笑した。
「今ここで苦労話をするつもりはない。だが、オレは狭間の者の苦しみってやつを、少しは理解してるつもりだ。その上で、キミは王には向いていないとオレは思っていた」
「あんたに言われなくったって、力の無さは理解してるわ」
「違う、メルヴィナ。そういうことじゃない。たとえ魔力に優れていたって、キミは玉座に座るべきじゃない。その選択は、キミを余計に苦しめるだけだ」
「……」
ノアリスはさらにメルヴィナとの距離を詰める。濡れた黒髪を一房掬うと、困った笑みのようなものを浮かべた。
「だってキミは、セレイア以外の一族が――海のことが嫌いだ」
「っ……!」
カッと一瞬でメルヴィナの頬が赤くなった。
細い手が振り上げられたかと思うと、夜風を切る音に続いて頬を叩く音が入り江に響き渡った。
そのまま何も言わず、メルヴィナは背後の海に姿を消す。あまり勢いよく飛び込んだためか、波打ち際には装飾品の破片が浮かんだ。
飛沫を上げて泳ぎ去って行く姿を、ノアリスは何も言わずに見つめる。次第に満ちてきた波が靴の隙間から入り込み、それからようやく彼は陸の方へと踵を返した。