ep.17 雲上の契り (2)
「あの子はリュアなのに、外の世界が大好きだった。皆が仲良くなれば素敵だって、いつも歌うように言っていたわ。あの日、暴走した私を止めるために、あの子が私の記憶を封じて、そのせいで命を落とした」
信じられないほど全身が熱く、血が沸くような感覚。それが急に抑えつけられたかと思うと、目の前にはまさに力尽きようとしている妹の姿があった。
セレイアの震える両腕の中で、レティシアは微笑みを浮かべて、そして泡となって海へと還っていった。
「最期にあの子に頼まれたの。メルヴィナのこととそれから、種族間の和平よ」
「それが、以前の『宿題』の答えか」
何故に種族間の和平を望むのか。初めに彼女に問うた時に聞いた返答をカイルラスがなぞる。セレイアは頷いた。
「そうだったわ。少し前までは。でも、今は違う」
そう続けて、セレイアはするりとカイルラスの右手から手を引き抜く。その動きのまま軽く尾ひれを撫でると、何も唱えずともそれは二本の素足へと変わった。
セレイアが枝の上に立ち上がる。不安定な足場とは思えないほど真っ直ぐに、背筋を伸ばして胸を張り、カイルラスの目を強い視線で見つめ返した。
「私は、私の意思であなたたちと仲良くなりたい。美しい空のことをもっと知りたい。人間のことは、正直許せないところもあるわ。それでも、ノアリスも、きっと他のヒトたちだって、素敵なヒトはたくさんいるはずだもの」
大きく広げた両手を風が押す。セレイアの身体がぐらりと傾いた。
素早く立ち上がってそれを抱きとめると、カイルラスは呆れたようなため息を吐いた。
「それはいいが、立つな。落ちればどうする」
「あなたが助けてくれるわ。だってあなたは、優しいもの」
カイルラスの胸に両手を添え、セレイアがそう言って嬉しそうに目を細めた。
両手の間に頬と耳を当てる。海に生きる者とは違う温かな体温の向こう側に、自分よりずっと早い鼓動を感じた。短い生を燃やす音。それを聞きながらセレイアはそっと目を閉じる。
「あなたが好きよ、カイルラス。だから私、心配だわ。私の血が、いつかあなたを海に引き摺り込んでしまうんじゃないかって」
「その為の鱗ではないのか。あれは、リュアにとっては婚姻の証だと」
淡々とした返答に、セレイアは慌てて顔を上げる。
「まさか、知っていたの⁈ その、違うの。あなたを空から遠ざけたい訳じゃなくって、あれは本当に、あなたを守ってくれるようにって……」
視線を彷徨わせながらセレイアが弁明する。彼がどの経路からその情報を仕入れたのかは分からなかったが、確かに愛し合う者と特別な鱗を贈り合うことは、リュアの風習の一つだった。
海に飲まれることから守ってくれるとはいえ、空の民や陸の民を海に招き入れたという話は聞かない。そうセレイアが続けると、そうか、とカイルラスは少し残念そうに答えた。
「お前と海中を飛ぶことを心待ちにしていると、そう告げたのは虚言ではないのだが」
「それは……ごめんなさい。私、記憶がない時は余りに考え無しで……でも、あなたがやりたいって言うのなら……ううん、やっぱりだめ。だって今は、衛兵たちが大海中に目を光らせているもの」
そう言ってセレイアは少し名残惜しそうにカイルラスの腕の中から身を抜け出させた。
「海に戻るわ、カイルラス。兵たちを領海線から引かせるから、そうノアリスに伝えて」
「可能なのか?」
「宮殿の衛兵は王じゃなくて、王家に仕えているの」
ちょうど父王は海獣の暴走を鎮圧するために南の海へと出向いている。横槍の入らないうちに彼らに命じるとセレイアは続けた。
「お父様が戻られたら、帝国への宣戦布告を取り消させるわ」
「変わらず耳を貸さなかった場合は」
「そうね、あまり手荒なことはしたくないけれど、その時は黒石貝の牢で頭を冷やして頂くわ」
黒石貝とは、とカイルラスが問い、歌も届かない居心地の悪い牢だ、とセレイアは少し顔を顰めた。
カイルラスはじっとセレイアの目を見る。向けられた視線に意図を感じ取り、セレイアは微笑んだ。
「大丈夫よ、カイルラス。今度こそ上手くいくわ。だって、あなたが信じてくれているもの。あなたのお友達として私決めたの。もう二度と、信頼は裏切らないわ」
「お前が道を諦めないというのであれば、俺からも渡したいものがある」
カイルラスが衣装の隙間から何かを取り出した。
握った手を差し出され、セレイアは手を伸ばし返す。拳が開かれると、ころんと軽いものが手のひらに転がり落ちた。
「これは?」
「ヴァレアが己の羽を削って作る笛だ。その音は、翼の持ち主にしか聞こえない」
そっと包み込むようにセレイアの手を握らせて、カイルラスは続けた。
「何かあれば吹け。そこが空の果てであろうと、海の底であろうと――俺は必ずお前のもとに現れ、お前を救う」
「それは……まるで契りだわ。ヴァレアは真面目だってノアリスは言うけれど、海の民よりずっとロマンチックよ」
くすくすと嬉しそうに笑って、セレイアが細長い笛を大切そうに胸に抱く。
海に帰るのであれば連れて行くと、カイルラスが手を差し出す。セレイアはその手を取って彼の胸に身を預けた。
◇
大樹の枝からふわりと影が浮かび上がる。そのまま滑るように翼が風を切った。
片手で胸元の笛に触れ、反対の手を男の胸に添えて、セレイアはじっとカイルラスの顔を見つめた。鋭い瞳はただ遠く前方の空を映している。
「空には飽いたか」
視線を返さずカイルラスが問う。
そんなことはない、とセレイアが小さく首を振った。
「ただ見ていたいの。空に在るあなたは、夜明けの海より、水面に映る月より、深海の青い世界よりも、何よりも綺麗だわ」
「……きっと光栄なことだろうが、美しいものは他にいくらでもある。暁に染まる空、天を頂く月影、遮るもののない紺碧」
「水面から差し込む光と、反射させて泳ぐ魚たち、クラゲたちの散歩」
「一面に広がる雲海、それを切り裂き進む翼、渡り鳥たちの飛翔」
しばらく応酬を続けて、セレイアはくすくすと笑い声を漏らした。
「全部、あなたと一緒に見たいわ」
「望むならば吹け。ヴァレアの翼はこの世の何より速い」
「あら、これでも泳ぎには自信があるのだけれど」
いつかきっと競争しようと、セレイアは天高い空でひれの先を揺らした。