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ep.16 海神の底、血の記憶 (1)

「姉さん……? 姉さん! 待って!」


 海藻の隙間から見えた金色に向かってメルヴィナが叫ぶ。

 大急ぎで方向転換すると、海底付近を泳ぐ身体に並走するように追いついた。


「メルヴィナちゃん、毎日留守にしてごめんなさい。わたし、今日は『海神の底』の辺りに行って来るわ。危ないからルヴィちゃんは戻っていて」


「やめてよ姉さん、あそこはずっと立ち入りが禁じられてるって、姉さんだって知ってるでしょ! この間、禁書庫にいるのが見つかって牢に入れられたところよ。お父様も今度こそただでは済まさないわ」


「……立ち入りが禁じられたのは、お母様が亡くなった海だから?」


 前を向いて泳ぎながら、セレイアは静かに尋ねた。


 メルヴィナが息を飲む。何かを言おうとしては口を閉じ、やがてついにその場に立ち止まると、両手で目元を隠すように額を抑えた。


「やめて、姉さん。お願いよ。あたしの……あたしのそばを、離れないでよ……」


 泡沫のような呟きに、セレイアは尾ひれを止めて振り返った。ゆっくりとメルヴィナのもとへと戻ってくると、両腕を伸ばして柔らかな身体を抱き締める。


「離れないわ、メルヴィナ。わたしは何を思い出したって、絶対にあなたのことを手放したりはしない。あなたを守ると、そうレティシアとも約束したもの」


 セレイアはそっと、まるで子守唄のように囁いた。

 メルヴィナの肩が大きく跳ね、彼女の喉奥からはひっという微かな音が漏れる。


 震える妹の後頭部を何度かゆっくりと撫でてから、セレイアは耳元へと口を寄せた。


「あなたを誰より愛しているわ、メルヴィナ。本当よ。お父様より、陸の人間より……カイルラスよりも、あなたのことが誰よりも大切。だから安心して。怯えないで」


 ね、と最後に額に口付けを落としてから、セレイアはメルヴィナの身体を解放し、そして暗い海へと泳いで行った。


 残されたメルヴィナは両腕で自分の身体を抱き締める。ぺたりと海底に座り込んで、深く俯き肩を揺らした。


 ◇


 暗い岩陰を縫うようにして、セレイアの尾ひれが揺蕩う。

 この辺りは海流の関係と、加えて海面から遠いこともあってか、他所よりもずっと水が冷たい。


 反響する音と微かな光を頼りにセレイアが進む。深海魚よりもずっと敏感な目が、暗い海底に沈む人影を見つけた。


 複数ある骸の、その全てが人間だった。翼も鱗も持たない身体は、ここに沈んでから百年以上が経つはずだが、骨を露出させることなく当時のままの姿で眠っている。


「……」


 セレイアはそっと手を伸ばしかけ、彼らに触れる前に無言で指先を引いた。


 辺りはしんと静まり返り、魚たちの呼吸の音すら聞こえない。首を回して周囲を見渡す。あるのは人間の骸や、恐らくは家屋や船の残骸ばかりで、翼人族の姿はない。

 目を閉じて、彼らの葬儀を思い出す。空に還れなかった彼らの誇りはどこへと向かうのか、結局一度も聞くことはしなかった。


 冷たい海水を蹴って、より深い海域へと進んでいく。海底の傾斜が次第に急になっていく。

 この先は辺りでも特に深い海溝だ。リュアであっても亀裂には決して立ち入らず、その奥底がどのような世界であるのかは誰も知らない。


「…………あっ」


 ふと、視界の端に微かな光が目に入った。セレイアが反射的に振り向き、今まさに段差を滑り落ちていきそうになっていた柄を素早く掴む。

 硬い手触り。暗闇の中でもぬらつく鈍色。以前にカイルラスへと返した剣よりずっと古いもののはずであるのに、やはり月日の流れを感じさせない。


 セレイアは無言で、拾った剣を胸に抱きしめた。そこに誇りや魂が取り残されているのか、ヴァレアではない自分には感じ取ることは出来なかった。


 ◇


 衛兵たちの哨戒の隙を縫って辿り着いた夜の入り江は、これまでとは随分と違った雰囲気だった。 


 穏やかなはずの静寂は、何か不穏さを感じさせるようであり、よく目にする巻貝の類も今宵は姿がない。

 変わらず陸の者の立ち入りは禁じられているようではあるが、遠く山の方に点々と灯りが見える。人間たちが拠点でも敷いているのだろうかとセレイアは思った。


 ざっと砂を踏む音に、セレイアが振り返る。海より一層薄暗い森の中から、一人の男が姿を現したところだった。


「ノアリス、来てくれてありがとう。あなたに連絡が伝わってよかったわ」


「陸に上がったリュアを経由するとはな。こんな状況でも街を遊び歩いてみるもんだ」


 そう言ってノアリスが大きく肩を竦める。肩越しの視線で背後の山を指し示すと、もう少し隠れたところへ移動するよう提案した。


 山の拠点から死角になる浅瀬で、セレイアはノアリスに向き直る。いつもここに来る時とは随分と異なる装い。幾重にも重ねられた衣に、重厚そうな装飾品は、確かに彼が人間の皇帝であるのだと示していた。


 セレイアの視線に気が付いたのか、ノアリスが苦笑する。


「仰々しい格好だろ? 悪いな、仕事の途中で抜け出してきたんだ」


 口煩い大臣の目を盗むのが大変だった、とノアリスは笑い混じりに続けた。

 いつもと変わらない様子の彼の顔をじっとセレイアが見つめる。


「翼人族は、リュアによって滅ぼされかけたのね」


 唐突な問いに、ノアリスは少しも顔色を変えることなく頷いた。


「ああ。大陸の記録にはそう残っている」


「そのことを、カイルラスは知っているの」


 どうだろうな、とそう答えてノアリスが上を向く。

 今夜は月が無く、雲も厚い。夜の海のように真っ黒な空を眺めながら彼は続けた。


「キミもご存知の通り、あいつらは少しも過去を振り返らない。たとえ知っていたとして、仇を恨むことも、報復することも考えはしないさ。空の民は実に高潔でいらっしゃる」


 ノアリスはそう言って正面を向くと、セレイアの顔を見て再び苦笑いを浮かべる。


「こう言えば、キミは満足するか?」


 普段よりずっと冷たいような声の問いに、セレイアは、いいえ、と首を横に振った。

 尾ひれを撫でて静かに脚へと変えると、陸に上がった白い素足はひたひたとノアリスの方へと歩み寄る。


 男の正面へと辿り着いてから、セレイアがじっとノアリスの赤い瞳を見つめた。宝石のような美しさの奥に、確かに魔力の片鱗を感じ取り、やっぱり、と小さく呟く。


「初めて会った時から違和感はあったの。ノアリス、あなたは祖先にリュアの血を引いているわね。海の子孫は鱗は失っても、魔力の加護や長命は顕現することがあると聞いたわ。百年前の『大災害』の時、あなたはその目でそれを見た?」


「そうだと言ったら?」


 間を置かずにノアリスが答えた。

 セレイアはさらにもう一歩距離を詰める。


「教えて。何があったの」


「自分で調べて思い出したんじゃないのか」


「客観的で断片的な情報だけ。その時、私は何を見て、何をしたのか、それを知りたいの」


「過去のことだろ。何故わざわざ聞きたがる?」


「それが責務だからよ。近くリュアの王となる者として、あの子たちの長姉として、私は自分のやったことをきちんと知る必要がある。鱗の記憶を完全に取り戻せば、私はこの魔力をもって、今度こそ王座につくわ」


 とん、とセレイアの指先がノアリスの胸を突いた。


 ノアリスが小さく息を吐く。ざわりと海風が吹き抜け、目にかかりかけていた黒い前髪をかき上げた。


「セレイア、最後にキミの友人としての問いだ。その力でキミはどうする? 次こそは大陸を沈め、翼人族を滅ぼすか?」


 静かな問いに、セレイアは少し眉を寄せてから首を横に振る。


「……いいえ」


「返答に間があったな。迷ってるって証左だ。もしここでオレが下手を打てば、光栄なことにオレの名は遠く後代まで語り継がれることだろうよ。大陸を滅ぼした稀代の愚王としてな」


 仮に陸地や記録が残ればだが。そう締め括って、ノアリスは小さなため息を吐いた。


 セレイアは何も答えない。


 胸に触れる指先から繋がる細い腕、透けそうなほどに白いそれを強めに握ると、ノアリスは真っ直ぐにセレイアの瞳を見据えた。


「教えてくれ、セレイア。オレは、キミを信じてもいいか?」


 セレイアの肩が揺れる。やがて張り詰めていた息を吐き出した。


「ええ。友を重んじる。一度置かれた信頼は裏切らない。そうカイルラスが教えてくれたもの」


 憑き物の落ちたようなセレイアの微笑みに、ノアリスは、そうか、とセレイアの腕を離す。


 潮風で少しべたついた髪を鬱陶しそうに掻いてから、セレイアの背後の海を見ながら、ノアリスは過去を語り始めた。

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