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ep.17 雲上の契り (1)

 強靭な翼が、瞬く間に厚い雲を抜ける。

 月の無い暗い空は、夜の海とはまた違った静かさだった。


 すでに追っ手のないことを確認して、カイルラスは飛行の速度を少しだけ落とす。

 強い風から瞳を守っていたセレイアは、頬に当たる感触の変化に気がつき、ゆっくりと瞼を開けた。


「わ、ぁ……」


 感嘆の声だけを漏らして、セレイアはじっと食い入るように空を見つめた。


 月明かりのない暗闇に、真珠のような星が瞬いている。遙か下方には海や大陸が広がっているはずであるが、すっかり雲に覆い隠されて分からない。

 どこまでも続く空だけの世界で、しかし自分たちの他には何者も存在しない。ここには地上の音も光も何も届かない。美しく、同時に孤独だった。


「念願の空だろう」


 耳の痛くなりそうな静寂の中で、不意に声が降ってきた。彼にしては珍しく、まるで試すような、揶揄うような、どこか挑発的な声だった。


 セレイアは落ちないようにカイルラスの服をしっかりと握り直すと、顔を上へと向ける。視線は返されず、斜め下から見た男の顔は、遙か空の果てを見ているように思えた。


「ええ……綺麗、とても」


 それだけを答えて、セレイアは再び前方を向いた。

 流れる風が瞳に当たる。軽い痛みに瞼を下ろすと、頬を一筋の涙が伝った。


「綺麗だわ」


 最後にもう一度そう呟いて、セレイアは掴んだ服の胸元へと静かに顔を埋めた。


 ◇

 

 再び厚い雲を抜けて、カイルラスは高地に生えた大樹の枝へと降り立った。


 身体を解放されたセレイアは、太い枝へと腰を下ろす。ひれの先端が空中で揺れた。

 鉤爪で枝に立っていたカイルラスが、セレイアに請われて隣に腰を下ろす。木の皮で鱗を傷付けはしないかという問いに、セレイアは問題ないと微笑んで礼を言った。


「状態は落ち着いたか」


 遙か遠くに見える海を見ながら、カイルラスが尋ねる。

 大荒れの前兆を見せていた海は、今はただ静かだった。

 ええ、と頷いてセレイアはカイルラスへと向き直り、それから深く頭を下げた。


「ごめんなさい、私、また危うくノアリスのことを……それから、翼騎士団のヒトたちのことも。あなたが種族から追われることになれば、私……」


 苦しげに眉を寄せるセレイアに、カイルラスは問題ないと首を横に振る。


「我らは私怨で剣を振るうことはしない。皇帝であるノアリスが剣を引けと命じたのであればそれに従うまでだ」


「本当? リュアに肩入れした裏切り者だって、空に在ることを許されなくなったりしない……?」


「空に在るべきかどうかは、己自身が決めることだ。少なくとも、俺は俺の矜持を失うようなことはしていない。ふっ……リュアの姫君は、ヴァレアに対する理解が十全ではないようだ」


 カイルラスが喉を鳴らして笑う。

 初めて見るその反応に、セレイアはぱちぱちと目を瞬かせ、少し困ったように苦笑した。


「そう。リュアは三種族でも特に排他的なの。こんなにたくさんお話ししたのに、あなたたちのこと、まだまだ知り切れてはいないわ」


 セレイアが片手を頭上へと翳し、指の隙間から空を見る。海上から見る時よりもずっと近いはずであるのに、それでもやはり少しも届きそうにない。


 やがてセレイアが持ち上げた腕を下ろす。居住まいを正して、カイルラスへと真っ直ぐに向き合った。


「カイルラス、私、記憶が戻ったの。その上で、あなたに話さないといけないことがあるわ」


「ああ」


 カイルラスはそう短く答え、いつもほどは時間がないために手短に済ませるよう付け加えた。



 静かな風に髪を撫でられながら、セレイアが過去を語る。

 百余年前の大嵐、稀代の災禍として大陸でも記録されているその災害が、かつての自分が引き起こしたものであること。

 直接目にした母親の骸に我を失い、怒りに身を灼いていくつもの集落を海の底に沈めたこと。

 そしてその際に、多くの翼人族を巻き込んでしまったこと。


「ヴァレアが、あなたたちの数が今それだけ少ないのは、全部私のせいだった。それなのに、全て忘れてあなたにあんな酷いことを聞いたわ。本当に……ごめんなさい」


 セレイアは先程よりも深く頭を下げた。長い髪が流れて大樹の枝から滑り落ちる。

 微かに震える肩に硬い手のひらが触れた。

 セレイアが顔を上げる。カイルラスはいつもと変わらない表情でこちらをじっと見ていた。


「状況は理解した。だが、以前に教えたはずだ。我らは過去に囚われない」


「それでも……! 勝手だって分かっているけれど、どうか謝らせて。私の未熟で、多くの戦士たちが今も、暗い海の底で……!」


 遠い海を睨みながら、セレイアが強く唇を噛む。


 もはや取り返しのつかないことをしたという悔恨。それ以上に、このような話をしながら今なお、あの光景を思い出せば激しい憤怒が胸を灼く。ざあざあと耳奥で鳴る潮の音。全身に流れる海の血が、沸き立つような感覚。今にも震えそうになる喉を両手で押さえつける。


 セレイアがカイルラスを振り返る。大きく開かれた瞳から一滴だけ涙が零れ落ちた。


「私……わ、たし……リュアになんて――」


 生まれなければ良かった。必死で魔力を抑えながら絞り出そうとした声は、強く身体を引き寄せられたことで遮られた。


「カイル、ラス……」


「言うな。それはお前の誇りを貶める。お前が海を愛していること、その上で陸と空と手を取り合おうとしていること。俺に語ったお前の矜持は虚言だったとでも言うのか」


 背中に回された手の力が強まる。

 セレイアは目を見開き、強く閉じると、ぶんぶんと首を横に振った。そんなことない、と震える声を喉奥からなんとか押し出す。


 これ以上の涙を溢れさせないよう、セレイアが閉じた目の奥にぐっと力を込める。視界の奪われた世界で、耳を当てた胸が息を吸い込む音を聞いた。


「俺は――」


 カイルラスがそう言いかけて、一度言葉を飲み込んだ。

 そのまま数秒黙り、セレイアの赤くなった目がゆっくりとこちらを見上げてから、カイルラスは観念したように息を吐いた。


「俺は、お前がリュアであって良かったと思っている。その上で、ただ一つだけ、お前に虚弁を述べた。この際だ、詫びさせてもらう」


「あなたが、嘘を……? 一体、何の?」


「初めにお前をあの入り江で見かけた時、お前が海の民だということには気が付いていた」


 セレイアはすっかり涙の止まった瞳でカイルラスの顔を見上げた。あの時、彼は襲われているのが何者か判断が付かなかったと言っていたが、そうではなかったらしい。


 それならば何故、敵対する種族を助けようと思ったのか。セレイアが尋ねると、カイルラスは、声だ、と端的に答えた。


「声……?」


「……いつも空から耳にしていた。父が空へと還った朝、友を戦で失った夜。魂を掬い上げるような歌声の主と、いつか言葉を交わしてみたいと、俺はずっとそう思っていた」


 セレイアが目を瞬かせる。何故そう言ってくれなかったのか、と問うと、まさか姫君だとは思わなかった、と嘆息混じりの返答があった。


 セレイアはするりとカイルラスの腕から身を滑り出させる。伸ばされた白い指先が、翡翠を湛えた目尻をそっと撫でた。


 男の目は獰猛な海獣よりずっと鋭い。以前に入り江で見た時には美しく透き通って見えたが、よくよく見るとその最奥に黒っぽい濁りのようなものが見える。


「まさかカイルラス……あなた、海の影響を……」


 そこから微かに感じる魔力を指してセレイアが問うた。


 初めに血を与えたことか、大鱗を持たせたことか、それとも自分と交流を持ったことが原因だろうか。そう考えを巡らせるセレイアに対してカイルラスは、ああ、と何でもないことのように頷いた。


「以前よりも海の状況が把握しやすくなった。加えて夜目が効きやすくなったな」


 しかし空を飛ぶことに何ら支障はない。そう続けたカイルラスに、セレイアは呆気に取られてから、困ったように眉根を下げた。


「カイルラス、あなたってやっぱり、ヴァレアの中では随分と変わってるんだわ。空に憧れた私と同じね。ノアリスが言っていた、今代しかないっていうのは、つまりこういうことだわ」


「あの男も凡そ人間らしくはない。血筋ではなく、気質の話だ。我らが種族の在り方を根底から変えたとあれば、歴史とやらには一体何が刻まれるのだろうな」


「平和の礎を築いた、仲の良い四人だって、そう記録されるのよ。『あたしを巻き込まないで』って、きっとメルヴィナは口を尖らせるわ」


 セレイアが目を細める。

 カイルラスの手が伸ばされ、噛み跡の残った唇を指腹がなぞった。


「セレイア、我らがお前に望むとすれば、それは悔いることではない。お前がこの先どうするかだ」


 静かだがよく通る声でカイルラスが告げた。

 この先、とセレイアが復唱する。カイルラスは頷いて彼女の手を取った。


「俺はこの空と、そこに在る者を守る。その為に剣を振るう。お前は俺と剣を交えたいか?」


 カイルラスは苦笑し、左手が腰の剣へと伸びる。

 同じ問いをされたことがあった。種族の和平という同じ理想を持つ者として、入り江でノアリスを紹介された時。セレイアは問いには答えず、男の右手を握り返した。


「あのね、カイルラス。もう少しだけ話を聞いて欲しいの。私のもう一人の妹の、レティシアのことよ」


 男が静かに頷くのを見てから、セレイアは昔話を再開した。

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