ep.15 禁書庫に眠る影
海上を走る風に髪をなびかせて、一人の人魚が歌を奏でる。
最近見つけたお気に入りの岩場は、座り心地が良く、何といっても空も陸もよく見える。
上機嫌で声を高くした少女は、ふと海底から近付く気配に気が付き、しまった、と舌を出した。
「やっぱりまたここにいたのね。危ないからここで歌うのはやめなさいって前にも言ったでしょう。帝国の領土にも近いのよ。何かあったらどうするの」
美しい金色が海面を割るや否や一息で告げられた苦言に、少女は、はーい、と苦笑いする。
少し首を傾けると、よく日に焼けた赤い髪から巻貝が転がり落ちた。不服そうな顔の彼をつんと突いてから、少女は改めて金髪の人魚へと向き直る。
「ごめんなさい、セレイア姉さん。でも見て、今日はとても空気が澄んでいるわ。お城の方までよく見える。一体どんなヒトたちが住んでるのかしら」
「無遠慮に海に立ち入っては、平気でヒトの国を汚していくような無作法者よ」
「あら、そんなヒトばかりだったら、お母様は陸に上がったりなんてしてないわ。ふふ、きっとよほど素敵な方だったのね。海に連れ返されちゃったのは、やっぱりお可哀想だわ」
「そんな妄言、お願いだからお父様の前で言わないでよ。この間も大渦に衛兵が巻き込まれて大変だったんだから。まったく、お父様の短気にも困ったものよね」
「セレイア姉さんも似たようなものじゃない? 一昨日そう言ってお父様と喧嘩して海が荒れたから、海獣たちが困っていたわ」
赤髪の少女が挑発的に笑う。
セレイアは少し言葉に詰まってから、はあ、とため息を吐いた。
「あれは……お父様がまた、メルヴィナのことを悪く言ったから」
「また? それは怒っても仕方がないわ。次の喧嘩はわたしも呼んでね」
「駄目よ。あなたの嵐は長いんだから。おかげで陸にやる魚が獲れなかったって、前に里から陳情が来たのを忘れたの?」
もちろん覚えている、と少女は困ったように苦笑いを浮かべた。
メルヴィナは? と聞くと、姉からは、母と共に外海に出ているという返答があった。
「衛兵の監視付きだけれど。お父様の執着に付き合わされて兵たちもいい迷惑だわ」
「セレイア姉さんだって、この間こっそりメルヴィナちゃんの跡をつけてて怒られてたじゃない」
「だって、あの子がふらふらしているから。また海溝に迷い込んだらどうするの」
セレイアがため息混じりに答える。
涙目で姉と共に帰ってきたメルヴィナの姿を思い出し、少女はくすくすと笑った。
「メルヴィナちゃん、まだまだ幼くて抜けてるものね」
「あなたも同類よ。この前百歳も超えたっていうのに、いつまでもこんなところを出歩いて。たまには皇務を手伝ったらどう?」
「遠慮するわ。だってお父様はまだまだお元気だし、次の王はセレイア姉さんだもの」
「それはお父様が決めることだって言ってるでしょ。まったく、爺やもたまにはこの子に強く言ってくれればいいのに……」
ぶつぶつとセレイアが呟き、やめた、と海面で仰向けに浮かんだ。
金色の髪が水中で大きく広がり、光を反射させる。岩の上にいた少女はそれを見ると、ちゃぷんと海中へと飛び込み、姉に寄り添うように水面に浮かび上がった。
「見て、セレイア姉さん。鳥が飛んでるわ」
「あの大きさは、きっとヴァレアよ」
天空で弧を描く姿を二人の少女がじっと眺める。
何をしているのだろうか、という妹に、セレイアは知らない、と興味なさそうに答えた。
「気にならないの? あんなに気持ち良さそうに泳いでるのに」
「私はあなたと違って真っ当なリュアよ。他種族になんて興味はないわ。ただ……あの空の向こうと、海の底、より青いのはどちらかしら。空を手に入れられたら確かめられるのに、さすがに大波も届かないわ」
セレイアが空に向かって手を伸ばし、水の滴る拳を握る。
小さな水音がしたかと思うと、赤い髪の少女が少し怒ったようにこちらを見下ろしていた。
「セレイア姉さん。そうやってすぐに奪おうとしなくったって、知ることはできるわ。こうやって、お話しすればいいの」
ね、と少女がセレイアの手を握る。
セレイアはやれやれと肩を竦めると、妹の身を引き寄せ、濡れた額に口付けた。
「あなたの『平和主義』は、一人前になっても治らないわね、レティシア」
別に構いはしないが、怪我だけはしないでと、セレイアは波に揺蕩いながらそう囁いた。
◇
「あ……思い出した……レティシア、どうしてわたし、あの子のことを忘れたりなんて……」
額を抑えてセレイアが呟く。
海底宮殿の最奥に設けられたここは、リュアのあらゆる過去が安置された禁書庫で、王の許可がない限りは立ち入りが禁じられている。
兵と父の目を盗み潜り込んだセレイアは、顔を歪めながら別の記録へと手を伸ばす。
「何か他に……何かあるはず……わたしの記憶が封じられた理由が……」
ぼんやりとした表情でぶつぶつと呟きながら、セレイアの指先が古い鱗や黒石貝をなぞった。
記録はいずれも百年以上前のもので、断片的なものが多い情報をセレイアが片っ端から貪るように読む。
膨大な資料の中に、ふと、知っている名を見つけて、セレイアの指先が止まった。
「『エルゼリア』、ノアリスの……帝国についての記録だわ。百十二年前、陸と海との大きな争いがあって、人魚族は四つの集落を海に沈めて……巻き込まれた翼人族の大半が、命を……」
セレイアの声が震える。資料を取り落としそうになりながら、これではいけないと首を横に振り、その先を読み込む。
これが翼人族が滅びかけた『災害』についての記録であるのならば、どうしても知っておかなければならないと思った。
「きっかけ……争いのきっかけは、ここだわ。『リディア』……? これは、名前? どこかで……」
「王妃様にございます」
背後から掛けられた静かな声に、セレイアは大きく肩を跳ねさせる。勢いよく振り返ると、暗い書庫の壁に溶け込むようにして、老人が佇んでいた。
どうしてここに、という問いに老人は何も答えない。爺や、とセレイアらが呼ぶ彼は、アルヴェニル王に幼少から侍っているという老人魚であり、王の間でいつも姿を目にするが直接話をすることは実に数十年ぶりだった。
セレイアは手にした記録を急いで戻しかけて、また首を横に振った。じっと老人の顔を見つめ返すと、努めて平静に口を開く。
「爺や、教えて。百年前の大戦、きっかけはお母様が亡くなられたこと?」
「左様でございます」
老人はセレイアを咎めることなく、やはり静かに答えた。
そう、とセレイアが頷き、ゆっくりと老人へと近付く。
「やっぱりお父様が? お母様を失ったお父様が陸を、ヴァレアを滅ぼそうとしたの? どうして? 何故お母様はお亡くなりになられたの? それから、レティシア、あの子は……わたしのもう一人の妹はどこへ行ってしまったの? どうしてわたしは何も覚えていないの? 一体誰が……お父様が、私の記憶を……?」
次第に強く捲し立てながら、セレイアは老人の目の前まで辿り着いた。
真正面からじっと薄紫の瞳に見つめられ、老人は少しの間沈黙していたが、やがて小さく被りを振った。
「いいえ、セレイア姫様。人間の村と、それから翼人族の拠点を荒ぶる海に沈めたのは、貴女様でございます」
「…………ぇ……?」
困惑したセレイアの喉から、声になりきらない音が漏れる。
ゆら、と尾ひれが揺れ、細い身体は僅かに後ずさった。
「何、そんな……そんなはず……わたしが、そんなこと、する、はずが……」
セレイアは震える手で額を抑えた。
頭が割れるように痛む。大渦に呑まれるような浮遊感と、ざわりと鱗が逆立つような感覚。あり得ないと思いながら、恐らくは真実だという漠然とした確信が胸に渦巻いていた。
しばらくそのまま黙り込んだ後で、セレイアは長い息を吐き出した。父に報告するか、とそれだけを問うと、老人は静かにまだ黙っておくという旨を返した。
「レティシア……あの子は、あの子が、わたしの記憶と力を封じたのね」
「左様でございます」
「……分かったわ。ありがとう、もう下がりなさい」
セレイアがそう指示すると、老人は入ってきた時と同じく、物音一つ立てることなく禁書庫を出て行った。
一人になった空間で、セレイアは手にした記録を元あった場所に戻す。
途端、込み上げかけた嗚咽を無理やりに飲み込む。強く目を瞑り、震える身体を両手で抱きしめた。
「まだ、全部分かったわけじゃない。ここで悔いても、前には進めない。種族の長として、ふさわしい、振る舞いを…………カイル、ラス……っ」
真っ暗な瞼の裏に鳶色の翼を思い浮かべ、セレイアがその名を絞り出すように呼ぶ。
既にほとんど治っている鱗の傷跡に手をやってから、目尻の涙を振り落として、セレイアは急いで禁書庫を後にした。