ep.14 大鱗
目が覚めてすぐに侍女から聞かされた話に、セレイアは慌てて自室を飛び出した。すれ違う兵たちに挨拶を返すこともなく、王の間の扉を勢いよく開く。
「お父様、どういうことなの。人間の全海域への立ち入りを禁止する? 陸との境界に兵を配置する? そんなの、事実上の宣戦布告じゃない!」
セレイアが半分叫びながら詰め寄ると、アルヴェニル王はそれがどうかしたのかと眉を顰めた。
「最低限の宝飾も付けずそのような寝起き姿で……侍女は何をしておる」
「そんなの今はどうだっていいでしょう。どうしてこんなにも急に……戦争になれば、リュアの民たちだって無事では済まないわ」
「セレイア、このところは真面目に励んでおると思うたが、まだ思い違いをしておるようだ」
アルヴェニルはそう言って少し呆れたようなため息を吐く。側へ、とセレイアを呼び寄せると、壊れ物を掬い上げるように白い手を包んだ。
「よいか、セレイア。前提からして我らと人間共との立場は違うのだ。我らは全ての海を統べる民。リュアが滅びることがあれば、海は荒れ狂い、人間は永劫大陸を出ることは叶わん」
一方で、リュアにとっては人間が消え去ったところで何の損害もない。そう当然のように告げる王に、セレイアは唇を戦慄かせた。
「そんなの……だって、陸に上がった民はどうなるの。彼らにはもう、丘での暮らしがあるのよ」
「この期に及び、何故に大海を捨てた者共の心配をする、セレイア。海を離れた人魚族など、もはやリュアを名乗る資格はない」
アルヴェニルはそうきっぱりと言い放った。
セレイアは顔を上げ、この日初めて室内を見渡す。父の他にはいつも侍っている老人がいるばかりで衛兵の姿はない。もしくは全員大海に駆り出されてしまったのだろうかと思った。
普段よりも静かな王の間で、セレイアが首を横に振る。自らを落ち着かせるため、普段よりもゆっくりと、一語一語確かめるように言葉を発した。
「お父様……お父様は、おかしなことを仰っているわ。彼らを滅ぼしたところで一体何の利があると言うの。里には陸との交易で生活をしている者も多いわ。いくら気に食わないからって、皆本気で彼らと傷付け合いたいだなんて思うはずがない」
セレイアは握られていた手をするりと引き抜いた。じっと真っ直ぐに、玉座についたアルヴェニルの目を睨むように見る。
「なんで、どうしてお父様はそんなにも人間を滅ぼすことにこだわるの」
「お前が性懲りも無く、陸や空に憧れておるからだ」
「……え? わたしが……?」
間髪入れずに返された返答に、セレイアは戸惑いを見せる。
おもむろに玉座から立ち上がったアルヴェニルが、セレイアの腕を強く握った。微かに身を弾ませたセレイアの目を見下ろしながら、大海の王は声を低くする。
「まさか気づかぬとでも思うたか。お前が宝物のように収集する、くだらぬガラクタ。海上で浪費する歌声。挙句、このところは記録室で人間や翼人についてばかり調べておるという」
「それは、それがリュアの民にとって良いと思っているから」
そう答えながら、セレイアが視線を斜め下の方へと逸らせる。入り江での交流を決して父に気付かれるなと、そう忠言した妹の顔が思い浮かんだ。
ぐい、と強く腕が引かれ、セレイアがハッと意識を正面に戻す。
「何がリュアのためになるかは、王である儂が決める。儂の決定が海の意思だ」
最後にそうはっきりと告げて、アルヴェニルはセレイアに退出を命じた。
◇
「……姉さん、悪いことは言わないから、しばらくは入り江には行かない方がいい。海中を兵が見張ってるわ」
宮殿から離れた暗い海溝付近で、背後から掛けられた声にセレイアはゆっくりと振り向いた。
「ねえメルヴィナちゃん、わたし、間違ったことを言っている? 誰も傷付かない世界がいいと、手を取り合えたらもっと素敵なことだって、そう考えることはおかしいこと?」
「姉さん……」
「わたし、ようやく分かったの。お父様だわ。お父様が、わたしの望む世界を邪魔されている。王の決定はリュアの意思、それなら――」
「それなら、何? まさかお父様を害するとでも言うの。やめて姉さん。この状況で王を失って、民たちはどうなるの。それともノアリスに海を明け渡すつもりなの」
「……」
セレイアは無言で頭上を見上げた。
人魚や深海魚でなければ光を拾うこともできない深海で、海面の向こうの世界は当然の如く見えはしない。
それでもじっと空を見上げるセレイアの腕が不意に引かれる。メルヴィナは姉の両肩を掴むと、ようやく戻ってきた薄紫の瞳と視線を合わせた。
「姉さん、しっかりして。お願いだから落ち着いて。それじゃあ、やってることがお父様と同じよ。誰も傷付けたくないって、そう言ったのは姉さんでしょ」
「それでも……争いが激しくなれば、わたしの大切なヒトたちが奪われるかもしれないわ。ええ、きっとそう。メルヴィナちゃんも、リュアの皆も、ノアリスたち人間も、それから……私の宝物、もう二度と、誰にも奪わせは――」
「姉さん!」
セレイアの言葉を遮り、メルヴィナが甲高い声で叫ぶ。海底を這うように進んでいた深海魚が、慌てたように砂を巻き上げ去って行った。
「あたしが……お父様のことはきっと、あたしがどうにかするから。だから姉さんは、しばらくお父様に近付かないで。お願い」
姉の両手を強く握り、メルヴィナが懇願するように告げる。
しばらく黙っていたセレイアは、やがてふっと困ったように目を細めた。
「メルヴィナちゃんは、お父様のことが大切?」
「あたしはただ……姉さんに、傷付いて欲しくないだけ」
お願い、とメルヴィナが再度繰り返す。
微かに震えている細い肩にそっと触れると、セレイアは分かった、と言って頷いた。
◇
メルヴィナとの会話から数日が経った。
海底はいつもよりもぴりぴりとした雰囲気が漂っていたが、予想された大規模な陸との衝突は起こっていない。
きっとメルヴィナや、数少ない穏健派の者たちが尽力しているのだろうと、セレイアは手にした資料を記録室の棚に戻しながら考えた。
翌日、宮殿から抜け出したセレイアが海中を滑るように泳ぐ。
衛兵や魚たちの目をすり抜けるように、海溝や海草郡を複雑に経由して、目的の場所へと辿り着いた。
周囲に目を凝らしてからセレイアが急浮上し、海面付近までやって来る。切り立った崖の向こうの空を、自由に泳ぐ翼が見えた。
隠し持っていた剣の破片を取り出し、差し込む太陽光を反射させる。すぐに、落下するよりずっと速い速度で、鳶色の翼が急降下してきた。
「この場を離れるぞ」
海面すれすれで囁かれた言葉に、セレイアは水面を隔てて頷く。海上を飛ぶ影に隠れるようにして、ぴたりと彼に着いて泳いだ。
ヴァレアの集まる断崖から離れた海上でカイルラスが停止した。これより先は大陸が近く、リュアの衛兵も巡回している。
「リュアの出した宣言に対し、帝国では出兵の機運が高まっている。今年は特に作物の出来が悪い。海を封じられてしまっては、確実に食料が不足する」
前置きもなく、カイルラスが口早に告げる。セレイアは海面から顔を出して頷いた。
「ノアリスは?」
「無論、抗戦派を抑えようとしている。だが軍務卿と宰相が手を組んだ。根回しに奔走しているが旗色は悪い」
そう、とセレイアがまた頷く。先程目にした翼騎士団の張り詰めた空気が、陸の緊張感を受けてのことだと理解していた。
「カイルラス、聞いて。わたし、やっぱりお父様に思い直させるわ。そのために、取られた記憶を探しているの」
失われた魔力が戻れば、あの強大な父に打ち勝てるかもしれない。セレイアはカイルラスの目を見ながら、はっきりとそう明言した。
カイルラスがさらに高度を落とし、セレイアへと顔を近付けて声を潜める。
「王に抹消されたのではと言っていたな」
「ええ。でも、リュアにとって記憶は絶対よ。跡形も無く消え去るなんてあり得ない。だから、きっかけさえあれば必ず取り戻せるはず。今晩、宮殿の禁書庫に忍び込むわ」
表の記録室に置けない記憶が封じられた宮殿の最奥。あそこならば何かが残されているに違いない、とセレイアは続けた。
「お前の判断であれば止めはしない。だが……メルヴィナは、お前の記憶が戻ることを強く拒んでいると、以前にノアリスより告げられたことがある」
「ええ、気付いているわ。だからわたしを、お父様から遠ざけようとしている。お父様とお話ししていると、いつも血がざわめいて自分を抑えられないから」
セレイアが海中から片手を出した。
差し出された水滴の滴る手を、カイルラスが下から掬うように取る。セレイアは反対の手で包むようにして手を握り返した。
「カイルラス、わたし、前に言ったわよね。わたしはきっと、何かいけないことをした。それを知るのが怖いって」
「ああ、覚えている」
端的にカイルラスは答え、それ以上口を挟むことをしなかった。
そのことに、セレイアは嬉しそうに目を細めて礼を告げる。
「あのね、本当は違うの。わたしは、記憶を取り戻すこと自体が怖い。鱗が治れば、あなたがお友達だと言ってくれた『夢想家』のわたしで無くなるかもしれない。お父様みたいに、愛する血筋を守るために他者を害することを何とも思わない、そんな残酷なリュア王家の血が、わたしには色濃く流れているんだもの」
「それでも過去を探すか?」
カイルラスはさほど間を置くことなく、表情を変えずにそう返した。
セレイアが目を瞬かせる。止めないことも問い詰めないこともあなたらしい、そう言ってくすくすと笑った。
「ふふ、わたし、あなたのそういうところが大好きだわ。わたしの進みたい道に向かって、いつも背を押してくれるもの。あなたの翼があれば、わたしはもっと速く海を泳げる。大海を統べる一族として、この争いをきっと止められるわ」
そう言ってセレイアは胸を張り、カイルラスの手を包んでいた両手をそっと離した。
カイルラスは自らの手のひらへと視線を落とす。開かれたそこに、美しく透明に輝く一枚の鱗が残されていた。
「これは?」
「人魚の身体に一枚しかない、一番大切な鱗よ。強い魔力を持つの。それを身に付けている限り、あなたが海に殺されてしまうことはないわ」
折角なら宝飾品にでも加工できれば良かったのだけれど。そう続けてセレイアは苦笑した。
海中の傷跡に指先で触れる。先程急いで鱗を剥がしたそこは、まだほんの僅かに血を滲ませていた。
カイルラスが微かに眉を寄せる。傷を見せろという男に、大丈夫だと笑い、セレイアは差し伸ばされたままの手をそっと押し返した。
「あなたにわたしを、覚えておいて欲しいの」
傾きはじめた日が、色素の薄い髪を橙色に染める。
カイルラスは、そっと拳を握って鱗を包み込むと、反対の手の指先で透き通る金糸を梳いた。
「ああ、この身が空に還るその瞬間まで、お前を忘れたりなどはしない。空の民は、一度置いた信頼をそう簡単に損ないはしない」
「だってヴァレアは、友を尊ぶ一族だもの」
頬に降りてきた手に自らの手を触れさせて、セレイアは自信ありげに答えた。
リュアの姫に理解されるとは、どうやら交流の甲斐があったようだ。そう珍しく揶揄うような物言いをして、カイルラスが目を細める。
「俺は、ヴァレアの長であり、人間に仕えるべき騎士だ。相手がお前でもない限り、海に興味を持つことなど生涯なかっただろう」
「それは……この上ない賛辞だわ、カイルラス。ねえ、その鱗があれば、きっと海は受け入れてくれる。あなたと海中だって飛べるかもしれないわ」
「悪くはない。お前の愛する美しい世界を、いつかこの目で見てみたいものだ」
ふっとカイルラスが微笑む。
二人の間には数秒の静寂が流れ、それを裂くように遥か遠くで嵐の起こる音がした。
セレイアとカイルラスは無言のまま目配せし、互いに背を向ける。ばさりと羽音がすると同時に、セレイアがちゃぷんと頭まで海に潜った。
薄い水面を隔てて、天空と海底へ、二つの身体が離れていく。どんどん暗くなる海中で、セレイアは背後を振り返ることはしなかった。