-幕間3- 潮風の視察 (1)
日の出と共に宮殿を抜け出したメルヴィナが、一人で入り江の方角へと泳いで行く。
途中何人かの衛兵や魚たちとすれ違ったが、さして気に留められることもなく、黒い髪は間も無く海面を割った。
浜へと上がり、尾ひれを撫でる。寄せた波が帰るより早く、すらりとした二本の足が砂地を踏んだ。
◇
「本当に、こんなところで良かったのか? 偵察ってんならもっと、それこそ王城の書庫にはキミが喜びそうな情報がごまんとある」
ノアリスが視線を城の方へとやりながら告げた。羽織った外套のフードを目深に被り、艶やかな黒髪も鋭い真紅の瞳も、今日は覆い隠されている。
同じくフードを片手で押さえながら、メルヴィナがため息を吐いた。
「言えば連れて行ってくれるわけ?」
「いや、さすがに警備が厳しいな。キミの身を守り切れる自信がないから却下だ」
ノアリスはそう言って大袈裟に肩を竦める。
半刻ほど前に浜で合流してからというもの、普段と変わらない掴みどころのない態度に、メルヴィナは面倒くさそうに視線を逸らせた。
「無意味なこと言ってないで、可能な範囲で状況を解説してくれた方がよっぽど助かるわ。まあ……この目で見れば、理解したけれど」
メルヴィナが声を低くする。視線の先で、往来を生気のない人間が行き交う。路上には痩けた者や咳き込む者、既に動かない者が無秩序に転がっていた。
足元へと寄ってきた物乞いの子供に、与えられる食料は何も持っていないのだ、とメルヴィナは静かに答える。
「想像以上に酷い状況だわ。これを放っておいて戦に明け暮れてたの?」
去って行く子供の細い背中をじっと見ながら、メルヴィナが隣に立つ男に囁いた。
ノアリスが、いいや、と首を横に振る。
「逆だな。うちの土地はなんと言っても作物が取れづらい。困窮した民を救うためには、より肥沃な土地を手に入れないことには――と、戦争派がいつも掲げてる大義名分だ」
「馬鹿みたい。それで駆り出されるのも民でしょう。運良く領土を手に入れたとして、豊かになるのはいつの先の話? 明日の食べ物がなければこの子たちは死ぬんだって、その能無したちに教えてあげないの?」
「いやはや、手厳しい限りで」
苦笑しながらそう言って、ノアリスが肩を竦めた。
そのまま黙り込んだ男の顔を、メルヴィナがフードの陰からちらと見上げる。無言で集落を眺める視線は、思ったよりずっと厳しく、どこか寂しげだと思った。
メルヴィナも黙って、ノアリスと同じ方を向いた。海底の里とは比べ物にならないほど、活気がなく、動いている者すら死体のように見える。
しばらくの沈黙の後で、ようやくノアリスが重い口を開いた。
「……これでも、随分とマシになった方なんだ。前皇帝はとにかく戦好きな男でな、国庫が疲弊するのも構わず遠征に出て、挙句にそのままお亡くなりなさった」
「なんでそんな奴を王に掲げたの」
「くだらない政治ゲームってやつさ」
人間の世界は、純粋や空や海とは違い、複雑に濁りきっているのだ。そう言って、ノアリスは呆れたように嘆息した。
「王城の兵士も使って、治安はなんとか最低限を維持してるんだが、このところは病気が蔓延することが多くてな」
「まず水路が悪いせいでしょ」
「何? 一昨年に整備させたはずだったが」
ノアリスは怪訝な表情を浮かべ、道端の排水溝のそばにかがむ。
立ち昇る強い臭気に顔色一つ変えず、暗い穴をじっと見て、流れる水の様子を確認した後で苛立たしげに舌打ちをした。
「……流路が一部分詰まりかけてる。他にも、掘ればいくらでも不備が出るな。すぐに対処させる」
そう結論づけてノアリスは立ち上がる。
すぐそばへとやって来ていたメルヴィナを振り返ると、礼を言う為に手を差し出しかけて、汚れているなと引っ込めた。
「悪いな、メルヴィナ。助かった。さすがは海の民、よく気が付いたな」
「別に……これぐらい、あんたでも気が付ける程度よ。碌な仕事も出来ないほど疲れてるんなら、諦めて寝た方が民のためなんじゃないの?」
その隈が趣味の悪いアクセサリーだって言うのなら止めないけど。メルヴィナは大きなため息と共にそう続け、フードの下の男の顔を見上げた。
向けられる視線にありありと浮かんだ非難に、ノアリスは苦笑し、再度礼を告げた。
◇
ノアリスに連れられて、メルヴィナが帝国領土を視察して回る。
途中、二度程馬車も使ったが、彼女が大した驚きも見せないことにノアリスは至極残念がった。
がたごとと揺れる馬車の窓から、メルヴィナは外の様子を観察する。
最初に見た辺境の集落ほどの荒廃具合では無かったが、やはり荒れた土地が多い。作物が取れづらいというノアリスの言い分に恐らく嘘はなく、それであれば海を封じられれば尚のこと打撃が大きいことだろうと思った。
「そりゃ、危険を承知で海に出るわけよね。だからといって条約違反を許すつもりは無いけれど」
「こちらの落ち度は詫びるさ。だが、お父君がもう少し柔軟に会談に応じてくれればなぁ」
御者に聞こえない声で二人がそう言い合う。ノアリスはメルヴィナとの距離を詰めると、窓の外に指先を出した。
「風が冷たく乾燥してる。カイルラスによると、こういう年は空が荒れる。今年も作物にとっては厳しい気候になりそうだ」
遠くに見える集落を睨むように見ながら、ノアリスが呟くようにそう告げた。
やがて馬車は、一つの街へと辿り着いた。場所としては海岸と王城との中間ぐらいであろうか。今日見た中では最も栄え、活気に溢れたところだとメルヴィナは思った。
「この辺りにも、よく視察に来るんだ。陸に上がったリュアの民も何人か住んでる」
話を聞いたことは、と問われ、メルヴィナは首を横に振った。
「知らないわ。海を去った人魚の記録はほとんど残らないから。戻って来たってヒトも聞かない。だから皆食べられたんじゃないかって、そんなくだらない怪談話が流行るぐらいよ」
「そりゃ酷いな。いくら飢えてるったって、オレの国でそんな蛮行は許さないさ。人魚族も、翼人族も、ついでに人間同士の共食いも禁止だ」
「……ただの与太話よ」
メルヴィナはそれだけを答えて口を閉じると、先導するノアリスについて歩く。
少し行ったところで、道端で遊んでいた一人の子供がノアリスのもとへと駆け寄って来た。
「ノア! また来たの? 暇なんだね」
おう、とノアリスが手を挙げて答える。
何やら近況や遊びの話をこれでもかと繰り広げてから、子供は満足したように、来た時と同じように勢いよく走って行った。
巻き込まれるような形で散々話に付き合わされたメルヴィナは、少し疲れたような声でノアリスに問う。
「正体は?」
「勿論隠してるさ。これでも有名人だからな、連中に妙な緊張感を与えたくない。オレはこの街が好きなんだ。だから、キミに見せたかった」
そう言ってノアリスがフードの下で笑った。
案内する、と街を歩くごとに、ノアリスはあちこちから声を掛けられる。
よくよく内容を聞くと、いずれも困りごと相談のようなものであり、一方のノアリスも飄々と躱しながら耳を傾けているようにみえる。
完全に人混みを抜けたところで、メルヴィナが呆れたように首を傾げた。
「わざわざあんたが情報収集に当たらなくても、部下の一人もいないわけ?」
「わんさかいるさ。皇帝であるオレの顔色を伺いたい奴らがな」
だから、カイルラスが翼騎士団として協力してくれて助かっている。そうノアリスは続けた。
「誰も空の民の目からは逃れられない。悪人の検挙数は右肩上がりだ。ちっとも褒められた話じゃないがな」
まったくだ、とメルヴィナはノアリスから視線を逸らし、賑やかな街を眺めた。
やがてノアリスの足は、一軒の店の前で止まった。
寄って行ってもいいか、と振り返って問うと、好きにすれば、とメルヴィナが頷く。
扉を開けると、大柄な男店主が二人を出迎えた。朗らかな笑みと、首元には乾きかけた鱗のあと。陸に上がったリュアだと一目で分かった。
「よう、久しぶり。一つもらってもいいか?」
「ああ――いや、ちょっと待て。どうせなら焼き立てを持っていけよ。お嬢さんにやるんだろ? 折角なら美味いやつを渡したい」
そう言って店主はノアリスが伸ばしかけた手を押し返した。
少し待ってから、店主が店の奥へと入っていく。すぐに戻ってきた彼の手には、湯気を立てるパンの山が抱えられていた。
「ほらよ、お嬢さん。熱いから気を付けてな」
そんな注意と共に手渡されたパンは、確かに熱を持っている。
メルヴィナは手の中の塊とノアリスの顔とを交互に見た。ちょっと、とノアリスの服の裾を引いて小声で囁く。
「まさかとは思うけど、あたしが食べるわけ?」
「ああ。問題があったか? 陸のものが食べられないってわけじゃないんだよな?」
店主に聞かれないよう、こそこそと二人が話す。
ノアリスに耳元で問われ、メルヴィナが眉を寄せた。魔力に護られたリュアは基本的には食事の類を取る必要がない。たまに嗜好品として海藻の類を食べたりはするが、そもそも人間の食べ物が海中に存在するはずもなく、メルヴィナは手の中の得体のしれないものをじっと睨んだ。
「……」
やがて、ノアリスと店主の視線に耐えかね、メルヴィナは渋々とパンを齧った。
食感は柔らかく、何よりも唇に触れる熱が温かい。口腔から鼻先に立ち込める、何やら甘いような香りに、メルヴィナは小さな息を吐いた。
「どうだ?」
「……おいしい」
ノアリスの問いに対する回答に、店主は満足げに何度も頷いた。
「そりゃ、鱗焦がして焼いた甲斐があったってもんだ」
お前も食っていけ、と店主はノアリスにもパンを投げて渡す。
大きく齧り付いて、美味い、と頷いてから、ノアリスはメルヴィナを振り返った。
「見ての通り、彼は人魚族でな。美味いパンが焼きたいって理由で陸に上がった変わり者なんだよ」
ノアリスの言葉にメルヴィナは目を瞬かせる。
「そんな理由で……?」
メルヴィナの反応を見て、店主はからからと笑った。台の上に置かれた山盛りのパンから一つを抜き出すと、程よく焼けた小麦色の表面をうっとりと眺める。
「ああ、そんな理由さ。お嬢さん、人魚族ってのは愛に生きる生き物なんだ。俺はある時、たまたま浜辺でこいつに出会った。温かくて、柔らかくて、軽くて、海にはないものだ。しかも美味いときた。それで俺は決めたんだよ。陸に上がって、全身の鱗が剥がれ落ちるぐらい美味いパンを焼いて、それで……王と一緒になって敵意メラメラさせてる他の衛兵どもの度肝を抜いてやるってな」
もう一つやる、と店主はメルヴィナに手にしたパンを渡した。
いつの間にか空になった手でメルヴィナがそれを受け取る。じっと店主の顔を見ると、確かに覚えがあった。幼い頃に宮殿内で目にしたことがある。
メルヴィナは、パンを持った手と反対の手で静かにフードを外す。その下から現れた顔に、店主は頬を掻いて苦笑いした。
「お久しぶりです、メルヴィナ姫様。ご存知ないとは思いますが、俺は元衛兵です。船を沈めることに嫌気の差した変わり者ですが、俺の作ったパンが姫様の口にも合ったってんなら、俺は陸に上がった甲斐がありました」
「海を離れることは、辛くなかったの」
そうメルヴィナに問われ、店主がまた声を上げて笑った。
「そりゃ辛いですよ。魔力は弱まるし鱗は乾く。火なんか扱ってりゃ余計にだ。だが、存外居心地は悪くない。そこの自称・放浪人が頑張って下さってるおかげじゃないですか?」
「……普通に正体バレてるんじゃない」
呆れたようにメルヴィナが振り返る。ノアリスはふいと視線を明後日の方向にやって、台からもう一つパンを取って口に運んだ。
店主が帽子を取り、メルヴィナに深く頭を下げる。
「俺は海を離れた身です。アルヴェニル王の判断に何を言うつもりもありません。ですがどうか、姉姫様方によろしくお願いします」
最後に土産にパンはいるかと問われたが、海水に浸せば折角のふわふわがダメになってしまうと、そう言ってメルヴィナは苦笑した。